3. 王道のかわいさ、赤い小さな訪問者
自然科学園の奥は、しんと静まり返っていた。
さっきまでダンゴムシやカマキリであんなに騒いでいたのに、急に自然が「静かにしろ」と言っているみたいだ。
「学生くん……感じないか……?」
「え、教授、何か来ます? なんですかその“霊感アイドル”みたいな語り口は!?」
「かわいい気配だ!」
「それ絶対幻覚ですよね!?」
佐伯さんが、ゆっくり僕の肩を叩いた。
「大丈夫。教授の“かわいいレーダー”は当たるわ。……まあ、方向はだいたい間違うけど」
「佐伯さん! 最初の安心を返してくださいよ!」
そんな掛け合いをしていると、教授が突然バッと指を伸ばした。
「学生くん! あそこだ!!」
「うわっ!? な、なにが!? 教授、いきなり点呼取らないでください!」
「点呼ではない。“天呼”だ!」
「いやもう意味わかんないです!!」
しかしその指先の先――、葉っぱの上に、ちょこんと赤い丸がのっていた。
「……テントウムシだ」
赤くて丸い、完璧なフォルム。
思わず息を呑む。
「学生くん……王道だぞ……」
「その“王道だぞ”って言い方、完全にラーメン屋の親父ですよね?」
「かわいい界の、だ!」
「“界”ってなんですか“界”って!?」
佐伯さんも腰を落とし、そっと指を伸ばした。
「優しく近づいてみて。テントウムシはね、音より気配に敏感なの」
「え、気配!? なんか忍者みたいに言うじゃないですか!」
「実際、飛ぶタイミングが絶妙なのよ。逃げ足は昆虫界トップクラス」
「逃げ足がトップのかわいさってあるんですか?」
「あるに決まってるだろう、学生くん!」
「当然みたいに言わないでください!」
そんなツッコミの間に、テントウムシは佐伯さんの指先に、ぽす、と乗った。
「……かわ……」
言葉にならなかった。
本当に、赤い子は無抵抗に、完璧にかわいかった。
「学生くん、“かわ”が出たな!」
「教授、なんですかその“かわ反応センサー”みたいな扱い!」
「“かわ”は初期反応だ。そこから“かわい”から“かわいい”と段階的に成長していく!」
「教授、それ完全にあなたが今作りましたよね!? 勝手に進化表にしないでください!!」
すると、佐伯さんが指を差し出してくる。
「学生くん。そんなことより、触ってみて」
「緊張する……」
「大丈夫よ。優しく手を出してあげて」
僕はそっと指を伸ばす。
テントウムシは小さくためらったあと、てて……てて……と、僕の指へ移ってきた。
(え……歩き方までかわいい……)
「顔が完全に“推しを見つけた人”になってるわよ」
「佐伯さん、そんなこと言われたら余計に意識しちゃいます!」
教授が満足げに頷く。
「学生くんよ……君は今、かわいい昆虫学の扉を開いたのだ」
「扉勝手に作らないでください!」
「しかも自動ドアだ!」
「教授の学問のドアはだいたい壊れてるんですよ!」
テントウムシは僕の手の上を少し歩くと、小さく翅を震わせ、飛び立つ準備をした。
「……あ、飛ぶ?」
「学生くん、見ておけ。ここが“かわいいのクライマックス”だ」
「教授、クライマックスとか言わないで! なんか感動する気構えになっちゃうじゃないですか!」
次の瞬間――、テントウムシはふわりと浮き、太陽の光を受けて赤く輝いた。
その背中は、小さなランタンみたいに明るい。
そして、ひらり、と空へ。
「……行っちゃった……」
「学生くん、良い別れだったな」
「別れを重く描かないでくださいよ!!」
「表情が恋の終わりのようだったのでな」
「そんな表情してました!? 僕、テントウムシに恋してたんですか!!?」
佐伯さんはくすっと笑う。
「恋じゃなくて、かわいいに心を動かされたのよ。……それって、学ぶうえで一番大事なことよ」
「佐伯さん……やっぱり優しい……」
「教授が暴走してもね」
「和香くん!? そこは“暴走しても支えるわ”と言うところでは?」
「教授、わたしは事実を淡々と述べただけです」
「淡々と傷つくんだなぁ、わたしは!」
教授が胸を押さえて嘆いている隙に、僕はそっと空を見上げた。
赤い点はもう見えない。
でも不思議と寂しくなかった。
(……かわいいって、こんなに世界の見え方を変えてくれるんだ)
胸の奥がほんのり熱くなる。
そして教授が手を叩いた。
「よし学生くん、研究室に戻るぞ! 今日のデータをまとめるのだ!」
「教授、データって……僕、“かわいい”しか言ってませんよ?」
「それこそがデータだ!」
「教授の研究基準ゆるすぎません!?」
「かわいい学は心の科学だ!」
「また新ジャンル作ってる!!!」
佐伯さんが僕の腕を軽く引いた。
「行きましょう、学生くん。教授はああ見えて、有能だから」
「……“ああ見えて”って言いましたよね、今!?」
そんなふうに笑いながら、僕たちは研究室へ戻る道を歩きはじめた。
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