逃避衝動エネルギー

 私が助手席に座ると、亨おじさんはガレージのシャッターを閉めた。ガレージ内の電球が、室内をほんわりと照らしている。

 亨おじさんが、目を閉じた。


「シートに背中を預けろ。ヘッドレストに後頭部をしっかりつけて。そんで、目を瞑る」


 彼に言われるままに、私はシートに深く沈んで、瞼を閉じた。この軽自動車は、ガレージに置かれているだけ。でも亨おじさんの隣に座ると、不思議と本物のコックピットのように感じられた。


「シートベルト、締めたか?」


 亨おじさんの声が続いた。


「白い月が見えるだろう」


「月……」


 瞼の裏は、真っ暗だ。そんな暗闇の中に、ぽつんと、満月をイメージする。月が浮かぶと、閉じた視界は夜空になった。月は白く、静かに、私を見つめている。

 隣では亨おじさんも同じ月を見ているように、呼吸を合わせていた。


「アポロ軽11号が浮かぶぞ。ほら、さん、にー、いち」


 亨おじさんのカウントに合わせて、私は座席が浮く想像をした。ふわふわふわと、ゆっくり、オンボロ軽自動車の車体が空を飛ぶ。


「浮いてる。車なのに、地面から離れてる」


「そうだ。現実から切り離されれば、重力もなくなる」


 亨おじさんの落ち着いた声がする。


「周りにはなにが見える?」


「ええと……」


「目を開けたらいかんぞ。推進エネルギーが失われるからな」


 私は目を閉じたまま、頭の中のイメージを膨らませた。夜空を飛ぶ、タイヤのない軽自動車。月に向かって突き進む。冷たい夜の風、星の光、薄墨色の雲、真下に広がる地上の街明かり。


「きれいな夜空。少し寒くて、それがまた空気をキリッと、凛とさせてる。街が小さくなって、屋根が積み木みたい」


「そうだろう。ああ、乱気流が来るぞ。しっかり掴まれ」


 亨おじさんの言葉を受けて、私は車が揺れる感覚をイメージした。強い風が、抜けた窓から吹き付けてくるのを想像すると、まるでジェットコースターに乗ったみたいな、わくわくと怖さが混じった気持ちになった。


「ひゃあ、あははっ」


 風に吹き上げられて、高度が一気に上昇する。私たちが暮らす街は、みるみる遠くなって、光の粒になった。

 亨おじさんがまた、私に声をかける。


「乱気流が去った。さあ、雲を抜けるぞ」


「白い海みたい。冷たいのに、なんだか安心する」


「雲は境界線だ。もうすぐ月に着く」


「月が近づいてる。大きい」


 亨おじさんの声かけを聞くと、本を読んでいるみたいに、頭の中に映像が浮かぶ。目を閉じた私の視界には、クレーターの開いた月面が広がっていた。

 イメージの中の亨おじさんが、さて、とステアリングを回した。


「着陸するぞ」


 しゅう、と、車が地べたに降りた。アポロ軽11号が、月に着陸した。見知らぬ月の景色を想像する。目を閉じていても、見える。私の心の中には、灰色の大地と、青白い光に照らされた世界が広がっていた。私は亨おじさんに尋ねた。


「誰もいないの?」


「いや、いる。月の住民が、こっちを見てる」


「どんな姿をしてるの?」


「様々だ。月では、誰だって好きな自分になれる。なににだってなれるから」


 そう言われて、私はウサギや小鳥、大きな獣、タコみたいな不思議な姿の宇宙人の姿を思い浮かべた。背丈も形もまちまちで、丸い頭に触角のようなものを持つ者、透明な体で内側に星屑が瞬いている者、紙細工のように折り畳まれた体を持つ者――どれも人間とは違う姿なのに、不思議と恐ろしさはない。

 そんな多種多様な月の民たちが、オンボロ軽の周りを囲んでいる。亨おじさんが、彼らに挨拶をした。


「どうも、皆。今日は姪を連れてきた」


「亨おじさん、この人たち、知り合い?」


「もちろん。俺は何度も月に来てるからな」


 月の住民たちは、私を囲み、月面に柔らかな光の輪を広げていった。それは歓迎の印だと、私にも分かった。胸の奥が温かくなる。


「喜んでくれてる」


「そうだ。ここの人たちは、あんたを傷つけない。俺みたいなはみ出し者も、ここなら誰にもなにも言われない」


 亨おじさんも、運転席で肩の力を抜いて、薄く笑みを浮かべていた。

 光る月面の光る花、見たことのない動きをする月の住民。建物はうねったヘンテコな形。金平糖みたいな星屑がぱらぱら降ってきて、爆ぜると光の粉になる。不思議な風景を頭の中に広げて、広げれば広げるほど、家族のことも、学校のことも、忘れられる。


「私にも、居場所、あるんだ」


「あるさ。俺たちがここに逃げてきたから、ここにある」


 亨おじさんはそう言って、小さくため息をついた。


「さて、そろそろ地球に戻るか。あの婆さんが公民館に行ってから、地上時間三十分近く経つ。戻ってきてしまう」


「う……」


 ファンタジックな月の景色を思い浮かべていた頭の中に、おばあちゃんの顔が浮かんでしまった。現実に引き戻される。


「帰りたくない」


「でも、俺が公民館に行けと嘘ついたの、婆さんにバレてる。戻ってきたら怒髪天だ。俺といると、あんたも一緒に巻き込まれて怒られるぞ。さっさと家に帰ったほうがいい」


「それは嫌だけど。でも、折角、月に来たのに。いいなあ、亨おじさんはいつもひとりでこんな素敵なところへ来ていたんだね。ずるい」


「あんただって、本を読んで現実逃避してたんだろう?」


「そうだけど」


 本を読んで現実から逃げていても、亨おじさんの宇宙船で夢想を広げていても、結局はこうして現実に戻らなくてはいけない。でも、今日はなんだか特別な気分だった。亨おじさんと会話でイメージを膨らませていくのが、楽しかった。

 亨おじさんは、ん、と短く喉を鳴らしてから、言った。


「そんなら、今度から月に行きたくなったら、またこのラボに来るといい」


「本当?」


 私は思わず、目を開けた。次の風景は一瞬にして立ち消えて、代わりに、雑然としたガレージの景色が広がった。亨おじさんも、瞼を上げた。


「ああ」


「そんなこと言ったら、明日にでもすぐに来るよ」


「好きにしろ」


「うん。また、月に行きたい」


「月が綺麗ですね」という言葉の裏には、「I love you」の意味がある。私の「月に行きたい」には、「私の心の内を打ち明けても受け入れてくれた、亨おじさんと話していたい」という意味がある。

 亨おじさんに伝わったかは、分からない。かの有名な「月が綺麗ですね」だって、汲み取れる人でないと伝わらないのだから。

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2025年12月18日 20:01
2025年12月19日 20:01
2025年12月20日 20:01

月にでも行こうや 植原翠/新刊・招き猫⑤巻 @sui-uehara

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