黄色い車と灰色のガレージ
古い廊下は、亨おじさんが踏みしめるたび、ミシミシと唸った。
彼ののっぺりした背中を追いながら、私はだんだんと体を強張らせていった。月? 月にでも行こうやって言った? どういう意味?
亨おじさんの引きこもり部屋、すなわちガレージに連れて行かれる。断ればよかったのに、なんだかよく分からない流れで急に言われて、混乱して、つい「はい」と答えてしまった。
玄関から出て、ガレージが見えてくると、頭が回ってきた。引きこもりの独身のおじさんの、秘密基地。男好きなんて噂を流された私。おじさんは、私をガレージに連れ込んで、なにをするつもり……?
おばあちゃんは公民館へ行って、いつ帰ってくるか分からない。お母さんはここには寄り付かない。お父さんが帰ってくるのは夜だ。亨おじさんと自分ふたりきりなんて、怖い。今からでも引き返したほうがいい。
でも、今更逃げ出そうとしたら乱暴に捕まえられるかもしれない。従っているふりをして、隙を見て逃げるべき?
警戒する私を、亨おじさんは振り向きもしない。今なら逃げられるのではないか、と、そう思ったとき、亨おじさんがガラガラと、ガレージのシャッターを開けた。
シャッターの向こうに見えた光景に、私は目を疑った。
ガレージのど真ん中に、タイヤのない黄色い軽自動車がある。
ボロボロに傷ついた、見るからに古そうな車だ。もう車は処分したと聞いていたのに、タイヤの抜けた車が、ガレージの中心にどんと鎮座しているのだ。
「えっ!? な、なにこれ」
車の周りは、パソコンや周辺機器、ケーブル、工具、本と、ごちゃごちゃしている。その混沌とした空間の中、黄色い自動車が圧倒的な存在感を放っている。
「ガレージの中を見せたのは、あんたが初めてだ」
亨おじさんがガレージに踏み込んでいく。この珍妙な光景を見たら、私は、それまで抱えていた不安や恐怖が一旦リセットされてしまった。
ガレージの前で棒立ちになっている私を、亨おじさんが振り向く。
「あんたさ。俺みたいなのについてきちゃだめだぞ。誘った俺が言うのもなんだけど。なにされるか分かんないぞ」
「それは私だって思った。おじさんキモいし、変態っぽいし」
「おい」
「それは置いといて、これはなに? なんで車があるの? タイヤがないし、これじゃ走れない」
あまりにも意味が分からなくて、亨おじさんとの会話が雑になる。亨おじさんは、タイヤのない車の運転席に乗り込んだ。
「このガレージは、宇宙船開発のラボだ」
「宇宙船?」
「あんたも乗れや。月に連れてってやる」
「月……」
訳が分からない。まだガレージ内に踏み込めずにいる私を、亨おじさんは車の中から見ていた。よく見たらこの車には窓ガラスもない。
亨おじさんは運転席のシートに背中を沈ませた。
「さっきの話だけど。あんた、あの婆さんにいつもあんなふうに嫌味言われてるのか?」
「あっ……」
急に現実的な話をされて、我に返った。咄嗟に顔を伏せる私を、亨おじさんはガラスのない窓から細い目で眺めている。
「テキトーに嘘ついて、逃げればいいのに。さっきの俺みたいに」
「嘘? ええと、公民館に呼ばれてたっていうのは、嘘だったの?」
私がそこまで言うと、亨おじさんはため息とともに目を瞑った。
そうだったのか。亨おじさんは、おばあちゃんの攻撃から私を解放するために、おばあちゃんを公民館へと追い出した。自分が怒られるだろうに、あんな嘘をついたのだ。
「助けてくれたんですか」
「見ててしんどかったから」
亨おじさんが車内の天井を仰ぐ。
「俺がガキの頃も、ああやって母さんに詰められてた」
「おじさんも?」
「まあ俺は、学校行きたくなくても、母さんがああだから嫌々行ったけど」
この人のことは、不気味な引きこもりおじさん、としか認識していなかった。けれど、なぜだろう。話してみたら、思ったよりも怖くない。おばあちゃんやお母さんより、ずっと、私の話を聞いてくれる。
私も、亨おじさんの話を聞いてみたくなった。
「月に行くって、どういう意味なんですか?」
たとえば、夏目漱石の「月が綺麗ですね」みたいに、別の意味があるのだろうか。しかし亨おじさんは首を横に振った。
「言葉のまんまだ。月に行く。いつもは俺ひとりで行ってたけど、あんたも行ける素質があると見込んで、誘った」
「どうやって行くんですか?」
「これに乗るんだ」
亨おじさんは、車のステアリングをぽんと叩いた。
「こいつはアポロ軽11号。俺が作った、月まで飛べる宇宙船だ」
なにを言っているのだろう。変な人だとは思っていたが、ますますもって不思議である。でもいきなり嘘だと否定するわけにはいかず、私は黙って聞いていた。
亨おじさんは私の怪訝な面持ちを窺いつつ、続けた。
「ボディとして使ってる素材が軽自動車なのは、サイズ的にちょうど良かったのと、手に入りやすかったから。ぶっちゃけなんでもいい。動力さえ積めれば」
「うん」
「タイヤは必要ない。宇宙船だからな」
意味が分からない。分からないけれど、その分からなさが心地よい。荒唐無稽なファンタジーとか、空想で描かれたSFとか。そんな、誰かの頭の中で作られた、架空の世界を見ている気分だ。現実から、私を引き離してくれる。
「亨おじさんは、このガレージに籠もって宇宙船を作っていたんですか?」
「そうだ。あんたと同じくらいの年頃に構想を練って、働くようになってから資金を用意して。言っとくが、今も在宅の仕事で自分で稼いで、その金は家に入れてるし、これのメンテにも充ててる」
運転席の窓から見える亨おじさんの横顔は、どこか、遠くを見つめていた。私は一歩、ガレージの中に踏み出した。
「これ、どうやって飛ぶの?」
「この船は通常の化学燃料を使わない。推進の原理は逃避衝動エネルギーだ」
ガレージの中には、ぱらぱらと紙が落ちていた。亨おじさんが書いたらしい、難しい式が書き込まれている。亨おじさんは、窓からこちらに顔を向ける。
「逃避衝動エネルギー、Escapism Drive Energy、略してEDE。人間の脳波には、現実から離脱したいと願うとき特有の解離的周波数が発生する。これを船体に組み込んだ認知共鳴炉で収束させ、量子虚構場へと変換する」
「ん? え?」
「量子虚構場が形成されると、船体は通常の物理法則から部分的に切り離され、心理的慣性フレームに従って移動する。それで月までの軌道遷移を可能にする」
「え……え?」
亨おじさんの言葉は、私には半分以上理解できなかった。目を白黒させる私に、亨おじさんが言う。
「小娘にも分かりやすく言うと、現実逃避の力で飛ぶ宇宙船ってことだ。逃げたいという強い願望そのものが、推進剤となる」
そこまで言われて、やっと理解した。これは、亨おじさんのシェルターだ。
当たり前だが、この廃軽自動車のようなものが宇宙船なわけがない。全部、亨おじさんの夢想。
亨おじさんの中でこれを「宇宙船」ということにして、中に入って、宇宙へ飛び立つ空想をする。そうやって現実逃避をするための、心のシェルターなのだ。私が本の世界に逃げ込むのと同じ。
「なるほど。それなら私も月に行けそう」
「そうだろう」
亨おじさんは私の境遇を知って、俺も同じだと、自分もこうして現実逃避をしているのだと、教えてくれたのだ。
「まあ、とりあえず乗ってみろ。危ないものじゃないし、帰ってこられるから」
「うん」
私はようやく二歩目を踏み込み、アポロ軽11号の助手席の扉を開いた。
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