ただ、恋愛をするだけの話――リングを降りた君と 第三部

円つみき

第1章 「Bar Silva Noctis」

 怜美はデスクに手帳を置き、携帯電話を耳に当てた。

「一席、空けておいてくれる?」

 静まり返ったオフィスに、怜美の声が響いた。

 すでに夜も更け、オフィスには怜美を残したままになっていた。事務スペースの照明は落とされ、怜美のデスクがある役員室のみに明かりがともされていた。

 電話を切ると、銀縁の眼鏡を軽く押し上げて立ち上がった。

 深い紺色のスーツ。結い上げた髪は、うなじまで乱れがない。

 三十代半ばを越えたその姿は、どこか疲れていて、けれどどこか張りつめている。

 プロレス団体「ブレイズ」の副社長として働く島津怜美しまづれいみは、今日も残業を終えたところだった。


 金山駅近くの事務所を出て、地下鉄に乗り込む。

 向かう先は名古屋駅だった。

 そこから少し離れた裏通りにあるバー、「Silva Noctis(シルワ・ノクティス)」。

 その扉を開けた。

「シルワ(森)」「ノクティス(夜)」という名の通り、店内はまるで森の中に迷い込んだかのような落ち着きがあり、ウイスキーやリキュールの瓶が並ぶカウンターには、二人のバーテンダーが確かな手さばきでカクテルを作っていた。


「いらっしゃいませ」と声をかけるのは電話の応対をしたバーテンダーの山崎だ。

 背が高く、そのスマートな振る舞いとハンサムな顔立ちに、この山崎を目当てに来店する女性客もいるようだ。

 シルワ・ノクティスは二人のバーテンダーと、アルバイトの女性一人で訪れる客をもてなしていた。

 15席ほどのカウンターには数人の客が座り、山崎が愛想よく対応している。

 ボックス席は3テーブルあり、客が多い時にはこの席も埋まるほどだ。

 店内は温かみのある柔らかな灯りが広がり、深みのある木材と、革張りの家具が醸し出す落ち着いた雰囲気が漂っていた。


 怜美は軽く会釈すると、促されるままカウンターに腰を下ろした。そこには「Reserve/予約席」と書かれた札が静かに怜美を待っていた。

「今日は何になされますか?」

 そう問いかける山崎だが、怜美が何を注文するかは分かっていたはずだ。怜美がこのバーで、一杯目にそのカクテル以外を口にすることはなかった。

「マンハッタンをお願い」

「かしこまりました」

 シルワ・ノクティスのオーナーがこの二人のバーテンダーを雇う前からも、怜美はこのカウンターで飲むマンハッタンが気に入っていた。


 「どうぞ。マンハッタンです」山崎が慣れた手つきで仕上げ、その言葉とともにコースターの上にそっと置いた。

 「うん。ありがとう」

 一杯目には緊張がある。ショートのカクテルグラスを目の前にして、わずかな胸の高鳴りを覚えていた。

 店内の照明がその赤色に深さを与えていた。甘く味付けをされたチェリーがピンに刺さり、グラスの底に静かに沈んでいる。

 ――どうしてマンハッタンにはチェリーが添えられているのかしら。

 毎度、一杯目を前にするとそんな疑問が頭をよぎった。しかし、一度口をつけてさえしまえば、疑問があったことすらも忘れてしまい、次の来店まで覚えていない。


 怜美はグラスをそっと手に取り、ゆっくりと一口つけた。

 鮮やかな赤が、引き締まったアルコールの辛さを運ぶ。その奥にあるほろ苦い香り、そしてそれをまとめる淡く柔らかな甘み。…そのいつもの味に、この日ようやく口元がゆるんだ。ふぅ、と一息つくと、深い柔らかな香りに全身が包まれているような錯覚に陥った。

 

 数口飲むと、気づかないうちに仕事のことを考えてしまう。――興行の運営、スケジュール管理から、レスラーたち一人ひとりの心身のケアまで。

 忙しさにかまけて、いつしか恋愛から遠ざかっている自分。孤独感が怜美の背中を冷たく撫でた。

「こんな生活で、本当にいいのだろうか」ため息が自然とこぼれた。


 ふと、バーテンダーの山崎と目があった。山崎は怜美よりも幾分か年下で、彼のさわやかな印象は怜美にも好感を持たせていた。

 その山崎が、なぜかいつもより楽しげに見える。

 怜美は、添えられたピンを指先で軽く回しながら問いかけた。

「何かいいことあったの? 山崎君」

「ええ、実は後輩たちが来てくれてて」

 そう言われて、彼の視線の先を追った。


 ***


 澤田尋斗さわだひろとはジントニックに口をつけた。

 隣には、すでに酔いつぶれてカウンターに伏せている永瀬と、さらにその隣には頬杖を突いて永瀬を眺める久保がいる。

 久保はあきれ顔で、うなだれながらも聞こえているはずの永瀬に呟いた。

「まだ始まってもないのによー。何で今から落ち込むんだよ」

「わかってるよぅ。だって、どうしたらいいんだよぅ」

「そんな顔してると、酒がうまくないだろ?しゃきっとしろよ」

「だってさぁ」永瀬は顔を上げずに答えた。

 澤田が口を挟んだ。

「久保もそのくらいにしてやれよ。さ、もう一杯飲もう」そう言うと、永瀬の肩を軽くたたいた。「ほら永瀬も、そろそろ起きろよ」

「澤田ぁ。わかってくれるのはお前だけだぁー」永瀬はようやく顔を上げたが、その顔色は良くはなかった。

「うわ!抱きつくなよ!……だからさ、また、あの店に行こうよ。まずは声をかけて見ようよ。な?永瀬」首に手を回そうとする永瀬を振り払いつつも、穏やかになだめた。

「澤田。お前はいつも永瀬に甘いよな」

「久保が厳しすぎるんだよ」

「澤田ぁぁぁ…」

「だから抱きつくなって」


 こんなやり取りは今日何回目だろうか。

 大雑把だが、情熱的な久保。

 頼りなく見えて、実は頭が切れる永瀬。

 そして、控えめだが面倒見のいい澤田尋斗。

 個性的な三人だったが、学生時代から一緒にいることが多かった。大学を卒業して六年、二十八歳になった今でも酒を酌み交わしている。

 この日の話題は「永瀬の一目惚れの相手にどう近づくか」だった。しかし永瀬はすでに失恋したかのように、一軒目から一人でヤケ酒を始めてしまった。

 久保はあきれ、澤田がなだめる。

 二人は永瀬を引きずるように一軒目を出て、共通の先輩・山崎がバーテンダーをしている「Silva Noctis(シルワ・ノクティス)」に流れてきていた。


「おい永瀬、グラスが空だぞ。山崎先輩、俺、何かスコッチをロックでお願いします」

「久保ぉ、お前は飲む酒までかっこいいなぁ。僕はもう飲めないよ……先輩、モスコミュールください」

「飲めるじゃねぇかよ!」

「久保がこわいよう」

 こんな2人のやりとりが、澤田には心地が良かった。

 苦笑いを浮かべた山崎がステアをしている。そのバースプーンを眺めながら――今日のことも、そのうちに笑い話になるはずだと澤田は思っていた。


 澤田は最近、この「シルワ・ノクティス」に何度も通っていた。

 頻繁に通うには、理由があった。

 それは確かに山崎もいるし、久保や永瀬と飲むためでもあるのだが――本音を言えばそれだけではなかった。

 ——もしかしたら、あの人がまた来るかもしれない。

 そんな希望が澤田の胸にはあった。


 彼女を初めて見たのは、数ヶ月前のことだった。

 銀縁の眼鏡、深い色のスーツに身を包み、引き締まった背筋はまっすぐに伸ばされていた。

 マンハッタンのショートグラスをゆっくりと口に運ぶ。

 グラスの脚をつまむ指先は、体温が酒に移らないように支えている。その仕草が美しさを形づくっていた。

 カウンターの端で、彼女のその姿を目にした瞬間、澤田は息を飲んだ。映画のワンシーンが切り取られたように、計算されたような美しさを澤田は感じた。

 グラスに一口つける――たったそれだけの動作に、澤田には時間が止まったように見えていた。

 このとき、澤田の心はこの女性に奪われた。


 これまでにも、声をかけようとしたことはあった。

 しかし、彼女の柔らかさのない表情と、どこか張り詰めた空気――それに、自分より幾らか年上に見えたことが、澤田をためらわせた。

 手が届かない、と思った。自分のような平凡な男が話しかける理由すらない。

 これが恋なのかどうか、自分でもわからない。

 ただ、店を訪れるたび、彼女の姿を探し、偶然見かければ胸がざわつき、気づけば目で追っていた。


 そして、山崎が澤田のそんな様子に気づくたび、低い声でそっとささやいた。

「澤田、顔に出てるぞ」

 そのときだけは、山崎はバーテンダーではなく、大学時代の先輩であり友人の顔をしていた。


 ――そして、この日。


 まだ始まっていないのに失恋をしたような永瀬と、あきれ顔だがどこか楽しげな久保を隣に、澤田はジントニックに口をつけていた。


 カウンターの内側では山崎が一瞬手を止め、電話を耳に当てていた。短く静かに応答し、うなずくと電話を切った。

 澤田の二つ隣の席……カウンター中央の席に「Reserve/予約席」と書かれた札が静かに立てられる。

 札の位置を整えた山崎が、ちらりと澤田を見た。澤田はその視線に気づきもしない。ただ、山崎の口元がわずかに緩んでいた。


 ボックス席からは女性二人の軽い笑い声が響く。カウンターではアルバイトの女性が客と談笑している。

 久保は、永瀬に女性の口説き方を力説しながらウイスキーグラスの氷を鳴らし、永瀬はその方法を論理的に否定しながらモスコミュールを傾ける。


 澤田も二杯目のジントニックが底を見せ始め、次は何を頼もうかとグラスを持ち上げた。

 そのとき――。

 ガチャリ、と扉が開く音が聞こえた。


「いらっしゃいませ」

 山崎が客を迎え入れた。その声に、なぜか澤田には柔らかさが混じっているように感じられた。

 視界の端で、スーツ姿の女性がゆっくりと入ってくる。

 銀縁の眼鏡が、照明を一瞬だけ反射した。その光が澤田の目に飛び込んだ。

 すべてが、澤田の胸に刻まれていたイメージと重なった。

 振り返りたい。だが、振り返れば気づかれる――そんな焦りが背筋を固くさせ、心臓の鼓動を早くさせた。

 ――グラスを持ったまま、視界の端でその動きを追い続けた。

 ……間違いない。

 彼女だった。

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2025年12月27日 21:00
2025年12月29日 21:00
2025年12月31日 21:00

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