先輩のメガネ

見咲影弥

本編

 先輩のメガネになってみたい、なんて言っていたあの頃のことをふと思い出します。


 先輩、というのは吉田先輩のことで、僕が所属していた生徒会の先輩です。あの人と初めて会ったときは、正直なところとっつきにくいなーと思いました。ザ・真面目くんって言うイメージで話しかけにくくて。定期テストは学年一位だって聞いたのでますます。生徒会でも自分から動くし、期日までには必ず仕事を終わらせる。すごい、というより怖いって印象の方が勝ってました。


 学ランのボタンはきっちり上まで留めているし、毎日忘れず腕時計を着けています。生徒会に属するものは常に生徒の模範でなくてはならない、などという文句を鵜呑みにしたようなテンプレートな外見。トレードマークはなんといっても四角い黒縁メガネ。そのメガネの奥で冴え渡る眼光も威圧的に見えました。

 先輩には完璧という言葉が一番によく似合っていました。でもその完璧が崩れるところに、僕は惹かれたんです。


 ほら、ギャップ萌えってあるじゃないですか。普段スーツの先生がラフな格好をしているとか、強面のおじさんが我が子にメロメロとか。そういうのに弱いんです、僕。


 

 先輩のお茶目、というか間抜けな一面とか、ただ真面目なだけじゃないところを見るとぐっと来るんです。

 一番は、先輩が生徒会室でうたた寝しているのを見たときですかね。椅子にもたれかかって、力が抜けたみたいに寝てました。だらしない寝顔で。先輩も、こういう顔するんだって。


 あとは、リリコさんから先輩のおもしろエピソードを教えてもらうときです。リリコさんは新しい生徒会長で、先輩の幼馴染でもあります。いわゆる腐れ縁だよ、と先輩がぼそっと呟くと、リリコさんは幼馴染!と訂正します。

「吉田くん、この前ビニール袋に話しかけてたんだよ。可愛いなぁって」

「犬だと思ったんだよ」

先輩は頬を赤らめながら弁明してます。先輩は両目とも0.1を切るらしく極度の近眼らしく、メガネなしでは視界がぼやけて見えるそうです。その間抜けさも尊いけれど、犬に可愛いって言えちゃうところも狂おしいほど愛おしいと感じるのです。


 もっと、先輩の近くで見たいなって思うようになりました。じゃあ、先輩の一部になればいいじゃないかって、妄想するようになりました。

 そのとき、まっさきにメガネが思いついたんです。

 メガネって目が悪い人にとっては必須アイテムじゃないですか。よほどのことがない限り毎日身につけるものです。寝る時以外はずっといっしょにいられる。

 先輩のメガネになれたら、なんて冗談交じりに思っていました。



 よっ、桜沢、と先輩はいつも登校中に声を掛けてくれました。先輩とは通学路が途中から一緒です。今日もこうして、先輩が来るのを見計らって、曲がり角から飛び出しました。別に食パンはくわえていないのでセーフです。

「先輩! 偶然ですね」

たとえ偶然にしては出来すぎた状況でも、こちらが偶然と言い張れば既成事実にできるはずです。先輩も、ああ、そうだな、といつも通りの返事をしてくれました。

 あの日も、ひと足早く家を出て先輩を舞っていました。そんなときの、あの事故です。後ろから居眠り運転のトラックに突っ込まれまして……。転生モノで擦り尽くされた悲劇が、まさか自分自身に降りかかるなんて思ってもいませんでした。




 こうして僕は、16歳という短い生涯を終え、次に目を覚ましたとき、僕は先輩と添い寝していたのです。――嘘です。目覚まし時計と同じ棚に置かれていました。

 先輩が寝ぼけ眼で僕を手に取り、顔に装着したことで、僕は自分がメガネになったことを悟りました。

 僕は俗に言う、「転生」をしたようです。異世界ではなく、現代ですが。

 僕の意識はどうも、ツルに宿っているみたいです。視界はツルの範囲でなら自在に見渡せます。内側に意識を向けると、先輩の顔を凝視できるし、逆に周りの様子を見たいときは、ぐっと重心を外に寄せるようにするとうまくいきます。ヒンジの部分に意識を集中させると前だって見ることができます。でも、その意識をレンズ部分まで持っていくことができないのです。僕の守備範囲はあくまでツルの部分だけというわけです。神様は願いには忠実なようです。


 森羅万象に魂が宿るという言説があるように、メガネのツルを含むありとあらゆるものに個々の意識があったとしても不思議ではありません。現に、こうしてツルが意識を持っているわけですから。レンズにも別の魂が宿っているんじゃなかろうか、と考えたのですが、それを確かめるすべがない。僕には口がないのです。何かを伝えるための手段を持たない。テレパシーで通じるんじゃないかと大真面目に考えて交流を試みてもやっぱり無理でした。


 そんな試行錯誤をしているうちに先輩は動き始めました。顔を洗い、制服に着替え、朝食を食べます。朝はトースト派なんですね。一緒だ。先輩は制服に落ちたパンくずを乱雑に払います。

「もう、ユウくん」

お母様らしき方が甲高い悲鳴をあげますが、先輩は何ら気にしない素振りです。反抗期でしょうか。先輩にもそういう一面があるんですね。おうちではユウくんって呼ばれてるんですね。可愛い。――分かりましたか?これがギャップ萌えというやつです。

 あ、お母様、本日付けで先輩のメガネのツル担当になりました。桜沢です。今後ともよろしくお願いします。

 そういえば、先輩は冬服になっています。僕が軽トラにはねられたときは、まだワイシャツ一枚だったはずなので、何日か時間は経過しているのでしょう。カレンダーにちらりと目をやったところ、驚きました!どうやら、僕が死んでから二月が過ぎているみたいです。その間、僕はどうしていたのだろうかと言うのが全く記憶にないのですが、おそらくは物に宿るための準備期間なのでしょう。細かく考えたって仕方ないような気がして考えるのをやめました。それよりも僕が気にしたのは、先輩が僕のことを覚えているだろうかということです。先輩は僕が死んで、悲しんだでしょうか。泣いてくれたでしょうか。先輩の泣き顔が見てみたかったし、何なら僕の死をトラウマとして植え付けて、一生僕のことを忘れないようにさせたかったのに。とんだ誤算です。


 先輩はいつもより少し早く、家を出ました。それからいつもと違うルートを通って先輩はある交差点へと出ます。ここ、僕が死んだとこじゃないですか。

 電柱の真下には、まだ真新しい花が供えられています。ありがたいですね。

 先輩は手を合わせて、一分ほどそこを離れませんでした。今、先輩の顔を見るのは反則のような気がして、きまりが悪いので交差点の方を眺めています。

 届いてますよ。先輩の祈り。


 先輩はそれから学校に向かい、朝一番で生徒会室に行きました。眠そうに扉を開け、誰もいない部屋でお気に入りの席に座ると、いつものようにメガネを外し、机に突っ伏してうたた寝を始めます。これが先輩のいつもの日課らしいです。僕はその様子をただじっと見つめています。こんな至近距離で先輩の寝顔を見られるなんて、眼福です。

 生徒会室は、旧校舎の四階にある、教室の半分ほどの狭さの部屋です。辺鄙な場所に追いやられています。部員は、生徒会長、副生徒会長を含めて生徒会執行部は二十人程度。一応部活の名目なので幽霊部員もちらほら。定例会のメンバーがギリギリ入ることができるキャパです。

 内申点狙いという打算のもと友達と入部した生徒会執行部ですが、気づけば同期は僕を含めて十人足らずに減っていました。誘ってくれた友達も二ヶ月でやめてしまいましたが、それでも僕が残っていたのは、先輩がいたからです。僕は先輩に憧れていました。

 リリコさんには役職を進められたこともありましたが、断りました。先輩も役職にはついていないからです。

「生徒会長とか副会長とかは目指してないの?」

役職につくには生徒会の選挙に出なければいけません。あいにく僕には票をもらえるほどの人望もないし、皆を導くほどの統率力もありません。執行部として陰ながら役員を支えるのが性に合っている気がしました。そう、まさに先輩みたいに。僕は、先輩のような縁の下の力持ちになりたかったんです。

 メガネのツルになっても、先輩のように、先輩のために尽くしたい、そう思いました。僕はメガネのツルとしての役割に誇りを持って先輩の日常をサポートすることを心に誓いました。



 かくして、先輩との同棲生活が始まったのです。


 誰が何と言おうと、これは同棲です。異論は認めません。僕は合法的に、先輩と触れ合うことができるようになりました。だって仕方ないじゃないですか。メガネのツルである以上、先輩の耳に支えてもらわねばならないのです。僕は先輩の体温をそこで感じ取ります。知ってますか、耳って……やめておきましょう。


 とにかく、僕は先輩に最も近い場所で、先輩のことを見ることができるようになったのです。

 正直最初はなんでツルなんだよって思いましたけど、今じゃ感謝しています。もし僕がレンズだったら、先輩がメガネを付けている限り僕はずっと凝視されるわけじゃないですか。想像しただけで照れます。恥ずかしい……。顔から湯気が出て、レンズを曇らせてしまいます。

 でも、ツルだったら先輩の真横から見ることができるんです。先輩は僕のことなんか気にも止めません。至近距離で何の不都合もなく先輩をまじまじと見つめることができるんです。なんて素晴らしい。神様も分かってらっしゃる。僕は前世でどれだけの徳を積んだのでしょう。


 僕は今日も、ツルの内側に意識を傾け、先輩の凛々しい横顔に見惚れています。

 先輩と一緒に過ごすようになって、先輩を見る目がまた少し変わったような気がします。

 先輩は完璧な人です。でも、天才型ではないのです。その完璧さは努力の賜物だったと知りました。学年一位の成績だって、半端じゃない勉強量によって築かれたものです。多分人の二倍はやっています。テスト前は机から離れません。誰よりも努力を積み重ね、皆の前で完璧を演じている――なんて健気なんだろう。いじらしささえ感じる始末です。

 他を挙げるなら、先輩はもっと物を大切に扱う人だと思っていました。でもお風呂に入る時なんかは洗面台に乱雑にメガネを放り投げていきます。こういうさりげない仕草に人間性が出ると言いますが、いくら完璧な先輩でも家では隠しきれないんだなと知ると、微笑ましい気もします。


 ちょっとだらしなくて、抜けていて、情けなくて、でも、生真面目で、努力家で――。普段見ていた先輩より、ずっと人間らしい、そんな素顔に触れると胸が高鳴るんです。


 先輩は時々メガネに向かって話しかけてくれます。先輩の数少ない奇行のひとつです。レンズを拭きながら、先輩はメガネのことをおまえと呼びます。

「おまえとももうすぐ二年だな」

 僕が宿ったこのメガネは、高校入学と同時に買い替えたものだといつだったか聞きました。

「丸メガネがいいってリリコがふざけ出して大変だった」

先輩は懐かしそうに目を細めています。僕の知らない思い出。二人の間に、僕が入る余地などないのだ、と思い知らされたような気がして。ツルになってからずっと一人ぼっちですが、この日はことさら疎外感を覚えました。

 最終的にリリコさんが真剣に決めたメガネにしたそうです。特徴は、ツルの内側のエメラルドグリーンの装飾。おしゃれというほどではないけれど、髪の隙間から覗いたとき、いいアクセントになっています。先輩は最後に僕をメガネ拭きで包んで丁寧に皮脂汚れを取ってゆきます。

「俺って丸メガネ、似合うんだろうか」

先輩の独り言ですが、僕に向かっていっているようにも聞こえました。先輩なら、何でも似合います。丸メガネの先輩もちょっと見てみたかったな、なんて。先輩には、届かないですよね。



 そんな風に日々を過ごしていた、ある日のことです。

 その日は先輩の様子がいつもと違いました。

 先輩の鼓動が、メガネのツルにまで伝播してきます。先輩は誰かを待っていました。しきりにスマホの液晶をタップして、落ち着きなく体を揺らしています。なんだか、先輩らしくない気もします。ご丁寧に目隠しシートを貼っているせいで横からは見ることができません。先輩もそういうものを見るんだって、少し安心しました。ヒンジの部分に視点を持っていくと、見えました。リリコさんとのトーク画面。


「放課後、生徒会室に来てほしい」

リリコさんからのメッセージです。

……今日は確か定例会もない日ですし、ここ最近はこれと言って生徒会の活動はなかったはずです。悪い予感がしました。


 そのときです。ガラッと音がして、生徒会室にリリコさんが入ってきました。ぜーぜー息を吐いています。四階まで急いで昇ってきたのでしょう。

「ごめん、先生に荷物運ぶよう頼まれちゃって。待たせちゃった?」

生徒会長たる者の宿命です。仕方ありません。それは、先輩も重々承知している筈。

「ううん、全然。さっき来たところ」

バレバレの嘘をつきます。

「嘘が下手すぎ」

リリコさんにも見抜かれてます。


「ユウくん」

リリコさんが、先輩の下の名前を呼びます。ユウくん。

生徒会室には先輩とリリコさんの二人きりです。厳密に言えば、魂としての僕もいるわけですが、彼らは僕の存在を知りません。完全に二人きりだと思っているからか、どこかいつもより親しげにリリコさんは先輩に話しかけます。

「実はね、ずっと前から言いたかったことがあるんだ」

先輩の鼓動がどくどくと鳴り響きます。僕は、リリコさんの意図に気づきました。何ならもっと前から、気づいてました。


「あたしね、ユウくんのことが――」


聞きたくなかったです。耳をふさがせてほしかった。

耳を塞ぐ手がないことに、そもそも耳さえないことに、僕は絶望しました。


冴え渡る空の色に滲み出した暖色の陽光が二人の顔を染めてゆきます。僕には刺々しい冬の空気も、二人の前では柔らかく緩みました。黄昏色に染まる世界が今、この瞬間壊れてしまえばいいのに。そう思いました。僕のしょうもない願いを叶えたのだから、それくらいしてくれたっていいじゃないですか。

 

 でも、現実は残酷です。

 神様は僕の肩を持たなかった。


 先輩の唇が動きます。


「俺も、リリコのことが」


 

 好き。


その二文字が、鈍い余韻を残します。


「ずっと……その言葉を待ってたんだよ」

リリコさんは泣き笑いみたいな顔をして、先輩にしがみつきました。先輩の胸に、リリコさんが顔を埋めます。僕は彼女のことを見ることができず、ただひたすら、先輩の横顔を見ていました。こんなに近くにいるのに、どうしてでしょう。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような痛み。心臓なんてもうない筈なのに。なくても、ただ苦しいのです。僕の魂には、まだ痛覚があるのでしょうか。



 初めて、己の不運を呪いました。

 己の願いの愚かさを知りました。

 声を持たないモノになんて、ならなきゃよかった。


 しかし、いまさらどうにかできる話ではありません。僕の身体は既に現世では消失しています。僕にできることと言えば、メガネとしての寿命を全うするまでなのです。

 僕はもう、覚悟を決めていました。

 どんなことがあれ、先輩のメガネとして、先輩を構成するひとつとして、先輩を陰ながら支えようと。



 * 

 季節は恐ろしい勢いで巡り、先輩たちは三年生になりました。

 生徒会選挙で新しい会長・副会長が決定し、リリコさんと先輩は生徒会を引退します。

「とうとう世代交代だね」

とリリコさんはしみじみ言います。この時期から、受験勉強も本格化していきます。先輩は参考書につきっきりになる時間が増えました。でも、帰りはリリコさんと一緒です。生徒会を引退した今、二人はもうただの恋人です。この前なんかは二人でコンビニに行ってましたね。アイスを買って、駐車場でだべって、家の前で別れる、そういう微笑ましい関係。別れ際、リリコさんは寂しそうに先輩の袖を掴みます。耳元に溜まった汗がツルを濡らします。じめっとした夏の空気が二人を包みます。リリコさんは何かを求めているような、そんな目をしていました。

「また明日会おう」

先輩はリリコさんをやんわりと振りほどきます。リリコさんはバツが悪そうに、でも微笑みを崩さず、手を振ります。


 二人で勉強しに図書館に行ったりなんかもしていましたね。先輩は集中して勉強していたけど、リリコさんは五分おきに、先輩をちらちらと見ていました。明らかに集中できていません。ときどき、僕のことを凝視しているんじゃないかと思うほどまじまじと先輩の横顔を見ています。でも、先輩はそんな視線に気づきもしません。リリコさんは、少しだけ、悲しそうな顔をしていました。



 制服が秋服に移行する頃、先輩はリリコさんに呼び出されました。

 校舎裏には、既にリリコさんが待っていました。先輩の冷たい汗が、額から滴り落ちます。

 

「話って何」

話なら帰り道にできるじゃないか、そう言いたげに先輩は言います。

 「白々しいよ」

もう、分かってるくせに。リリコさんは困ったように笑っています。伏し目がちなリリコさんの目に宿るその決意は、もう、取り返しがつかないのだということを語っていました。


「ねぇ、あたしたち、別れよっか」

リリコさんは淀みなく言い切りました。

先輩は鈍感すぎたんです。僕でさえ、その兆候は見えていたのに。

「ずっと前から、小三の頃くらいから、好きだったんだ。いつか、ユウくんに告白されて、この先もずっと隣に君がいるんだろうなって思ってた。でも、君にとって私はただの幼馴染でしか、なかったんだね」

リリコさんは、ポツリと言いました。

「あたしはもっと、特別にされたかったんだ」

先輩の目線は、幼馴染を見る目から少しも変わらなかった。恋人としては見られていないのだと、リリコさんは察したのでしょう。


「……今からでもやり直せる?」

先輩の言葉は情けないです。痛々しくもあります。

「今更、もう遅いよ」

リリコさんははっきりと、けれど、優しく、穏やかに先輩の言葉を振りほどきます。

「ごめんね、コウくん。あたしの恋愛ごっこに巻き込んじゃって」


リリコさんは充血した目を拭って、一人で教室に戻っていきました。先輩は独り、取り残されます。

 もうすぐ人肌恋しくなる季節がやってきます。独り残された先輩に、ただそっと寄り添ってあげたいと思うのは僕のエゴでしょうか。振られたばかりの傷心につけいろうだなんて、最低です。それでも、僕は……。


 *

 先輩は推薦であっさりと地元の大学に進学を決めました。受験番号を探すときの先輩はいやに落ち着いていました。リリコさんに告白されたときより、振られたときよりずっと冷静でした。

 リリコさんも都会の大学に合格したそうです。人づてにその噂を聞いた時、先輩の眉尻がほんの少し下がったような気がします。


 卒業式の日、先輩の制服姿もこれで見納めかと思うと、目に焼き付けておかないといけません。先輩はこの日から、コンタクトをするようになりました。高校と一緒にメガネも卒業ということでしょうか。

 先輩がなぜメガネをやめたのか、正直なところ僕も分かりません。来たる大学デビューに備えて、垢抜けようとしているのでしょうか。おしゃれに目覚めたとしても不思議ではないですけど、今までの先輩なら何かとこれが一番楽なんだよね、とメガネのままでいるんじゃないかと思っていました。それ以外の理由もあるような気がしました。

 

 先輩はリリコさんとの思い出を手放そうとしているのかもしれない。

 それなら、お役御免でもかまわないです。

 先輩が前に進もうとしているなら、僕はそれを応援するまでです。



 それから、僕の出番はめっきり減りました。先輩がメガネをかけるのはお風呂上がりから寝るまでと一日家にいるときぐらいです。先輩が僕と外に出ることはほとんどなくなりました。


 春休み。何の予定もない先輩はふらりと外に散歩に出かけます。目当ては特にないみたいですが、多分近場のコンビニで買食いです。コンビニまで行く分には、メガネのままで行くみたいです。

 コンビニのスイーツコーナーを吟味していると、ふと、他の買い物客と目が合いました。リリコさんです。まさかこんなところで会うとは。さあどうする、先輩。


 でも、先輩が動くより先にリリコさんの方がアクションを起こしました。


「やっほ」

リリコさんは若干気まずそうに手を上げます。お互いだるだるのスウェット姿です。お似合いじゃないですか。


「なんだ、メガネしてるじゃん」

やめたのかと思った、とリリコさんはあっけらかんと言ってのけます。

「これは、別に」

先輩は珍しく口ごもります。どこかぎこちない二人の会話はそれでも断続的に続きます。


 結局、二人してコンビニで肉まんを買いました。うん、いい匂いです。コンビニの窓ガラスによりかかって、先輩は肉まんにかぶりつきます。先輩のメガネは曇ります。それを見たリリコさんはきれいに笑って、それから負けず劣らずの大きな一口。

「今年最後の肉まんになるかも」

中華まんは春の終わりと共にお店から姿を消します。

「春も終わっちゃうね」

「ああ、そうだな」

もうすぐ、新しい季節がやってきます。二人の歩む道は、ここで分岐します。

「リリコの引っ越しはいつなの」

「来週の金曜。そうだ、荷物運ぶの手伝ってよ」

「時給1,500円なら考えてやらんでもない」

「ケチ」


二人ともいつもの調子が戻ってきたみたいです。なんだか僕まで嬉しくなっちゃいます。


「満開だな」

ぽつりと先輩が呟きます。二人の目の先には春の象徴が見えます。桜です。肉まんを食べ終えた二人は並んで、絶妙な距離感のまま歩き始めました。

「そういえば、桜沢くんって子、いたよね」

リリコさんから唐突に僕の名前が出てきました。すかさず先輩の表情を追います。

「ああ、いたなぁ」

嬉しい。覚えてくれてました。

「ユウくんが可愛がってた子」

「うん、犬みたいな奴だった」

「あたしより恋人みたいに扱ってたよね」

「あれは、兄弟みたいなノリだって」

「えー、内心やいてたんですけどー」

そうだったんですか。知りませんでした。

「あの子が先輩って呼んでたの、ユウくんだけって気づいてなかったの?」

「えっそうなの」

先輩は素っ頓狂な声を出します。

「あたしのことでさえ、さん付けだったんだんだから」

先輩は尚も驚いた表情をしています。まったく、鈍いですね。僕が貴方に向けていた感情を言葉にするならば、敬愛、なのでしょうか。そういうことにしていたいような、していたくないような。


「また、あの子のお墓参りに行かない?」

リリコさんの提案に先輩は頷きます。

「うん、そうだな。俺も、あいつに会いたい」

先輩の哀しげな横顔を見ると、苦しくなります。

 

 先輩、僕はずっと、貴方の一番近くにいます。

 今もこうして貴方に触れて、貴方の体温を感じている。貴方と同じ世界を見ている。この世界を貴方と共有していることが嬉しくて、そのことを貴方が知らないのが、どうしようもなく寂しいです。


 やがて僕は、貴方との思い出とともに、棚の奥で眠りにつくのでしょう。

 それでもいい。だけど、ときにはあの頃のことを思い出して、僕に触れてほしいです。とりとめもない日常のこと。ほろ苦い青春のこと。貴方の思い出す過去に僕がいなくたってかまわないから。


「あのね、あたし、思うんだ」

リリコさんは、ためらいがちに告げます。

「桜沢くんは多分、ユウくんのことが――」


――好き、だったんじゃないかな。


自分でさえ定義できなかった、しそこねたままだった感情を、リリコさんはあまりにもはっきりと、いとも容易く、言葉にしてしまいます。ああ、そうだったんだ。それでいいんだ、って。今更ですよね。


はらり、と花びらが先輩の肩に舞い落ちました。先輩は花びらをつまんて、風に乗せてその一片を空に送り返しました。真っ青な空に花びらは舞い上がってゆきます。

「もしかして、あれ、桜沢くんだったりして」

リリコさんがおどけて言いますが、違います。僕はここにいます。

「かもな」

先輩も真に受けないでくださいよ。僕はこっちです。こっちこっち。


「おーい、桜沢ー!聞こえるかー」

先輩は声を張り上げます。だから、ここにいるって。そんなことしなくても聞こえますから。


「俺もおまえのこと、そこそこ好きだったぞー!だから早く成仏しろー!」


本当に、先輩は鈍感です。無神経で、分からず屋です。

僕はこんなに近くにいるのに。僕は先輩の体温も息遣いも分かるというのに。

僕の言葉は、僕の思いは、先輩には届かない。百歩譲って物の気持ちが分からないとしても、人間だった頃の僕の気持ちを少しは考えてください。


本当に先輩は鈍感で、不器用で、間抜けで、大バカ野郎で、知れば知るほど屑で、それでも――。それでもそんな先輩のことが、僕は――好きでした。







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