崖の誓い


 ——即位六ヶ月、冬——


 王都アウレリアのスラム街を歩きながら、リアムは靴が路地の泥濘でいねいに沈むのを感じていた。

 昨夜の雪が溶けて泥になり、一歩踏み出すたびにぬかるみの冷たさが足裏から染み込んでくる。


 粗末な家々が、身を寄せ合うように密集している。

 木と藁で作られた壁は隙間だらけで、冬の風が容赦なく吹き込んでくる。

傾いた屋根には、雨漏りの跡が黒くこびりついていた。

 空気は冷たく湿っており、焚き火の煙と汚水の匂いが混ざり合って鼻をつく。

 

 人々はボロボロの外套や毛布を纏って寒さに震えていた。

 痩せた顔、くぼんだ目には、飢えと疲労の色が濃く刻まれている。

 

 スラムの一角に置かれた大きな鍋で、リアムは木の椀にスープをよそって並ぶ民衆に配る。

  野菜と穀物を煮込んだ、質素だが温かいスープからは湯気が立ち上っている。

 椀を手渡すたび、民衆の顔がほんのわずかに緩む。

 それだけが、リアムにとっての救いだった。


「はい、どうぞ」

老婆が震える手で椀を受け取り、か細い声で言った。

「いつもありがとうねえ、リアム」

「いえいえ。温かいうちに飲んでください」


 次に並んでいたのは、小さな子供だった。五歳くらいだろうか。母親に手を引かれ、こちらを見上げている。

 リアムは目線を合わせるためしゃがみ込むと、子供が小さな声で尋ねてきた。


「お兄ちゃん、これ、おいしいの?」

「ああ、おいしいよ。たくさん食べて、大きくなれよ」


 子供が嬉しそうに椀を受け取るのを見て、リアムは小さく息をついて立ち上がり、次の人へスープをよそった。

 列はまだ長く、数十人がじっと順番を待っている。


 その時、若者たちが数人、焚き火の周りの人垣を抜けて近づいてくるのが見えた。年齢は自分と同じくらいで、十代後半から二十代前半といったところだ。

 痩せていて服はボロボロだが、その目には飢えとは違う強い意志の光が宿っていた。

 その中の一人、エミールが声をかけてきた。


「リアム、また配ってるのか」

振り向いて笑顔で答える。

「ああ。今日は野菜がたくさん手に入ったからな。売り物にならない状態だったから、貰えたんだ」

トマスがスープの鍋を覗き込みながら言った。

「いい匂いだ……余ったら、俺たちももらっていいか?」

「もちろんだ」


 エミールが横に来てリアムを手伝いながら小声で言った。

「リアム、聞いたか? また王が増税を決めたらしいぞ」

 リアムの手が一瞬止まったが、すぐにスープをよそう作業を再開した。

「……そうか」

 

 トマスも苦々しい顔で続ける。

「先王様は、民思いだったのに……」

 その言葉に、周りで並んでいる民衆も静かに頷いているのが見えた。

 先王アルフォンスは確かに民を想い、スラムにも足を運んで民の声を聞いた王だった。


 老婆が鍋の湯気を見つめながら呟く。

「だが、今の王は違う。増税ばかりで、食糧も不足して高騰しておる。……まるで、先々王の治世に戻ってしまったみたいじゃ……」


 スープをよそいながら、リアムは胸の奥がざらつくのを感じた。

「……いや、何か理由があるはずだ」

 エミールが眉をひそめた。

「理由?あんなの、ただの暴君だろ」

 

 リアムはスープの椀を渡してから、エミールを見た。

「アレクは、そんな奴じゃない。俺が一番よく知ってる」

 トマスが首を傾げるのが見えた。

「お前、王と知り合いなのか?」

「ああ。幼い頃からの、親友だ」


 周りにいた者たちが驚いたような表情を見せるのを感じながら、リアムは続けた。幼い頃の記憶が脳裏に浮かぶ。

「アレクは……優しい奴だ。困っている人を放っておけない。弱い者を守る覚悟がある。そういう奴なんだ」


 エミールは半信半疑の表情だった。

「でも、今の王は……」

「わかってる」

 拳を握る。

「でも、きっと……何か、理由があるんだ」

(あいつは、変わってしまったわけじゃない)


 皆それ以上何も言わなかった。リアムの表情があまりにも苦しそうだったからだろう。

 その後もスープの配布は続いた。リアムは変わらぬ笑顔で一人一人に椀を手渡していたが、胸の奥では、釈然としない気持ちが静かに渦巻いていた。


 手を動かしながら、あの日の記憶が脳裏に蘇っていた。

 (あいつは……あの時の約束を、忘れたのか……?)

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。思わず拳を握りしめる。

(……いや、きっと違う)

 あの優しかったアレクは、変わっていないはずだ。きっと、何か理由がある。

 なぜなら――あの日、約束したのだから。



 ◇ ◇ ◇


——七年前、春、王都近郊の森——


 森の中を歩きながら、リアムは木の枝を剣に見立てて振り回していた。ふと、後ろから聞こえてくるアレクの息遣いが、いつもより荒いことに気づく。

「待てよ、リアム!」


 振り返ると、アレクが膝に手をついて荒い息をしていた。顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。

(しまった、また無理させちゃったか)

 慌てて駆け寄り、気遣うようにアレクの背中を軽く叩いた。


「ごめん、ごめん。無理すんな。休もうぜ」

「ありがとう」


 アレクが苦しそうに、それでも笑うのを見て、胸が少し痛んだ。

 生まれつき病弱で、激しい運動をするとすぐに息が上がってしまう。それを知っているのに、つい夢中になってしまう。


 二人は並んで、森の奥へと歩き始めた。

 リアムは王宮の兵士の息子で、時折、王子の遊び相手として連れてこられていた。最初は身分の違いに緊張していたが、アレクと一緒にいると、そんなことを忘れてしまう。


「なあ、アレク」

「ん?」

「お前、将来、王様になるんだろ?」

「……まあ、そうなるかな」

 その答えは、どこか他人事のようで、アレクの声が少し沈んだように聞こえた。


「すごいよな。王様って。だって、国全部を動かせるんだろ?それって、すごいことじゃん」

 リアムは目を輝かせて言ったが、アレクは少し考えてから、小さく笑った。

「じゃあ、リアムは英雄になれよ」

「え?」

「俺が王になったら、お前は最高の騎士になれよ。……国を守る英雄にさ」


「いいな、それ!」

 顔がぱっと明るくなった。胸の奥が熱くなって、思わず拳を握る。

「よし、決めた! 俺、絶対に英雄になる!」

 アレクが笑っているのが見えた。

 (アレクと一緒なら、なんでもできる気がする)


 二人は森の中を歩き続け、やがて崖の縁に辿り着いた。

 風が吹き抜け、足元の草がさわりと揺れる。

 眼下には王都アウレリアが広がっていた。赤い屋根が連なり、市場には人々が行き交い、遠くには王宮の白い塔が見える。

 陽の光に照らされて、街全体がきらきらと輝いていた。


「うわぁ……きれいだな」

 思わず息を呑んだ。

「ああ」

アレクも王都を見つめているのが見えた。


 しばらく二人で景色を眺めていると、アレクが口を開いた。

「なあ、リアム」

「ん?」

「俺、王になったら……誰も泣かない国にしたいんだ」

「誰も泣かない……?」

「うん。みんなが笑って暮らせる国」


 リアムはアレクの横顔を見た。真剣な目をしている。

(アレクは、本気なんだ)

 ゆっくりと頷いた。

「いいな、それ。じゃあ、俺も手伝うよ」

「本当?」

「当たり前だろ! お前の親友だぞ、俺は」


アレクの顔がふっと明るくなるのが見えた。

「ありがとう、リアム」

「……でもな、アレク」

「ん?」

「たくさんの人を笑顔にするのは、一人じゃ無理だぞ」

真っ直ぐにアレクを見つめた。


「だから二人で、この国を……みんなが笑っていられる場所にしよう」


アレクがリアムの目を見返してくる。その目には迷いがなかった。

「……ああ。約束だ」

二人は小指を絡ませた。幼い指と指がしっかりと結ばれるのを感じながら、リアムはアレクの声を聞いた。


「二人で、みんなが笑って暮らせる国にしよう」


 森に風が走り、木々がざわめいて葉が舞った。

 その瞬間――アレクの足が、崖の縁の石に取られるのが見えた。

「あっ!」

 アレクの体が、崖の下へと傾いていく。


 リアムは考えるより先に体が動いていた。

 両手でアレクの手首を掴む。強く、強く。

 全体重を後ろにかけながら、歯を食いしばって引き上げる。

 アレクの体が宙に浮いたまま、ぐらりと揺れた。

 視界の端に、深い谷底がちらつく。

 もし落ちたら――


(絶対に、離さない!)

「離すな、アレク!」

 リアムの声が震えた。

「リアム、手を離せ!お前まで落ちる!」

 アレクの叫びが耳を打つ。

 それでもリアムは、歯を食いしばって応えた。


「馬鹿言うな!お前は、俺の親友だ!俺は、親友を、見捨てない!」

 両手でアレクの手首を掴み、全体重を後ろにかけて必死で引き上げる。

 腕が悲鳴を上げる。手の感覚が、消えかける。

 それでも、離すもんか。

 少しずつ、少しずつ、アレクの体が崖の上へと引き上げられていく。

 そして――二人は草の上に倒れ込んだ。荒い息が、しばらく重なった。

 

 荒い息をつきながら、リアムはしばらく空を見上げていた。

(危なかった……)

 横を見ると、アレクが涙目でこちらを見ているのが見えた。

「……リアム」

 アレクの声は、まだ少し震えていた。

「ありがとう」


 リアムは大きく息をついてから笑った。

「当たり前だろ。さっき、約束したばっかだろ」

 少し間を置いて、付け足す。

「……一人じゃ、無理だって」

 

 アレクが涙を拭っているのが見えた。

「ああ」

「だからさ……俺が、お前を守る。決めた」

 リアムは力強く言った。

「どんなことがあっても、お前の味方だ。絶対に、お前を守る」


 アレクがもう一度リアムを見つめてくる。その目には、疑うことを知らない信頼があった。

「……ありがとう」

 その一言が、胸の奥に静かに染み込んでいった。

(この約束は、一生忘れない。絶対に守る)

 そう心に誓った。



 ◇ ◇ ◇


——現在、即位六ヶ月後、夜、スラム街——


 スープの配布を終え、焚き火を囲みながら、リアムは決意の表情を浮かべていた。


「俺、アレク……陛下に、俺らの現状を伝えようと思う」

 胸の奥で、ずっと押し込めてきた思いが、ようやく形になった気がしていた。

 それが正しいかどうかは分からない。ただ、もう黙ってはいられなかった。


 エミールが驚いた顔で振り向いた。

「え……お前、本気か?」

「ああ。陳情する。俺らの現状の声を直接届ける」


 トマスが不安そうに言った。

「でも、できるの?……リアムの友達だからって、聞いてくれるとは思えない」

「それでも、やってみる」

 気持ちが伝わるよう、真っ直ぐに見つめ返す。

「何もしないよりは、マシだ」


 若者たちはしばらく沈黙していたが、やがてエミールが立ち上がった。

「じゃあ、俺たちも協力する」

 トマスが続く。

「……そうだね。僕らの声でもあるんだし、」

 焚き火の向こうの民の方を一度だけ見てから、リアムを見た。

「リアム一人に、任せっきりじゃ駄目だ」


 他の若者たちも次々と頷いた。

「俺も」

「俺も協力する」

 リアムは一瞬言葉を失って、みんなを見回した。

「みんな……いいのか?」


「当たり前だろ。お前は、いつも俺たちを助けてくれるからな」

 エミールは少し照れたように笑った。

「だから今度は、俺たちの番だ」

胸の奥が、じんわりと熱くなった。

「ありがとう」


 トマスが尋ねた。

「で、どうする? 王宮に突撃するのか?」

「いや」

 リアムははっきり首を横に振った。

「突撃じゃない。合法的な手段で、民の声を届ける。それが陳情だ」

 

 エミールが首を傾げる。

「合法的……って?」

「書類を作るんだ。皆の声を集めて、書面にまとめて、陛下に提出する。それが陳情書だ」


 トマスが困ったように言った。

「でも、俺たち、字が書けないぞ」

「大丈夫」

 微笑んで答える。

「書けない人は、拇印を押せばいい。指に墨をつけて、紙に押す。それで、ちゃんと意思表示になる」


 若者たちは顔を見合わせた。

「それなら、できるな」

「ああ。たくさんの声を集めようぜ!」


 その夜から、嘆願書作りが始まった。

 小銭を出し合って買った少しだけ綺麗な羊皮紙に、皆で相談しながら文章を書いていく。

 一文字一文字に必死な想いを込めながら、自分たちなりに丁寧に言葉を選び、精一杯の敬意を込めた文章を書き上げた。


『王都の民より、陛下への嘆願。

 我々は、日々の生活に苦しんでおります。増税により、食べるものにも事欠く有様です。

 どうか、どうか、民の声をお聞きください』


 次の日になると、仲間たちがそれぞれ声を掛け合い、賛同した民衆が次々と集まってきた。

 スラムの住人たちだけでなく、商人、職人、日雇いの労働者——みんな貧しく、苦しみを抱えながら生きている人々だった。


 文字が書ける者は名前を書き、書けない者は拇印を押した。

 墨を指につけて紙に押す。

 黒い指紋が一つ、また一つと紙に残る。

 拇印が増えていき、数百の名前と拇印——それは数百の助けを求める声となっていった。


 その中の一人、ハンスという若者が拇印を押しながら言った。

「リアム……本当に、陛下は聞いてくれるのかな」

 リアムは少しだけ間を置いて答えた。

「わからない。アレクにも、何か考えがあるのかもしれない」

 正直にそう言った。

 

「でも、やらなきゃ、状況は何も変わらない」

 ハンスは頷き、嘆願書を丁寧に巻きながら言った。

「……どうか、届いてくれ」


 若者たちは希望の小さな芽が灯ったのを感じ、互いに顔を見合わせて頷いた。

 焚き火の炎が揺れて、羊皮紙に記された数百の想いが赤い光に照らされて浮かび上がる。

 リアムはその嘆願書を胸に抱き、明日、王宮へ向かう決意を新たにした。

 

(アレクは、きっと聞いてくれる。あの時の約束を、まだ覚えているはずだ)

 彼の胸に抱かれた羊皮紙は、数百の民衆の切実な声であり、同時に、親友への信頼の証でもあった。



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偽りの暴君、王座より革命を命ず ~親友に討たれる覚悟で、腐敗した国を救う~ 朔月 滉 @sa9tsukiko

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