黒の書

 

 —— 同日深夜 ——


 王宮の秘密書庫へ続く隠し扉を開け、アレクシオスは石造りの壁に囲まれた小さな空間へ足を踏み入れた。

 四方を取り囲む蔵書の棚から古い羊皮紙と埃、インクの混ざった匂いが鼻を突き、テーブルの上の燭台だけが唯一の灯りとなって揺らめく炎が壁に長い影を落としている。


 椅子に腰を下ろすと、王の礼服の代わりに着ている簡素な黒い服の袖を直し、髪を束ねていた紐を解いた。金髪が肩にかかり、全身に疲労が重くのしかかるのを感じながら、目の前に置かれた黒い革装丁の分厚い書物——"黒の書"を見つめる。父が遺したこの書物が、この国の最後の希望であり、自分に地獄への道を示している。


 扉が静かに開き、イザベラが入ってきた。黒い外套を纏い、その下には黒鴉騎士団の制服を着ている。長い黒髪を後ろで結い、鋭い紫の目でこちらを見据えながら、彼女は静かに一礼した。

「陛下」

 低く冷静な声だった。アレクシオスは手で椅子を示す。

「座れ、イザベラ」

 言われた通り椅子に腰を下ろすと、イザベラは懐から羊皮紙の束を取り出してテーブルに置いた。


「陛下、ゲルハルト公の武器横流しの証拠を、新たに入手しました」

 羊皮紙を手に取り、蝋燭の光にかざしながら目を通す。

 帳簿の写しだった。日付、数量、納品先がすべて記録されており、証拠としては十分だった。

「よくやった。まだ泳がせておけ」

(証拠だけでは、奴らを粛清できない。民の怒りが最高潮に達し、革命が育つまで——すべての証拠を集め続けるしかない)


 イザベラは静かに頷いたが、わずかに眉をひそめるのが見えた。

「……陛下。この計画、本当に……」

 声がわずかに震えている。彼女が感情を表に出すのは珍しいことだった。

「不安か?」

 イザベラは答えなかった。その沈黙が、すべてを物語っていた。

 アレクシオスは小さく笑った。自嘲に近い笑みだ。

「当然だ。俺だって不安だ」

「……え?」

 イザベラの目がわずかに見開かれるのがわかった。


「この計画は、完璧じゃない」


 黒の書に手を置くと、冷たい革の感触が手のひらに伝わる。

「父上でさえ、成功を保証できなかった」

 蝋燭の炎が揺れ、二人の顔に影を落とす。イザベラが息を呑むのが、かすかに聞こえた。

 アレクシオスはゆっくりと黒の書を開いた。



 ◇ ◇ ◇



 ページをめくる音が静寂の中に響く。

 父王の遺言の続き——試行錯誤の記録と未完成の計画のページだ。

 力強く書かれている文字も、最後のほうは震えている。

 アレクシオスはその文字を見つめ、声に出して読み始めた。


「『この国の腐敗は、四公爵が原因だ。

 先々王への恨みが、彼らを団結させた。

 私が王となった時、すでに国は彼らのものだった』」

 ページをめくる。


「『ゲルハルト公は軍を私兵化し、

 ヴァレンシュタイン公は経済を握り、

 ランゴバルト公は食糧を支配し、

 シュタウフェン公は法を操る。

 私が即位してから二十年近く戦ったが、勝てなかった』」

 さらにページをめくった。


「『私が試した方法を記す。

 直接対決——軍事力で敗北。

 法的手段——貴族保護法により不可能。

 経済封鎖——逆に王家が破綻。

 暗殺——護衛が厳重で三度失敗。

 外国の力——国が分割される危険。

 全て失敗した。二十年かけて、全て』」

 指で次の行をなぞった。


「『残された道は、民の力だけだ。基本方針を記す。

 ・民の怒りを煽れ。貴族への不信を、最高潮まで煮えたぎらせろ。

 ・証拠を集めよ。私は黒鴉騎士団を設立した。王家直属の諜報部隊でもある。四公爵の悪事を、すべて記録せよ』」

 イザベラが思わず息を呑む音がした。


「『だが、証拠だけでは奴らを倒せない。

 貴族保護法により、王一人では処罰できぬ。

 ならば——王自身が、暴君となれ。

 民の怒りを煽り、革命を育てよ。

 四公爵は油断し、お前が倒れれば誰が王座に就くかで争い始めるだろう。

 その時だ。

 全ての証拠を公開しろ。国の腐敗は四公爵が原因だと、民に知らしめろ。

 そうすれば、どの公爵も王座に就けない。

 奴ら全てが、失脚する』」


 蝋燭の炎だけが音もなく揺れている中、最後の段落を読んだ。

「『だが——ここから先は、答えが出せなかった。

 どう暴君を演じるか。誰が英雄となるか。どう革命を支援するか。

 タイミングは。最終決戦の手順は。

 ……息子よ、お前が答えを出せ。私には、時間が足りなかった。

 病床で考えたが、具体的な手順まで思いつく前に——』」


 指が震えているのを感じながら、続けた。

「『この計画に、保証はない。

 民衆を煽れば、怒りは制御不能になるかもしれない。

 最悪の場合、国は内戦で滅びるだろう。

 だが、何もしなければ、確実に四公爵に国を奪われる。

 お前が、賭けるかどうかを決めろ。

 そして、計画を完成させろ。

 ——我が息子よ、許せ。未完成の地獄を、託す』」

 黒の書を閉じた。


 アレクシオスは何も言わず、窓の外を見つめた。

(父は答えを出せなかった。二十年かけて、基本方針しか辿り着けなかったのだ——だが、自分にはリアムがいる。あいつなら英雄になれる。あいつなら民衆を導ける)


 アレクシオスは拳を握った。

(暴君を演じる——増税、公開処刑の復活、忠臣の追放、そして贅沢な振る舞いで四公爵を油断させる。ここまではもう始めている)

(証拠の収集は黒鴉騎士団を使い、イザベラに指示を出す。これも、父がすでに始めていた)

(そして数年かけて革命を育てる。ゲルハルト公の武器横流しを革命軍に流し、リアムを密かに支援する。だが、決して正体を明かさない。自分は暴君でなければならないのだから)


 次の段階が頭の中で組み上がっていく。

(最終決戦——革命軍が王宮に到達し、自分を討ちに来る。

 四公爵は安堵し、誰が王座に着くかで争い始める)

 アレクシオスの脳裏に、玉座の間で剣を向けられる自分の姿が浮かんだ。

 (その時だ。全ての証拠を公開する。

 国の腐敗は四公爵が原因だと、民に知らしめる。

 そうすれば、どの公爵も王座に着けない。奴らは全て失脚する)


 ——これが、父の計画を完成させる方法。自分の答えだった。


 長い沈黙が流れ、やがてアレクシオスは口を開いた。

「イザベラ」

「はい」

 彼女を見つめる。その瞳には迷いと覚悟が混ざり合っているのが見えた。


「俺は、最良の結末を目指す。だが、最悪の結末になる可能性も、常にある」

 イザベラの表情が苦しげに歪むのが見えた。

「陛下は、なぜ……それほどまでに、犠牲になる覚悟があるのですか」

 アレクシオスは窓の外を見つめたまま答えた。

「何もしなければ、確実に国は死ぬ。ならば……賭ける価値はある」


 再び長い沈黙が流れ、やがてイザベラが小さく頷くのが見えた。

「……私は、先王に拾っていただいた恩があります。最期まで、陛下にお仕えします」

 アレクシオスは窓の外を見つめたまま問いかける。


「イザベラ、正義とは何だ?意図か、過程か、それとも結果か」


 イザベラの目がわずかに揺れたが、彼女は答えられなかった。アレクシオスは小さく微笑みながら続けた。

「俺にも、わからない。だが……いつか答えが出る日が来る」


 立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

 秘密書庫の小さな窓には鉄格子がはめられていたが、外の景色は見える。

 遠くにスラム街の灯りが点々と揺れていた。

 テーブルから父が使っていた双眼鏡を手に取る。使い込まれた双眼鏡は手に馴染んでいた。

 (父上は、どんな気持ちでこの景色を見ていたのだろう……)


 双眼鏡を覗くと、スラム街の一角が拡大される。

 焚き火を囲む複数の人影——その中心に一人、周囲の人々に囲まれた人物がいた。距離があり、夜の闇に阻まれて詳細は見えないが、赤い髪の色だけは判別できた。間違いない、リアムだ。

 (あの笑顔で民衆に希望を与えているのだろう。あの優しい笑顔はきっと昔から変わらない——森で遊んだあの頃と同じだ)


 双眼鏡を下ろすと、胸が締め付けられるような感覚が襲った。

(俺は正しくなくていい。ただあの笑顔だけは守りたい)

 再び双眼鏡を覗くと、焚き火を囲む人影がリアムの周りに更に集まっているのが見えた。

(リアムが暴君を討つ。リアムが英雄になる。リアムが新しい国を作る。そのためなら――俺は地獄に堕ちてもいい)


 双眼鏡を下ろすと、イザベラが静かに頷くのが見えた。

「陛下、私は、どこまでもお供いたします」

 イザベラの声が静かに、しかし力強く響いた。アレクシオスは彼女を見つめ、小さく、しかし心から言った。

「……ありがとう、イザベラ」



 ◇ ◇ ◇


 —— 深夜、アレクシオスの私室 ——


 秘密書庫を後にして自室に戻ると、豪華な金糸の刺繍が施された天蓋付きベッド、大理石の暖炉、壁に掛けられた高価な絨毯が目に入った。

 暴君らしい、贅を尽くした部屋だ。侍従たちは毎日丁寧に手入れをしているが、実際に使うのは部屋の隅に置かれた小さな机だけで、豪華なベッドには横たわるにしても、いつも端の方で小さくなって寝ている。

 この虚飾の全てが重荷でしかなかった。


 机の引き出しを開け、中に入った小さな革装丁の日記帳を取り出す。

 誰にも見せない、本音の記録だ。

 ペンを手に取り、インク壺を開ける。蝋燭の揺れる光の下、ペン先が紙に触れるカリカリという音を聞き、インクの匂いを胸いっぱいに感じながら、ゆっくりと丁寧に文字を綴り始めた。


『即位三ヶ月。今日もまた、暴君を演じた。

 老大臣の目に映った絶望の色が、胸を抉る。

 だが、これでいい。憎しみが、まだ足りない。

 もっと俺を憎め。もっと俺を軽蔑しろ。

 そうすれば、リアム。お前は、迷わず俺を討てる。


 ——本当のことを言えば、怖い。

 この計画が成功するのか、自信などない。

 何度も、全てを捨てて逃げたくなった。

 リアムと、ただの友達として、生きたかった。


 でも、それは叶わない。

 俺は王だ。この運命から、逃げられない。


 お前は英雄になれる。お前が、新しい国を作れ。

 俺一人が地獄に堕ちれば、それでいい。

 お前だけは——お前だけは、守りたい』


 ペンを置き、文字をしばらく見つめた。

 自分の本音、誰にも言えない心の叫びだった。

 日記帳を閉じて引き出しに仕舞い、鍵をかけるとカチャリという小さな音が響いた。

 (この秘密は、誰にも——リアムにも、イザベラにも——明かせない。死ぬまで、胸に秘めておく)


 蝋燭を吹き消すと、部屋が暗闇に包まれた。

 ベッドに横たわったが、眠れなかった。

 目を閉じれば老大臣の絶望した顔が浮かび、リアムのあの優しい笑顔が浮かび、そして父王の最後の言葉が耳に響く。

 『許せ、我が息子よ』

 応えるように小さく呟いた。

「父上。俺は、この道を行きます」

 暗闇に、声が消えていく。


(たとえ地獄が待っていても、たとえ誰にも理解されなくても、この道を最後まで歩き続ける)

 暗闇の中で、ただ静かに目を開けたまま天井を見つめていた。

 耳の奥で、民衆の怒号が、かすかに聞こえてくる気がした。



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