第2話
結婚したことは後悔はしていない。
現代において結婚なんてしてもしなくても差がないという人がいる。
一面においてはそうかもしれなかった。
しかし、誰もが結婚するわけではなくなった時代だからこそ、却って生まれたものがある。
わざわざ結婚するほどの価値を誰か少なくとも1人は見いだしたという信用力だ。
1度も借金をしたことがない人と返済期日ごとにきちんと返済する人では後者の方が金融面での信用力があるのに似ている。
もちろん独身でも魅力的な人はいるだろう。
ただ、本人自身はそれほど魅力に溢れるわけではないタイプこそ、この結婚による信用力の効果は大きい。
それに魅力的なパートナーがいるということは私に自信を与えてくれた。
何があっても、何を言われても、家に帰れば薫がいる。
もちろん、薫は完璧な人間にはほど遠い。
ただ、少なくとも私の自己肯定感を打ち砕いて支配しようとしていた元彼とは全然違う。
薫が私に与えてくれる安らぎは貴重だった。
性愛の面でも満足している。
セックスは苦行としか思えなかった私の認識を変えた。
私がしたいときに過不足なく応えてくれる。
細長い指の手は見た目も私好みだった。
そして、その手が私を恍惚に導いてくれる。
とはいえ薫にも大きな欠点はあった。
定職に就けないので稼ぎが少ない。
もし私が有り余る金がある有閑マダムなら問題ないが、実際には東京でなんとか1人で生きていけるだけの収入があるだけである。
薫も単発のアルバイトで稼いだ金を家計に入れてくれたが将来の安心を買うには全然足りなかった。
私が働けているうちはいい。
だけど、もし怪我をして働けなくなったら? 子供ができたら?
その不安は私をじわじわと蝕む。
薫も経済面で負担をかけていることに忸怩たるものは抱いていたのだろう。
とんでもないことを言いだした。
「あのさ。僕、浮気をしようと思う」
最初は話の筋が見えずに混乱する。
いくら私が冴えない女だからといって、宣言してするものなのかと呆れた。
薫は私を引き寄せるとキスをして髪の毛をそっとなでる。
「そんな顔をしないで。僕の話を聞いてくれる?」
話を聞いてみれば、ごくごくシンプルな金稼ぎの方法だった。
薫が誰か適当な女にナンパされる。
見た目がいい薫にとっては造作もないことだった。
意気投合してホテルへ行きベッドインし、十分に盛り上がったところで私の存在があることを薫が漏らす。
そこで憤然として部屋を出ていくような女は少ない。
私だって蛇の生殺しになって理性を保てるかどうかは自信がなかった。
こうして配偶者がいることを知ってセックスをした女が生まれることになる。
数回関係を持ったところで私が乗り出して慰謝料を請求し、めでたく我が家の家計に臨時収入が入ることになった。
だいたい1人当たり20万円というのが相場である。
男漁りをする女にとって痛いが払えない額ではない。
この浮気による賠償金獲得におけるポイントは薫への求償権を放棄する念書を書かせることだった。
20万円を手に入れても、薫にも責任があるとその一部を請求されては稼ぎが半分になってしまう。
この浮気稼業を始めるにあたって薫は真剣な顔で私に誓った。
「決して心は動かされないよ。僕が愛しているのは直子だけだ」
私にはその言葉が真実なのかを確かめる術はない。
そして、私は薫のことを好きではあったが執着はしていなかった。
結婚したのだって、タイミングと勢いによるものである。
どこか頭の隅で好みの手をしたヒモを囲っているような感じもしていた。
いずれ薫は私の前からいなくなるんじゃないか。
そう思っていた私は薫の途方もない計画を承認して今日に至っている。
同時並行で複数の相手との関係を進行させる薫は半年で100万円を超える金を稼いでいる。
しかも、賠償金は非課税だった。
実質的には年額に換算すると200万円を超え、非課税であり社会保険の費用も引かれないことを考えると実質的に額面300万円弱の稼ぎに相当する。
アルバイト代を加味すれば同世代の統計的な平均所得と遜色ない金額を稼げている計算になった。
ホストなどの接客業に就けばもっと稼げるかもしれない。
ただ、薫は性格的に向いていないだろう。
酒の飲み過ぎで健康を害する心配もある。
そして、この稼業は結婚詐欺のように法律違反を問われることも無かった。
配偶者以外と性交渉を行うこと自体は何も法に抵触しない。
別に結婚を約束するわけでもないし、お互いに合意の下で一時的な快楽に身を委ねるだけである。
ただ、その行為は配偶者である私が精神的な苦痛を受けたことによる賠償を請求する事由にはなった。
倫理的にどうなんだという点には議論はあるかもしれない。
しかし、妻ある男性であることを知って抱かれる女も悪かった。
対して、私はイケメンの夫に引け目を感じて浮気に目を瞑るしかない情けない女というだけである。
薫は浮気相手として私のような冴えない女は相手にしない。
十分に魅力的で世間体を気にしなければならないような若い女を選んだ。
薫と手切れになったときにストーカー化しないようにするための用心である。
他にもいい男を捕まえる潜在性を有していればプライドの高い女ほどさっさと金を払って薫のことを忘れることを選んだ。
私よりも美しい女性が結婚届という紙切れ1枚によって私に敗北する。
このことは薫が他の女と寝るという私の心の痛みを軽くした。
こんな地味な女に負けたのかという悔しさを味わわせることができることは喜びですらある。
ただ、こうして、薫がそばに居ない夜はどうしても寂しさと侘しさが募った。
浮気稼業を始めてから薫はますます私に優しくなっている。
「僕にとって大切なのは直子だけだよ」
その言葉が真実なのかどうかは私には分からなかった。
翌朝、私が出勤する時間になっても薫は家に帰ってきていない。
女と泊っても泊まらなくても私が家を留守にするまではどこかで時間を潰している。
他の女の臭いを家庭内に持ち込まないようにとの配慮だった。
私は朝食を食べずに支度をして家を出る。
薫が居ない朝は胃が何も受け付けない。
納得しているつもりであったが、やはり心の奥底では不満を抱えているに違いなかった。
仕事をしている間はそのことを忘れていられる。
お昼は薫が作り置きしておいたものを詰めただけのお弁当を食べた。
私たちの結婚生活が完璧ではないのと対照的に銀だらの味噌漬けの味は完璧である。
今頃は薫が台所を片付けて夕飯の支度を始めているかもしれないなと想像した。
結局のところ、私は薫のことが好きである。
別れる勇気も無ければ、薫のことを食べさせる甲斐性も無かった。
家に帰って玄関の扉を開けて味噌汁の香りをかげば昨夜のもやもやは消え去るだろう。
そして、薫のちょっと後ろめたそうな顔を見て、薫の手が私に触れればすべてがどうでも良くなるのだ。
2時間ほど残業をして家路につく。
携帯電話を取り出してメッセージを送った。
私が薫に持たせている携帯電話からすぐに返信がある。
「ご飯の仕上げをするね」
私は駅への足取りを速めた。
そう、これでいい。
不安は未知から生ずる。
私が薫の情事を把握できている今の状態がまだ心の平衡を保てるということを理解していた。
ただ、同時に薫の手を独占したいという暗い情念にも気が付いている。
手首から先を切り落として毎日それを眺めて暮らすという妄想が頭から離れることはない。
願わくば、それが現実になることがないことを1番星に願った。
歪な関係の夫と私 新巻へもん @shakesama
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