歪な関係の夫と私
新巻へもん
第1話
「それじゃ行ってくるね」
薫がキュッと口の端を上げ、左手を上げる。
玄関のやや暗い電灯の下でもまばゆいばかりの笑顔だった。
「ほら、行って」
未練を断ち切るように促すと薫は私の頬をひと撫でするとアパートの扉を開けて出ていく。
私は施錠するとのろのろとリビングに戻り、ビーズクッションに寝そべってスマートフォンで適当な動画を見始めた。
特に興味があるわけではない出演者がオーバーな手振りをしながらしゃべっている。
面白くもないものを見ているくらいならさっさとお風呂に入ってベッドに入った方がいいのは分かっていた。
でも、まだ寝たくない。
ベッドに入れば嫌でもあのことを想像してしまう。
薫が私の知らない誰かとセックスしていることを。
冷たい布団に私の熱が伝わり眠くなるまでの間、薫の手が誰かを愛撫する想像をしないでいられる自信がない。
ずるずると動画を見続けていたが、バッテリー残量が少なくなり、ついに諦めて浴室に向かった。
服を脱いで洗濯籠に放り込む。
浴室の扉を開けて中に入ると床が濡れていた。
出かける前に薫がシャワーを浴びていった事実を突きつけられる。
コックを捻って頭から熱いシャワーを浴びた。
髪と体を洗うとゴム製の窓ふきワイパーで浴室内の水滴を取る。
これをしておかないと換気の悪い浴室はカビが酷いことになった。
何かに集中していると他のことを忘れられて良いなと思う。
手だけを扉の外に出してバスタオルを取ると髪と体を拭いた。
バスタオルを巻きつけて外に出るとすぐに冷気が押しよせてくる。
私の他に人けが無いことで余計にうそ寒く感じ、急ぎドライヤーで髪の毛を乾かし始めた。
洗面所の壁にはめ込まれた鏡の中で虚ろな目をしている女が顔をしかめる。
指が引っかかった部分の髪を解きほぐし再びドライヤーの熱風を当てた。
鏡の中からこちらを見てくる自分の顔は我ながら冴えない。
私と薫が並んだところを目にしたときの周囲の目が語る言葉は嫌でも分かってしまう。
なんでこんなイケメンと地味女が付き合ってるの?
そして、私たちが付き合っているだけでなく結婚していることを知ると驚愕に目を見張った。
口さがない職場の女子社員どもがなんと言っているかも分かっている。
どう見ても不釣り合いよね。
会社の給湯室でのやっかみ交じりの声は、通りかかった私に聞こえるような絶妙な声量だった。
私が元彼にフラれたときはそのことをあざ笑い、新たなパートナーができてもそのことで悪口を言う。
ただ、その程度であれば実害がないので放置をしていた。
洗面所を出て寝室に移動し冷たい布団に私の熱が移るのをじっと待つ。
やっぱり、薫のことを考えてしまった。
そこから先に展開される光景に思考が移らないように薫のことだけを考える。
皆が驚くほどに見た目のいい薫は定職に就いていない。
日雇いの仕事を転々としていた。
それというのも薫は若気の至りで大学生の頃に銀行口座を売っている。
先輩に誘われて断り切れずに行ったことの代償は大きかった。
その口座が犯罪に使用されたことが発覚してからというもの薫は銀行口座を持つことができない。
それが原因で新卒時に就職した会社をクビになっている。
給与振り込みができないので現金で即日支払われる仕事でしか働けていなかった。
薫と私は大学のゼミが一緒だったが、在学中はほとんど接点はないまま卒業している。
社会人になって5年後、ゼミの教授が亡くなったとの連絡があり、義理でお通夜に出席した際に薫と再会した。
大学時代にチヤホヤしていた女性たちは薫に冷たい。
折からの人手不足で優良企業に就職した彼女たちは、より条件の良い男たちを捕まえているようだった。
7年付き合った彼に手酷くフラれたばかりの私は、彼女たちの輪に入りづらく焼香を済ませてそそくさと帰ろうとする。
葬儀場を出て駅への薄暗い道を急いでいると後から足音がした。
「山田さん、待って。駅まで一緒に行こうよ」
振り返れば薫が夜目に分かる白い歯を見せて手を挙げている。
「みんなと精進落としで飲みに行くんじゃなかったの?」
「うん、まあね。ぶっちゃけ金が無い」
薫はあっけらかんと言った。
「こんな僕でも変質者除けぐらいにはなるよ」
ついてくるなとも言えず駅までの道を一緒に歩く。
夜道で女1人というのも不安だった。
「山田さん、『再来年の記憶』って映画観た?」
「え?」
「学生の頃、映画が好きでよく観てるって言っていたじゃない?」
私は薫が学生時代の私とその発言を認知していたことに驚く。
悪い気はしなかった。
「ええ、観たわ」
薫は嬉しそうに笑う。
「あの映画、僕ちょっとだけ関わっているんだよね。ほとんど雑用係だけど。一応、スタッフロールには名前が出てる」
「へえ、凄いじゃない」
「まあ、継続して声がかかることはなく、それきりなんだけどさ」
駅に着いても私鉄沿線の終着駅に近い駅から乗る電車は同じ方面に決まっていた。
電車の中でも映画について話をすることができるのが楽しくてつい話し込んでしまう。
ふとした弾みに薫が言った。
「お清めの塩って、家に入る前に誰かにかけてもらうもんだよね? 僕はどうしたらいいんだろう?」
「え? あれって自分でかけるものでしょ?」
「そうなの? うちでは母が父にかけていたけど、あれってうちの家だけだったのかな? 自分でやるのか……。何か淋しい気がするね」
「じゃあ、今夜うちに来る? お互いにお清めができるけど」
今思えばあのときにどうして私がこんな大胆な提案をできたのか不思議でしかない。
薫は行くと即答し私と一緒に電車を降りる。
その夜、私は彼と寝た。
私はどうかしていたのだと思う。
尽くしてきた彼に罵声を浴びせられた挙げ句に捨てられたばかりで自棄になっていたのかもしれない。
携帯電話も持っていない金欠の薫に優越感を抱いたというのもおそらくあった。
以前のキラキラした状態の薫相手にはとても私はそんな気にならなかっただろう。
一夜限りの関係のつもりだったが、意外なことになった。
そのまま、私の家に居ついた薫と私は半年後に結婚する。
結婚を催促してくる田舎の両親を黙らせたいと言ったら、薫が記入済みの婚姻届を持ってきたのだった。
「え?」
「あとは直子の名前を書くだけだよ。書いたら2人で出しにいこう」
丁寧な筆跡で薫の名前が書いてある。
まったくもって意味が分からない。
そんなに簡単に決めていいものなのか?
そうは思ったものの、私が言いだしたことである。
私は緑色の枠線の用紙に署名をした。
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