#3. Catalyst
「二十八さん、九鬼と歌で勝負してみませんか?」
その一言に、空気がわずかに揺れた。
冷蔵庫の微かなモーター音すら大きく聞こえるような静寂。莉奈の肩がぴくりと跳ね、千羽の顔を見る。
「……勝負、ですか」
紙コップを握る指先が、ほんの少しだけ力がこもる。彼女はいつも通りな声色こそ崩さないが、胸の奥がざわついているのは明らかだった。
「もちろんガチガチの殺し合いみたいな話じゃないよ」
千羽は軽い笑みで誤魔化した。が、目の奥は一切笑っていない。
「歌ってみたのコラボ企画って言えばまあ丸い。けど俺が提案したいのはそういう優しい企画じゃない」
「……優しくない企画?」
「そう」
千羽は椅子の背にもたれ、しっかりと二十八の目を見る。
「九鬼奏美は、そろそろ新しい壁が必要だ。五十万のトップに居続けると、どうしても停滞が生まれる。周囲が甘えるし、環境が勝手に守ってくれる」
すこし間を開けて再度、千羽は口を開く。
「お前なら、ちゃんと壁になれる。歌で、真正面からぶつかれるだろ」
言い切られた二十八は、一瞬だけ息を呑んだ。
九鬼奏美。
ずっと憧れてきた歌い手。
そのステージに、隣ではなく、正面から立つということ。聞き手ではなく挑戦者になるということ。
「……私なんかが、本当に?」
「私なんかは今日で終わりだよ、二十八」
千羽は紙コップに入れたコーヒーを飲んで、静かに宣告する。
「勝負ってのは、贈り物だ。相手に敬意がないと成立しない。つまり——」
溜めを作ったうえで一気に宣言する。
「叶えたいんだよ。お前の歌で奏美を本気にさせたいし、奏美がお前を本気にさせるのも見たい」
その言葉は、圧でも命令でもなかった。
ただ、期待という名の重圧だった。
本来はプロスペクトにかけるようなものではない。
二十八は、数秒だけ俯き、その後ゆっくり顔を上げ、千羽葉月を見る。
「……やります」
「お?」
「勝負、受けます。九鬼先輩と、歌で。うちは……ずっとそういう場所に立ちたかった」
小さく、しかし確実に燃える光が彼女の目に宿っていく。
「いい返事だ」
千羽は満足そうに頷く。
「じゃあ具体的なスケジュール、今日これから詰めよう。二十八の初の本気企画になる」
「はい……よろしくお願いします、千羽さん」
緊張の中に、微かな興奮。
二十八莉奈はまだ気づいていない。これはただの歌企画じゃない。
九鬼奏美の視界に、明確な次の才能を叩きつける一手。
そして——千羽葉月の周囲で始まりつつある変化の、最初の布石であることに。
「詳細を説明していく。来月の三連休にあるスリジエプロとのファンミーティングがあるのは知っているよな?」
「もちろんです。うちの出番は何もないと聞いていましたが……」
まだ所属して一ヶ月にも満たない配信者にいきなり大きなイベントを課すのは酷な話だ。だがら
「次の企画会議で俺は企画を出す。タイトルは——」
千羽は一度、言葉を区切り、
「『九鬼奏美 vs 二十八莉奈、新旧ミーティア歌姫対決』だ」
「……っ!」
「つまり、ミーティアといえば九鬼奏美という時代を、お前が揺らせる。いや、塗り替えられるかもしれない」
個人勢時代には絶対に届かなかった規模の企画。
企業勢の力に、二十八は息を呑んだ。いきなりのチャンス到来に言葉を失う二十八。個人勢が行える企画というのは程度がされている。企業勢の強さを目の当たりにした彼女は酷く驚いている。
「これ、受けてくれるなら……企画会議で通す自信がある」
「……千羽さんって、もしかしてすごい人なんですか?」
「すごくはない。でも、もしそう見えてるならそれは九鬼のおかげだ」
ミーティア・グループは、九鬼奏美の才能によって支えられてきた。
二十八は五人目のタレントだが、未だ九鬼奏美を超える者はいない。
「二十八、お前が首を縦に振れば九鬼奏美に対する挑戦権を得られる。まだ時期尚早だと考えるのなら断るのも一つだ」
「やります! やらせてください! 千羽さん」
「よく言った。吉報を待っていて欲しい」
紙コップを捨て、千羽はフリースペースをあとにした。
その背中を見送りながら、二十八は小さく呟く。
「……謙遜しすぎですよ、千羽さん」
フリースペースから統括部に戻る途中、レアキャラとエンカウントする。
「千羽くん」
社内で"くん"付けをする人は一人しかいない。
ミーティア・グループの創始者にして九鬼奏美の最初のマネージャー。
圧倒的ビジュアルの良さから世間では配信者としての活動を求められるも、根っからの裏方であり表に出ることを考えていない社長──
「どうも、社長」
「昔みたいに聖さんでもいいのよ」
「不特定多数に見られるような場所では難しいですね」
九鬼奏美をミーティアの母とすると氷上聖はミーティアの父で、千羽葉月はこの二人に育てられたに過ぎない。創設当初は上司も部下も関係ない家族感が強かった。
しかし、そんな時代は長く続くこともなく、二人目、三人目と抱える配信者が増えるごとに利益追求の色が強くなり、そんな家族のような雰囲気は遠い存在となる。
「ACLのチケットが取れたわ。久しぶりに行きましょう」
「しかし社長。ファンミーティングの真っ最中で……正直、第六戦以外は厳しいかと」
「それで構わないわ。奏美と三人で行きましょう」
氷上の趣味はサッカー観戦。
事務所が大きくなる前は、三人でよく現地にも行っていた。
「ところで二十八さん……骨がある子だと思わない?」
「そうですね。奏美に匹敵するほど……いや、それを超越するほどのポテンシャルがあると思います」
二十八をフリーから獲得したのは社長の慧眼が始まりだ。
彼女は自身ののその眼に狂いがないことを証明したいのだろう。
「千羽くんがそう言うのなら間違いはないね。何しろ君は……ミーティアでピカイチの目利きの持ち主だから」
「それサッカーの話ですよね、絶対……」
サッカーに関して氷上は見る目がない。推しクラブに欲しい選手がやってくると、まるでその時がピークかのようにリーグ戦では振るわない。逆に、千羽の予測は彼女とは逆で本当によく当たる。
「さぁ、なんのことかなっ。ところで聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「もちろんです、社長」
氷上は周囲を見回し、千羽の耳元で囁く。
「奏美の退所……スリーズから引き抜きがある……というのは本当の話かな?」
「いえ、初めて聞きました」
「ですが火のないところに煙は立たない。どう思う?」
「気になるのであれば調査を──」
「いや、いいの。千羽くんの耳に入っているかどうかを確認したかっただけだから」
そう言うと氷上は踵を返し、静かに廊下を歩いていった。
残された千羽は動けなかった。
——九鬼奏美の退所。
その言葉が、胸の奥に重く刺さったまま抜けないでいた。
次の更新予定
千羽葉月は空気を読まない 白羽 結葵 @Yu_Shiki
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