征服王の憧憬 

紫陽_凛

わが皇帝、メフメトに捧ぐ①

 病床の皇帝スルタンが、乾いた咳を繰り返している。臥せる皇帝の傍らには不思議なことに誰もいない。空咳だけが響き渡る寝台の上で、もうろうとした目をひらき、皇帝はしゃがれた声で呼んだ。

「アリ……」

「ここに」

 老臣が答える。皇帝は咳を一つした後、「ここへ参れ」と短く告げる。

 現れたのは黒人の宦官だ。目を伏せ、唇を引き結び、神妙な面持ちをしている。主たる皇帝の命がもう長くないことを悟っているかのようだ。事実、皇帝は日に日に衰え、起き上がれなくなり、弱っていた。

「アリ。おまえは、余に、言うことがあるはずだ。言え」

「……とんと、見当がつきませぬ」

「言え」

 病床とは思えぬ力のこもった目であった。アリは動揺し、唇を一層堅く引き結んだ。皇帝はそんなアリの表情を見越したように、その力強いひとみを瞼の下に隠した。

「言えぬのか。余の命令だというのに」

「言わねばならぬことがあるとするならば」アリは言葉を選んだ。「外は……ユスキュダルは、花の盛りでございます」

 皇帝は沈黙した。アリは、彼の痩せ衰えた顔を見つめた。

「私めと、花をごらんになりませんか」

 皇帝は大きく息をついた。長い息が吐き出された後、再び皇帝は目を開いた。そこに、先ほどの気迫はなく、ただ茫洋とした瞳が、アリの姿を探してさまよっているのみだった。もう、目が見えぬらしい。

 「アリ。……余は、もうじき死ぬだろう。あの輝かしいローマには手が届かんようだ」

 アリは答えなかった。答えずに、だまって、天幕をあけた。かぐわしい花の匂いが満ち満ちる。アリは静かにこうべをたれた。

「覚えていらっしゃいますか。メフメト様。あの頃のことを」


◆ ◆ ◆


 木漏れ日が何かをささやきかけてくるかのような、風の強い日だった。

「アリ、アリ! ――やっと見つけた、聞いてくれ、アリ!」

「どうされました?」

 顔を上気させて走り寄ってくる五つ年下の皇子に、アリは笑顔を向けた。

「メフメト様がそのように興奮なさるなんて珍しいことですね」


 オスマントルコ、首都エディルネは春、花盛りの庭には少年が二人。

 アリは小姓として、そしてメフメトはスルタン皇帝の息子として。

「お継母かあ様にな、絵を見せて貰った! とても美しい街々の絵だ、あれは、あれは……コンスタンティノープルの絵だ!」

 メフメトは両腕を広げて、青い空を見上げた。

「余は決めたのだ! 余が皇帝になったら、コンスタンティノープルをオスマンの首都にするぞ!」

「メフメト様、コンスタンティノープルはビザンツ帝国の首都にございますよ。オスマンの首都には出来ません」

 そうアリが言うと、メフメトはきょとんとした。そして首をかしげた。

「いけないのか?」

「ええと……」

「ならばビザンツを我が国オスマンとすればよいだけの話。違うか?」

 答えに困っている間に、メフメトはそう結論づけ、暖かな庭にごろりと横になった。

「余の手にできないものはこの世にはないのだ、そうだろう、アリ。全て余のものになる、いずれな」

 アリはそんな若き皇子の頭をそっと撫でた。他の者であれば刎首ふんしゅもののこんな無礼も、幼なじみゆえの気安さだ。

「……ええ、そうでございますね、メフメト皇子」


 メフメトは幼いながら、広い世界をその小さな手中に収めんとする傲慢さと、それを可能にする利発さ、活発さを兼ね備えていた。時折、アリも驚くような残忍さと冷酷さが顔を見せることもあったが、それはそれ、アリはただメフメトを肯定した。


――それが、メフメトをより悪い方へ増長させたのかもしれない。

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