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最近は、天気予報で「大気の状態が非常に不安定で……」というフレーズが流行っているらしい。朝に「おはようございます」と挨拶するのと同程度にこの言い回しが使われているということは、安定していたためしがないという意味だ。あたしの心模様だったり、家庭環境にそっくりだと思う。そのへんがうまくいかないからこそ、せめて天気くらいは晴れやかであってほしいのに、ここ最近は天気にすら裏切られ続けている。
雨ばかりが続き、図書室にいる日数が増えて、あたしが大野と肩を並べて座る回数も比例して増えていった。それでも会話が必要以上に増えることはない。
あたしは前線のように、踏み越えてはならないライン以上に話しかけたりはしないし、大野もあたしを挑発して上陸しようとはしてこない。
その日々に安らぎを感じながら、今日も大野の隣で惰眠を貪っていたら、ガサゴソという物音で目を覚ました。
窓の外は雨が上がって、夕焼けが見えていた。あたしは一体どのくらい眠っていたのだろうか。
テーブルに視線を移すと、大野が本に挟んだ栞の位置が、さらに結末へ近づいていた。もうすぐでこの本も読み終えてしまうに違いない。
「帰るの?」
精一杯〝なんの気なしに〟を装って絞り出した声が、無惨にも悲壮感に満ちていて自分に落胆する。
あたしは大野と一緒には帰らない。大野が先に席を立ち、あたしが少し遅れて出ていくのが、気づけばいつもの流れになっていた。
「――きみって、不思議だよな」
大野はテーブルの上の本を鞄にしまいながら言った。
不思議。
確かに不思議かもしれない。図書室で本を読まない女。眠ったりスマホを触っているだけなのに、なぜかいつも自分の隣に陣取っていて、だからって積極的に話しかけるわけでもない女。
不思議というか、口にするほど不気味に近づくが、大野はあたしをはっきり「不思議だ」と言った。
何故?
「なんでさ」
「晴れの日より、雨の日のほうが楽しそうに見える」
彼にとっては何気ない疑問だったかもしれない。しかしそれはあたしの心の芯を確実に射抜いていた。
晴れの日より雨の日のほうが落ち着くのは事実だ。たとえ空が晴れていても、胸の中にはいつも雨が降り続いているのが、あたしという人間だから。空がずっと泣いてくれていれば、自分の外の世界と、内面との温度差に悩まされなくて済む。
「なにそれ。顔に出てた?」
「雰囲気、というか。楽しそうというより、肩の力が抜けてそうな空気を感じる」
雨音があたしの弱音を包み隠してくれる。涙を流しても雨粒が誤魔化してくれる。何も我慢しなくてよい雨の日に、あたしは、はっきりと安らぎを感じていた。
このことを大野に指摘されるとは、不思議なものだ。あたしは、それを否定しないあんただからこそ、いつも隣にいたのだから。
「雨の日ってさ」と呟いたとき、大野の瞳があたしのほうへ向いた。
「うん?」
「街も人も沈んで見えるじゃん。みんな憂鬱そうで、忌々しげで」
「そうだな」
「だから、あたしひとりだけが落ち込んでるみたいに思わなくて済むんだよ」
この世界で、ちゃんと、ひとりじゃないと思えるから。
紙をゆっくりと裂くみたいに、あたしの声が沈黙を破ってゆく。このことをずっと怖がっていたけれど、ひとたび踏み込んでしまえば最早なすすべがないのは、台風や大雨と同じだった。
いつも窓の外から聞こえていた、あたしの独白を隠してくれる雨音は、もう聞こえない。
「晴れの日はいつも思ってる。みんなあんなに楽しそうに過ごしてんのに、どうしてあたしはそこに溶け込めないんだろう――って。分かってんだよね、原因はさ。あたしが何もしないでただ遠巻きに眺めることしかしてないからだって。それでも……怖いんだよ」
「何がだ?」
「家の中だけじゃなく、外でも他人から拒絶されるのが」
言葉にしてみると、我ながら(ああ、そういうことなのか)と頭の中でも合点がいった。
あたしは自分が誰かを理解しようとしたり、誰かに理解してもらおうとすることが既にかったるくなってしまったから、他人との積極的な接触を避けていたのだと思っていた。
でも、きっと本当の理由は怠惰などではなかった。
この世界に自分の居場所などない、と知らしめられることが怖かった――。
「あたしの家、両親がめっちゃ仲悪くてさ。そしてあたしもこんな感じに育っちゃったでしょ? だからもう、父親も母親も互いの存在どころか、あたしのことすら興味なんてないし、理解しようともしないの」
大野は何も言わない。相槌すら打たないけれど、それは図書室の静寂を護るためなのか、あるいはあたしの次の言葉をだまって待っているのか。
けれど、もう、他人へ打ち明けるつもりのなかった家庭事情に言及してしまっている。それも、沈黙を愛していたであろうクラスメイトに対して。
大野には申し訳ないけれど、こうなったら最後まで、あたしの本当の気持ちへ耳を傾けてもらうことにしようじゃないか。
「子どもこそが夫婦の愛の結晶だとか言うけど、あれ嘘だよ。あんなのは、可愛く真面目に育った子どもにしか使えない表現なの。……そう考えたら、あんたになら良い表現かもしんないね」
学校外での大野のことについて、あたしは何も知らない。そもそも校内で大野と会話をする機会だってほぼないし、ぽつぽつ言葉を交わすことがあっても、それはこの雨の日の図書室で過ごす時間だけだった。だから大野の家庭環境がどうなのかなんて、あたしは知る由もない。
でも大野はいつも身ぎれいにしているし、持ち物も汚れていない。本だって休み時間は時折違うものを読んでいたから、あたしの家とはおそらく環境が違うのだろう。
大野はきっと、両親にとっては目に入れても痛くない可愛い子。
あたしは、視界に入るだけで気分が悪くなる、可愛くない子――。
「――僕は」
ふいに、大野が口を開いた。
「うん?」
「僕は、たとえ晴れでも雨模様でも、笑ってるきみのほうが好きだけど」
その言葉を耳にした瞬間、喉の奥で何かが詰まったような感覚があった。声を出せない。なんだそれ、でも、ばっかじゃないの、でもいいから何か返事をすべきだったかもしれない。
でも、あたしはたとえこの場で大声を出せたとしても、大野の言葉になんと返すべきなのかが思いつかなかっただろう。事実、今も分からない。
なんでいきなり、そんなことを。いつも整然と並んだ文庫本のページばかり見ていたはずのあんたが。
あたしは、大野といる時に、そんなふうに思ってもらえるような笑い方をしていたのか――。
いくつもの衝撃が脳みそを揺らしてくる。それが大地震のような揺れに感じるのはあたし一人だけで、他の連中からすれば、それは雨粒が身体に当たって砕ける瞬間程度の、無視できる震度だったかもしれない。
大野を見つめていた視線を逸らす。そこでは夕焼けが、今もガラスの上を流れる雫を照らしていた。
視線の端で、大野の頭が動いたのを感じる。
あたしたちは今、この瞬間、きっと同じ空を見ている。
「言ってくれるね」
呟きながら、鞄をひっつかんで立ち上がる。正面から思いっきり夕陽を浴びて、思わず顔をしかめた。
夕方でよかった。今日は雨音でなく、茜色の光が、あたしの本音を覆い隠してくれる。
恥ずかしくて頬が朱に染まっていても、きっと。
「じゃ、あたし帰るわ」
あたしより先に帰り支度を始めていたはずなのに、今も大野は立ち上がってすらいない。表情は完全に呆けてはいないが、ぽかん、という効果音がよく似合いそうだった。
そんな大野に向かって、あたしは初めて、意識的にはっきりと笑いかけてやった。
仕方ないよね。あんたが言ったんだもん。笑ってる顔のほうが好きだ……と。
ここは図書室だ。いくらなんでも今日は少しばかり、喋りすぎた。一応はその意識を残してますよ……という意思表示も兼ねて、あたしは大野の耳元に唇を近づけて、囁いた。
「また、雨の日に」
大野はそれでも、しばらくの間はレリーフみたいに固まって動かなかったけれど、やがて緊張感を崩した表情に変わった。いつも本を読んでいる間の、どこか硬い表情とは違い、力が抜けた時は年相応の子どもらしさが窺えた。
しかし。
「別に、晴れの日でもいいよ」
返事は子どもらしくなかった。大野め。どうせうまいこと言ったとでも思ってるんだろ。
悔しいけど、ちょっとうまいと思ってしまったし、自然とそう思ってしまった自分に驚く。
あたしは晴れの日を欲していた。そして大野倫太郎から、晴れの日だってここに来てもいい……というお墨付きをもらいたかったのかもしれない。
「――調子に乗んな」
力を抜いて言いながら、あたしは大野を置いて図書室を出た。今日は扉を、後ろ手に閉めた。なんとなく、大野の顔をそれ以上見ていられなかったから。
ともすれば、いま一番調子に乗っているのは大野ではなく、あたしかもしれない。雨音に紛れ込んだり、沈黙の中で口を閉ざさなくても、あたしを認めてくれる人がこの世界にいた。あのまま浮かれてしまっていたら、さすがの大野だって呆れていた可能性もある。それをぐっとこらえただけでも、あたしは自分を褒めてやるべきなのだろう。
それでもまだ、あたし以外のその他大勢の人間に比べたら、自分はこの先もしばらくは孤独の中を進まなければならない。今日は気恥ずかしくて早々に図書室を出てしまったが、家に帰るには時間が早すぎる。雨が止んでくれたことが救いだな……と思うと同時に、いつも「雨のほうが落ち着く」と言いながら、今日は雨上がりの夕暮れに感謝している自分に違和感を覚えた。
でも、悪くはない。
こんな自分でも、誰かがちゃんと見てくれている。あたしの存在を認めてくれている――と思えば、雨の日以外も悪くはない。
きっと。
<end>
晴れの日でもいいよ 西野 夏葉 @natsuha
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