金魚、燃ゆ。

夢見里 龍

金魚、燃ゆ。

 筆軸の先で、真っ紅な金魚が跳ねた。

 赤い毛筆が白紙で踊るその様は尾鰭おびれの揺らめきに似る。吸っている墨が紅いためか、或いは描いているのがまさに金魚そのものであるためか。


 美しい金魚だった。

 赤珊瑚を砕いてちりばめたような鱗から、錦の帯を解いたような鰭のふためきまで艶めかしいほどの躍動感を持って描写されている。水茎みずくきの跡も麗しくという表現があり、あれは書につかうべきで絵にたいするものではないと理解したうえで、やはりその言葉が頭をちらつく。


 触れなば濡れん。

 水の滴るような絵だった。


 さて、絵があれば、絵を描くものがいる。


 経几きょうぎにむかって筆をるのは年端もいかない少年である。

 日を吸ったことのないような肌に痩せぎすの身に羽織った襦袢じゅばん、滝のように畳に落ちて拡がる若白髪も異様なほどに白く、窓のない座敷のうす昏がりにぼうと虚ろに浮かびあがっている。十三参りを終えているのか、まだなのか。

 隼人はやひとはここにきて約一ヵ月経つが、彼については殆ど知らない。


 少年は筆に墨を吸わせようとした。だが、すずりはすでに乾いていた。隼人は口の端を真一文字に結んでから墨をってやる。


 もっとも彼の絵は墨のみで描くに非ず。


 少年は白い襦袢の裾を払い、娘のようにしなやかな素脚を覗かせた。

 襦袢の裾から覗いた脚は赤い。

 夥しい傷が足頚から太股まで蔓が絡みつくように刻まれていた。

 古い傷もあれば、まだ血を滲ませている新しいものもある。少年は経几きょうぎにおかれていた剃刀かみそりを持ち、ためらいなく足頚あしくびの塞がりかけた傷痕を切りつけた。

 裂けた膚からふつりと血潮が噴きだす。溢れだした血を硯で受ける。摩ったばかりの墨に血が混ざった。血墨を筆に吸わせて彼は再び絵を描きだす。


 腹鰭はらびれまで描き終えて、最後に魚特有のつぶらなくろめにとんと筆の命毛を落とした。


 やにわに、鱗がそそけだつように紙の表から捲れあがる。

 金魚は水を破るように跳ねあがり、白紙から身を投げた。放物線を描いて落ちた先には水桶がある。


 ぽちょん。


 血潮が一滴落ちて拡がるようにして、絵であるはずの金魚が水桶のなかで泳ぎだした。


 此の少年は、金魚を描くために座敷牢で飼われている。



            ◇



 隼人はやひとは身寄りもない、故郷もない、奇妙な身のうえだった。

 ないというのは正確ではない。思いだせないのだ。唯一覚えていたのが隼人という己れの名だけ。

 嵐の晩に倒れていたところを町一番の商屋である大江家おおえけの旦那に拾われ、奉公人としておいてもらえることになった。


 字は読めぬ。算盤もできぬ。

 だが力仕事ならば、なんなりと。


 力強いその腕をたたいて、彼はそう申しでたのだが、大江の旦那から言いつけられたのはキンギョの世話係であった。

 大江家は金魚で商いをしている。実際に屋敷のあちらこちらで、それはそれは美しい金魚が飼われていた。天女の羽衣のようにゆらりと拡がる尾鰭おびれを持つもの、顔に牡丹が咲いているかのように華やかなこぶがあるもの、金箔を張りつけたように鱗が黄金にきらめくもの。

 さながら泳ぐ芸術だ。

 素人でもわかる。これほどの金魚を育てようと思ったら気が遠くなるほどの選別と交配を繰りかえさなければならない。


 大旦那は語った。

「この金魚にゃ純金と変わらんほどの値がつく。金魚十疋で家が建つんじゃ」


 かといって屋敷の敷地に大きな池はなかった。別途に養殖場があり、隼人はそちらで働くことになるのだろうかと思ったが、大旦那に連れていかれたのは屋敷の北側にある隠し階段だった。


「飯を食わせて、肥桶こえたごを換えて、金魚を回収する。わかったな。よけいなこたぁするんじゃねぇぞ」と念を押され、鍵を渡される。黄泉にでも続くような暗い階段を降りていくと鍵のかかった部屋があった。


 座敷牢だ。


 昔は不義密通で生まれた赤ん坊や乱心したものがいると家の恥となるため、外部に知られぬよう倉に押しこめ、隠したという。八畳の座敷。昼も夜もない、灯油のランプがひとつ燈されただけのうす暗がりのなかに彼は、いた。

 動かぬ脚を畳に投げだした少年をみて、隼人は思った。なるほどこれは白い金魚だと。



            ◇



「金魚をうてて、どれだけ可愛がっちょっても、名前だけはつけたらいけんのよ」


 脈絡もなく、彼はそんなことをいった。


 喋りかけられても無視をしろと大旦那から命じられている隼人はやひとは、彼の脚に包帯を巻いてやりながら口をつぐんでいる。茶碗に喋りかけるのと変わらんだろうに、少年は変声期前の細い声で訛りの強い言葉を紡ぐ。


「そんなもん与えたら、人間様と同等や思うて死ぬる時に連れていってしまうけぇ。まあ、ようある怪談やねぇ」


 何が楽しいのか、くすくすと微かな笑いを混ぜて喋るその様は、細かなあぶくを口遊む金魚とよく似ていた。


 彼は歩けない。血を抜くために傷をつけすぎたせいか、膝や足頚は動かせても踏ん張るということができなかった。鰭と大差ない。


 屋敷で働く女衆の噂によると此の少年は大旦那と血の繋がった実の親子だという。

 五歳を過ぎたころに髪が白くなりはじめ、気味悪がられて座敷牢に隠されたのだとか。幼少から絵を描くのが好きだったが座敷牢に収容されてからは墨も滅多に与えられず、指をかみ切って血潮で襖紙に絵を描いた。絵の金魚は命を吹きこまれたように動きだし、幸か不幸か、それは高値で売れた。

 それからだ。大旦那は彼に、金魚を描かせることに傾倒した。日に日に三疋さんびき五疋ごひきと要求は増える。


 隼人はやひとは大旦那に恩がある。恩は恩だが、実の子の扱いには閉口するばかりだった。


「……金魚を描くのんは辛うはないのんか」


 だから隼人が大旦那の言いつけを破るまで、時間はかからなかった。隼人が喋ったことにおどろいたのか、彼は目を見張り、続けて年相応の無邪気さで頬を崩した。


「辛うないよ。絵ぇ、描くのは好きやけぇ」


 だが、彼の絵は単なる絵ではない。比喩でなく、正真正銘命をけずって身を削いで描きあげるものだ。


「やけど、たまに金魚やないものも描きたい。毎日毎日金魚ばっかりて飽き飽きじゃ」


 大旦那は彼に金魚以外は書かせない。金魚は儲かるからだ。


「な、こんど、蝶々、もってきてくれん? 子どもんころに蝶々を追いかけたことがあるんや。けど、どんなんか、忘れてしもうた」


 隼人は口ごもった。


 約束なんか、してもいいんだろうか。大旦那に知られたらどれほど怒られるか。

 箸のつけられていない盆の飯に視線を移し、隼人は話を逸らそうとした。


「飯、もっと食わんと」


「蝶々、持ってきてくれたら食べる」


 彼はただでも食が細い。血をつかいすぎて、書いている途中に失神することもある。衰弱して死んだら隼人のせいだ。

 だからこれは大旦那から託された仕事の一貫だと無理やりに己れを納得させ「わかった」と頷いた。



            ◇



 この町は錆びついている。

 大江家の屋敷は町を一望できる高台にあった。潮風に晒されて汚れた家々のなかに場違いなキャバレーやダンスホールといった商業施設の廃墟が散らばった、ちぐはぐな町の風景を眺めるにつけ、隼人はやひとは夏でも背中越しに寒い風が吹くのを感じる。


 瀬戸内海に面したその小さな町が炭鉱で栄えたのは今や昔。度重なる落盤事故で炭鉱はつぎつぎに閉山し、衰退の一途をたどった。

 炭鉱ができるまでは鯨。

 だが昔ながら網捕り式の捕鯨ほげいは捕鯨砲をつかった海外の技術にとってかわられてしまった。地元の富家が落ちぶれていくなかで、残るのは金魚の商いを始めたこの大江家だけだ。


 閑散とした町から視線を背け、隼人は鬼百合おにゆりを捜す。

 確か、屋敷の裏に鬼百合の群生地があった。香りの強い鬼百合にはアゲハ蝶が集まる。一疋いっぴき捕まえ、蓋がついた椀に入れた。夕餉の時、盆に載せられた汁物の椀と入れ替えて座敷牢に持ちこむのだ。


 隼人の作戦はうまくいった。

 椀の蓋を外すと蝶はゆらりと舞いあがった。


「なつかしいのう、そうやそうや、これが蝶やった」


 蝶は少年の細い指にたわむれたり、包帯の巻かれた脚にとまったりした。血の臭いに惹かれているのか、彼の側から離れようとしない。ひらひらと舞う姿は金魚と大して変わらないが、水のなかでしか舞えない金魚と違って、蝶は何処にでもいける。


 少年は血の混ざった墨だけで表現しているとは思えないほどに絶妙な筆遣いで、蝶の翅の紋様を如実に描写していった。


 隼人はその様子を眺めながら、彼はきっと常人とは目が違うのだろうと考えた。生物を捉える眼。画師の観察眼というべきか。隼人の目では捉えきれない、僅かな紋様の不均等さがもたらす光の屈折。鱗粉の濃淡。そうしたものまで完璧に捉え、再現しているのだ。


 だから命が吹きこまれる。


 触角の先端に筆の先端を落としたその刹那、白紙から蝶が舞いあがる。具現化したとたん、蝶は身に絡みつく墨を弾いた。模様を縁どる黒は残して翅が黄いろを帯び、後ろ翅に晴れわたるような青が滲む。


 隼人が息をのむと、彼はけらけらと笑った。


「なんや、赤うなると思っちょった?」


「思っとった」


 本物の蝶と贋の蝶はもつれるようにたわむれあい、どちらがどちらかわからなくなった。




 彼は約束通りに食事をたいらげた。彼のために準備される食事は鯨料理ばかりだった。血を補わせようとしているのだろう。それらを摘まむ箸は、異様なほどに重かった。やっとのことで口に詰めこんでいるのがわかる。微かに震える唇は青紫で、かみ砕こうと顎を動かすたびにこけた頬が際だつ。


「ごちそうさま」


 なんとか全て腹に収め、彼は弱々しく笑った。食器をさげようとしたら、彼が椀を指す。


「帰るとき、本物の蝶は外に逃がしちゃげて」


「どっちがどっちかわからん」


「わかるよ、こっち」


 彼は蝶に指を差しだし、とまらせる。


「せっかく飛べるんやもん。こんなところで死ぬるまでいるさあ、可哀想だっちゃ」


「描かれたほうは可哀想やないのんか?」


 彼は目をまるくした。飛んでいる蝶ととまっている蝶をまじまじと見比べる。


「こっちは絵なんよ?」


「でも、動いとる。飛んどる。もう、本物じゃろう」


 隼人はなにひとつの疑いもなく、そうかえす。彼は「そっか、……そっか」とかみ締めるように繰りかえした。


二疋にひきとも、外、飛ばせたって」


 椀を差しだす彼は微笑んでいるのに、今に死んでしまいそうに果敢はかなく、隼人は胸をひき絞られるような気持ちになった。ほんとうに可哀想なのは蝶ではない。

 金魚でもない。


 屋敷の中庭にでて、誰もいないのを確認してから椀の蓋を取る。蝶が待ってましたとばかりに風をつかんだ。絡みあうように飛んでいるのに、壁に映る蝶の影はひとつだ。


 そうか、絵には影がないのか……


 二疋の蝶は互いに追いかけあいながら、瓦の張られた屋根を越えていった。夕餉時を過ぎても夏の空はまだ青い。あの八畳には永遠に訪れることのない青さだった。



            ◇



 その晩、夜更けに、隼人はいきなり大旦那に起こされた。


「これ、海に捨ててこい」


 麻布あさぬのでぐるぐる巻きにされたものを渡される。細長くて人の身の丈ほどの大きさで、持ちあげるとずっしりとしていた。いやな、重さだと思った。これはなんですかと尋ねようとしたが、すでに大旦那は廊下の床板ゆかいたを軋ませながら大股で去っていった後だった。しかたがないので隼人は荷を担いで、海にむかう。


 屋敷から海まではそう遠くはなかったが、暗さのせいか何処までいってもたどりつかないように感じられた。

 細い用水路がある砂利道を、月明かりだけを頼りに進んでようやっと海についた。

 海へとせりだした崖の先端から、得体の知れない荷物を転がり落とす。麻布の隙間から垂れた白い絹糸のようなものが月を弾いてちらちらと瞬いた。海から吹きあげる風が、幼い悲鳴のように聴こえた。

 とんでもないことをしてしまったような、輪郭のない恐怖が足もとから這いあがってきて、隼人は逃げるように海を後にした。


 


「おはよう」


 朝になって座敷牢に朝餉を運んでいくと、少年は青畳に尻をつけ、にじるように近寄ってきた。このごろは隼人がきても振りかえるのがやっとだったので、こんなふうに動けるのはめずらしい。

 頬にも微かに赤みが差し、目も虚ろではない。そんな彼の姿をみて、隼人はいっきに張りつめていた緊張の糸が緩むのを感じた。

 よかった。昨晩の弱りきった姿が嘘のようだ。急激な回復ぶりに微かな違和感は残ったが、このまま死んでしまうのではないかと危惧していたため、純粋に安堵した。


 隼人というと結局あれから一睡もできず、夜が終わるまで綿の潰れた布団を頭まで被り、息を殺していた。だが、そんな取りとめのない恐怖も彼の顔をみたら吹きとんだ。


 朝餉の載った盆を覗きこんで、彼はおずおずと口をひらく。


「あのさ、朝餉やけど、一緒に食べん? 一緒やったら食べられそう」


 あいかわらず鯨ばかりだが、奉公人ということで粗末な飯しか与えられていない隼人にとってはご馳走だ。


「ええんのか」


「どうせ、ばれんよ。好きなん、食べて」


 だったら、と遠慮なく鯨飯くじらめしをもらって掻きこむ。

 飢えた野良犬みたいに飯を頬張る隼人を嬉しそうに眺めながら彼はかぼちゃの煮物を箸で崩し、もそもそと口に運ぶ。


「兄貴もな、鯨飯が好きやったんよ」


 彼がぽつりとつぶやいた。


「兄貴、おったんか」


「うん、おった。昔は兄貴が身のまわりのことをしてくれて、土産ゆうては外のもんを持ってきてくれたんや。沢蟹とか木通あけびの実とか」


「なんで、今はおらんのや」


 幼い目がゆらりと揺らいだ。或いはランプの灯油が切れかけて、火が細くなっただけかもしれなかった。


「十八になって都会へいってしもうた」


 つまり、捨てていったのか。


 歩くこともできない。地下に捕らわれて日も風も知らず、金魚に血を吸いあげられるように絵ばかりを描かされている哀れな弟を。


 隼人の腹の底で、ふつふつと熱いあぶくが湧いては弾けた。

 俺やったら、なにがあっても連れていくのに――そんな強い思いが湧きあがり、隼人は我ながらおどろいた。こんなふうに情が移るとは思わなかった。


「なあ、おまえ、名前は何てゆうのんや」


 あらためて尋ねるのもなんだかで、結局聞けずじまいになっていたことを口にする。彼は箸をくわえたままで瞬きを繰りかえし、ずいぶんと呼ばれることのなかったそれを思いだそうとするように黙りこくった。


 やがてぽつりとつぶやく。


「ギンや」


「ギンか、ええな」


「そうかぁ?」


「キンやないところがいい」


「ふふ、そっかぁ」


 彼は照れ臭そうにしきりに睫毛を瞬かせた。火を弾く睫毛の先端まで白い。いや、銀か。


「ギン」と呼びかけるたび、彼は頬を緩める。

 こんなにも幸せそうにするのならば、意地など張らずに早く名前を尋ねてやれば良かったと隼人は後悔した。



            ◇


  

「これ、やるわ」


 食べ終えた吸い物のかわりに金魚が、椀の底を泳いでいた。

 小振りだが、燃えるように赤くて、薄絹のように透きとおる尾鰭を艶めかしく振っている。上物だ。隼人はかぶりを振って、椀をつきかえす。


「金魚なんか飼えん、それに大旦那に取りあげられる」


「飼わんでええよ。こっそり市場にでも持ってって売りゃあええ」


 想像するだけでもわかる。そりゃあもう、とんでもない高値がつくだろう。隼人なんかでは逆だちしても得られないような大金が。


「いらん」


「もらっちょって」


 金魚は尾鰭を揺らめかせながら、漆塗りの椀の底をぐるぐるまわる。


「もらってほしいんよ、な、ええやろ」


 結局根負けして隼人は金魚を貰うことになった。

 だが、飼っていて大旦那にバレたら大変なことになる。金魚を盗んだと勘違いされたら、それこそどうなるか。かといって、金魚を売るのはどうにも気が進まなかった。

 売られるために命を吹きこまれ、描かれる、金魚たち。息のつまる小さな桶か、隠れるところもなく落ちつかない硝子の鉢しか知らず、死ぬまでぐるぐると。


 なやんだあげく、隼人は金魚を用水路へと逃がした。ここならばちょっとは伸び伸びと泳いで、魚らしく生きて死んでいけるはず。

 ひらひらと紐でもほどくように紅の尾を振って水の流れに紛れていく金魚を眺めながら、隼人は取り留めもなく考えた。金魚たちはみずからが、紙に描かれた絵だと知っているのだろうかと。



 後日、やたらと弾んだ声で「どやった。ちっとは小遣いになったか?」と尋ねられた。

 金魚を売った銭でなにを食べたか、どこで遊んだかとせっつかれて隼人は「売らんかった」と苦笑した。


「銭なんかあっても、こんな町じゃ使うとこもないけぇ。じゃったら、金魚に本物ん水を泳がせてやったほうがなんぼかええ。なんや、きもちよさそうに泳いでったわ」


「そっか……なんや、らしいなぁ」


 せっかくやったのにとがっかりされるのもつらく、わざとおどけてこたえたが、彼はふんふんと頷いて納得したように笑った。


「……ほんまは何処にでもいけるんやもんなぁ」


 それは金魚のことなのか。

 それとも、ほんとうは彼だって何処かにいきたかったのではないだろうか。例えば兄貴とともに都会へ。

 動かない、傷だらけの脚へと視線を落とす。陸にあがれない金魚のような脚。それでいて泳ぐこともできやしない。


 蝶は連れてきてやれる。花は摘んできてやれる。だが、青空も風も此処に持ってきてはやれないのだ。

 彼自身を、連れていかないかぎり。

 


            ◇



 夏が終わり、秋がきて、またギンは衰弱していった。食事もほとんど喉を通らなくなり、無理に食わせると吐いた。金魚を入れるために持ってきた水桶が胆汁の混ざった泡でいっぱいになるたび、隼人は胸がちぎれんばかりになった。寒い寒いといって震える彼に陶器製の湯たんぽを準備してやる。貧血で時々失神を繰りかえしながら、彼は金魚を産み続けた。


 まもなく冬だ。

 瀬戸内海の冬は風が乾いていて、めっぽう寒い。


「そろそろかねぇ」


 肋骨の浮きでた胸を咳で軋ませながら、ギンはひとこと、つぶやいた。




 それから七日も経たぬ晩のことだ。

 正子を過ぎたころになって、また大旦那に「荷を捨ててこい」と叩き起こされた。やはり重い。だが、大きさの割には軽いとも思えた。

 一度だけ、ギンを肩車してやったことがある。その時の軽さによく似ていた。


 ぞわぞわと肋骨のなかで蟲の湧くような、悍ましい胸騒ぎがする。


 まさか。そんなはず。


 海についたところで、隼人は疑念の蟲に胸を食い破られ、無我夢中で麻布を破いた。彼でさえ、なければいい。死体だったとしても、赤の他人ならば知らなかったことにして捨てられる。例えばそれが、思いだせないだけの親兄弟だったとしても構わんと思った。


 そんな荒んだ祈りは、たやすく裏切られた。


「ギン……」


 白紙を無造作にまるめて捨てたかのように草むらに投げだされたものは、隼人が想像した通りの姿をしていた。


 やせ衰えた白い屍。剥きだしの素肌は月を吸って微かに光を帯びている。ちからなく投げだされた手の指に白い髪が絡みついていた。つかいふるされた毛筆のように死んでいる。


 青ざめた瞼はひらいていた。


「……なんで」


 あれだけ衰弱していたのだ、いつこうなってもおかしくはなかった。だが「違う」と隼人は頭を振る。この荷物を捨てにきたのは……


 隼人はギンの亡骸を放りだし、地を蹴った。



            ◇



 座敷牢は紙の海だった。

 畳を埋めつくすように白い紙が散らばっている。敷きつめられた白紙は、病気に蝕まれて松かさのようにささくれだった金魚の鱗を彷彿させた。


 そこにギンがいた。


 海から息もつかずに走ってきた隼人はぜいぜいと荒い喘鳴を洩らすことしかできない。

 昼と変わらず経几の前で横ずわりしているギンに、どう声をかけるべきかも解らなかった。


「……あぁ、みてしもうたんかぁ」


 ギンは事態を察して、眉の端をさげながら微苦笑する。異様なほどに顔色が良く、輪郭もふっくらとしていた。


「懸念いらんよ、描き換えただけやもん」


 薄々と想像はついていたのに、あらためて聴くと頭を殴られたような衝撃があった。


「いつから」


「もうずっと。はじめてやったんが八歳のころや。後は年に二度とか三度とか」


 衰弱するたびに最後の一滴まで血潮を絞りだし、己れを描いて具現化する。そうして息絶えた前の絵は捨て新しい絵と入れ替わる。


「でも気にせんで。所詮絵だっちゃ」


 血が凍った。

 なんて怖ろしいことを。

 だが、恐怖を凌ぐ悲しみが、荒れた冬の風浪ふうろうのように逆巻いて、涙があふれてきた。


 隼人は身を震わせながら声を荒らげる。


「絵やろうが、おまえはおまえじゃろ」


 悲しくて、やるせなかった。


「逃げよう。俺がおぶって、何処にでも連れてっちゃる」


 懸命に訴えかければ、ギンはたまらなく悲しいような、それでいて嬉しそうな、ゆがんだ微笑で幼い顔を崩した。墨に水を垂らしたような貌。


「そっか。まぁた、こうなってしもうたんか。うんうん、そうやなぁ、全部忘れても……やっぱり兄貴は兄貴やもんなぁ」


 兄貴――

 隼人は唇をわななかせる。


 なにひとつ想いだせないなりに、もしかしてそうではないかと疑いはじめてはいたのだ。


「やっぱり、そうなんか。おまえ、俺の弟なんか」


 俺は、おまえの兄貴なんか。


「せや。兄貴は今みたいに僕を連れて、ここから逃げようとしてな。親父に捕まってしもた。兄貴は必死で抵抗して……『ギン』って僕を呼びながら、崖から転げろけたんや」


 ギンはぎゅうっと唇をかみ締めてから、か細く、つぶやくようにして続けた。


「やけんど、死なんかった」


 死なんかったんよとあぶくでもくように繰りかえす。


「かわりになにもかも忘れちょった。ほんで親父に頼んで、もう逃げたりせえへんって約束するかわりに奉公人ってことにして兄貴を屋敷においてもろうたんや」


「こんどはうまくやる、捕まったりせんから」


 隼人は紙を踏んで、ギンに近寄ろうとした。


 大旦那もすっかりと寝静まっている今ならば、こっそりとギンを連れだせるはずだ。

 こんな町、捨てて、こんどこそ都にいこう。都は賑やかなところだという。新しい風が吹いているのだと。錆びついたような潮の臭いもしないし、煙草をくわえて項垂れながら「昔は良かった」と愚痴る老人たちもいない。


 ギンは眼を潤ませて、幸せそうに含羞はにかみながら頷いた。


「うん」


 それから彼はいつからか握り締めていた錆びた剃刀で、プツンとなにかを切った。


 天井に吊るされていた灯油ランプが落ちてきた。

 乳白色の硝子が粉微塵に砕けて、紙だらけの座敷牢は一瞬で火の海となる。

 金魚の桶を、ひっくりかえしたみたいに。


「なんでや」


 隼人は呆然と喉を震わせた。

 現実を理解できず、噴きあがる火の壁に手を伸ばして彷徨わせる。


「なに考えてんじゃ、なしてこないな」


「だって、二度も兄貴を死なせたないんよ」


 燃えさかる火のあいまから、悲しげに揺れる幼い微笑がちらりと覗く。

 紙に灯油を染ませていたのか、火の勢いは凄まじく、白い姿は燃える赤に呑まれる。


「隼人兄ぃは泳いでって、何処までも、何処までも」


 それが最後だった。


 隼人はなにかを託すような弟の声に背を押されて、泣きながら階段をかけあがって命からがら屋敷から逃げだした。


 用水路のある表にでたところで、凄まじい爆発が起きて隼人は背後を振りかえる。

 地下から噴きあがった火が、屋敷をごうごうと焼きつくしていた。

 火の絵筆は暗い夜空を赤ゝと塗りつぶして、雲の輪郭を鱗のように浮かびあがらせる。


「ああぁ、金魚じゃ……」


 燃える金魚が飛んでいる――

 噴きあがる焔はいまや狭い水桶から解き放たれて、何処までも泳いでいく金魚の群だった。金魚たちは剥がれかけた鱗から血を流しながら、燃える雲の海を渡っていく。

 熱風にあおられて木々の影が踊るように伸び、隼人もまたよろめいた。

 側にある水路に落ちかけて、咄嗟に足元に視線を落とした彼は眼を疑う。


「あ、あぁ、そうか、そうじゃったんやな……」


 踵から延びているはずの、己れの影が


「俺も絵か」


 いまごろになって想いだす。

 あの晩、弟を連れだそうとして大旦那――親父に追いつかれた隼人は崖から落ちた。死ぬほどの高さではなかった。だが運のないことに隼人が落ちた先には倒木があった。大きな木の枝が腹に突き刺さって、彼は死に瀕した。

 ギンは親父に懇願して隼人を連れかえり、彼の腹からあふれた血潮とギンの血潮を混ぜあわせて、絵を描いたのだ。呼吸いきをしているかのように生々しい最愛の兄の絵を。

 

 そうして命を吹きこまれたのが、いまの隼人だ。


 ぼたぼたと畳に涙を落としながら、鬼気迫る表情で筆を走らせる横顔が想いだされる。兄貴、めんたしなぁめんたしなぁと詫びる声。燃えさかる執念。

 奇怪な幼き絵師が、もっとも愛し、もっとも命をそそいで描きあげた――絵だ。


「……ギン」


 崩れおちるように膝をつき、隼人は身震いしながらその身を強く抱き締める。贋物の躰。それでも嘘みたいに脈を打つこの血潮のなかには紛れもなく彼がいる。

 

 燃えさかる火群ほむらを映した水路で、ぴしゃりと飛沫しぶきが弾けた。


 いつだったか、逃がしてやった金魚が一疋。

 書き終えに筆を払うように跳ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金魚、燃ゆ。 夢見里 龍 @yumeariki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画