本の虫
霙座
my bookworm
まりちゃん、と声を掛けられて手のひらの文庫の文字列から目を離した。視界がふわっと広がる。背中に人の気配がざわざわと戻ってきた。
図書館の三階、衝立で仕切られた学習スペースの机には、まりが二行英文を写したあと開きっぱなしのノートと、シャープペンシルが転がっていて、右の隅に置かれたジーニアスの間から、本の虫がにゃきっと顔を出していた。
「こんにちは。何を読んでいるのですか」
「……レインツリーの国」
受験生がこの時期に本を読んでいるなんて、現実逃避以外の何物でもない。大きな後ろめたさにまりは目を泳がせた。
本の虫はまりの様子に大きな瞳を細めて、にゃき、にゃきと移動して、辞書の表紙の上にCの形でちょこんと座った。
「たしか、以前も借りていましたね」
よく覚えてるね、とまりは言った。
図書館戦争シリーズは中学生の時に全部読んだ。かなり夢中になった。漫画も読んだしアニメも繰り返し見た。それから小説に戻ってまた読んだ。まりの正義を作った物語だった。その大好きだったシリーズに出てくるタイトルだった。恋愛小説なんてあんまり読まなかったけど、シリーズ関連だったから手に取った。
読み終わって、本棚に返した。
それきり。
「しばらく小説、読めてなかったから。高校受験のときは何を読んでいても余裕だったんだけどなあ」
「そうでしたか? 中学生のときもまりちゃんは、ちゃんと冬休みには小説も漫画もお休みしていましたよ。それより」
本の虫は白い表紙を覗くように、平たいCの形になった。
「その本、なんですね」
表紙の紙飛行機の行方を追うように、本の虫はまりの顔を追い越して眩しそうに遠くを見る。
「あのとき、『本編以外、読んで良かったけど、読まなくて良かった』なんて言っていましたから」
よく覚えてるね、ともう一度まりは言った。
好きなシリーズの関連書籍だったから、この文庫を借りた。大人の恋愛だった。読み始めてページをめくる指が止まらなった。続きが気になる。文章がきれい、距離感がすごい、展開が面白い、でも。
わからない。
何かがどこかで、まりの許容量を超えた。
中学三年生のまりはあのとき、この物語が、多かった、と思ったのだ。
「今、これとちょっと似た境遇に陥ってて」
「恋の悩みですか?」
「えっ、ちがうよ」
恋愛小説だからか。三年経ってまりがこの本に戻ってきた理由がそうであれば、多少は格好が付いたのかもしれない。
「恋の悩みでも聞いてくれるの?」
「昔から本の虫なので、経験値はありませんけどね」
本の虫は至極まじめに、首と思われる部分をかしげた。その形がかわいらしくて小さくぷっと吹き出すと気が抜けた。まりは、本の虫に向かって呟いた。
一回だけ読んで、それきりだったのに、思い出したの、この本のこと。
あのときとは、ちょっと感じ方が違ってて。
今ね、反省しながら読んでた。
わたしがやりたいこと、わたし以外には伝わらなくて、たぶん、みんなは歩み寄ってくれているんだけど、なんかちょっとずれていて。わたしは文学部に進学したいの。でも教育学部を勧められる。この間の模試の結果も振るわなくて、偏差値がちょっと足りなくて。大学に入ってから転部できるって言うけど、でもそれって、わたしのためなのかな、大人の都合なんじゃないのかな。いろいろ言われるのが嫌になったら、耳が塞がっちゃったの。お父さんの声も、先生の声も、聞こえなくて、せいせいして、でも自分の血管の音だけごうごううるさくて、せいぜい五十リットルの小さな箱の中でごうごうだけが反響している。
はね返る音の中で気付いた。
「これが自分の世界だったら、なんて狭いんだろうって」
耳が塞がってから一週間経って、ようやくまりは父親によく聞こえないんだと症状を打ち明けて、病院へ行った。ストレスから来る低音域の難聴。診察の待ち時間が長くて、待ち合いの椅子で父親と久しぶりに話をした。もう半年もまともに口を利いていなかった。
父親に伝えたいことばがあった。父親からもらいたいことばがあった。それなのに、わかってくれない恐怖におびえて対話を避けていた。もう一度投げかけてみたい。そしたら、投げ返してほしい。キャッチボールをしたい。どうしてまりが文学部に進みたいと思ったのか。父親の書斎にあるジャンルも時代も飛び越えたたくさんの文章に触れてきて、まりも本に囲まれた人生を送りたいと思っていたから。
本の世界は、果てしなく広大なのだ。
夢を持つこと。自分の世界を持つこと。理想に向かって進むうちに、現れる壁はいつも高くて分厚い。父親は、自分の苦労をまりにさせたくないんだよと零した。
まりは、文学部は就職先が少ないからなんて余計なおせっかいで、わたしが今このとき向き合うのは、夢破れた後の現実じゃないんだと言った。
——父さんも、おじいちゃんにそう言って、文学部に進んだんだった。
たっぷり考えてから、父は笑った。自由に学びなさい、背中を押してくれた。
父の声は、クリアに鼓膜を通り抜けた。
まりは、処方された薬を飲んで、聞こえはずいぶん改善した。
今日、学校の補習の後、いつもどおり図書館に来て、席に着いて、鞄を置いて、テキストとノートを広げて、ああ、あの本を読もうと思った。
前向きすぎるくらい前向きじゃないと、乗り越えられないことってあるんだ。
この主人公たちの、これくらいの強さが、ぴったりだ。
まりは本の虫に顔を寄せた。
「受験勉強、これから追い込まないといけないの」
「ええ」
「とりあえずあと一ケ月、がんばる」
「ええ、ええ。そうですね」
本の虫が辞書の上で姿勢を正して、Nの形になった。両足があったならばきっと、足を組み替えたのだろう。清々しくて、堂々としていて、誇らしい。
本の虫はときどきこうしてまりの話を聞いてくれていた。受験勉強で学習室にしか通わなくなっていたから忘れていた。まりには、本の虫がいる。本の虫はまりのことばを聞いてくれる心強い味方だ。
本の虫がまりの顔をじっくり見て、納得したようにうなずいた。まりもうなずき返した。今日は小説を読んで終わってしまった。午後六時、閉館を告げるチャイムが鳴る。
身長ほどもある十センチの辞書の段差をよいしょ、と一息にぴょんと飛び降りた本の虫は、勢いのまままりの右手の甲に顔をぶつけた。それから手の甲を上って、ぽとん、とまりが開いていた百八十四ページに落ちる。ふー、と息をついて改めて、文字が踊る柔らかなクリーム色の紙の上に寝転んだ。
「さ、閉じてください」
今日はこの小説で眠ることにしたようだ。
まりはわかったよと言う代わりに微笑んで、本を閉じた。
また明日。
(おしまい)
本の虫 霙座 @mizoreza
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