會津の蒼鷹 ~独眼竜の野望を打ち砕け~
浜名浅吏
~把握の章~
『御目通り』天正六年(一五七八年)
第1話 軍神転生す
明治四十年。桜の花弁舞い散る三月。東京牛込は喜久井町の邸宅で、一人の老人が病と闘っている。
十二畳の部屋、そこに布団が敷かれている。部屋には他に何も無い。箪笥も無い、仏壇も無い。強いて言えば掛け軸が掛けられている程度。
無味乾燥という言葉が実にしっくりくる。
障子戸が開けられているのは、病床からでも庭の桜が見れるようにという計らいなのだろう。
枕元には小さなお盆。そこに湯飲みと水差し、それと薬袋が乗せられている。薬袋には老人の名、『立見尚文』が記されている。
立見家は三重県にかつて存在していた桑名藩の藩士の家。だが、立見は八丁堀にあった江戸の藩邸で生を得た。
父は江戸勤番の町田静臥。幼くして父の江戸の勤番が終わり、桑名に戻って叔父の養子となり立見家を継ぐ事になった。
その後、藩校に学び、道場に入門し、心身共に克己的に鍛えた。
安政五年、十四で元服。藩主松平定敬公の小姓となる。
二十歳になった立見は藩主の松平定敬公が京都所司代に命じられたのを機に、桑名を離れ京に向かう事になった。
「思えばあれが、我が人生の大きな転機であったな……」
荒れた京の惨状を目の当たりにする事になり、さらに幕府陸軍に編入され、将校の一人として長州の賊共と戦って、戦って、戦い抜く事になった。
鳥羽伏見での敗戦の後も徹底的に幕府軍として戦った。
だが、悲しいかな、立見がいくら奮闘しても世の流れというものは濁流となって敗者を押し流していく。
雷神隊の隊長として奮闘するも、会津への撤退を余儀なくされてしまった。
だが会津の鶴ヶ城は落城。立見もそこで降伏した。
「我を知る多くの者は、もっと早く降伏しておればと言った。だが、我はいささかも後悔はしておらん。強き相手と戦うは武人にとって誉であるから」
運命というものは不思議なもので、その後薩摩の者たちが反乱を起こした。その結果高級将校が足りなくなり、立見に声がかかる事になる。
その戦で西郷南洲を潰走させる武功を挙げた。
その後清国と戦では旅団を率いて参戦、平城攻撃に参加。鳳凰城も落城させた。
ロシアとの戦では師団を率いて参戦、黒溝台で敵の大反抗を一手に引き受けこれを退けた。
ロシアの侵攻への備えとして雪中行軍訓練を命じ、一連隊丸々凍死させるという大失態を犯したりもしたが、一度戦場に出れば部類の強さを誇った。
数々の戦功をあげた立見であったが、残念ながら病には勝てないらしい。
一陣の風が吹き込み、庭の桜の花弁が一枚、部屋に飛び込んで来るのが見えた。
桜というのは、何とも儚い花だ。蕾が芽吹いてから、美しい大輪を咲かせても、あっという間に散ってしまう。
『限りあらば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風』
誰が詠んだ句かは忘れたが、そんな一句を急に思い出した。病を得て初めて、この句の詠み人の気持ちがわかる。
桜を見ていると、どうしてもあの日の事を思い出す。
人生でただ一度、敵に膝を屈した屈辱の日の事を。
今でも思う。あの時、鶴ヶ城の籠城にて、もっと我にやれる事は無かったのだろうかと。
山川や山口と桜を見ながら酌み交わした酒は実に美味だった。あの酒の分、果たして我は活躍ができたのだろうか。
まさかこんな最後を迎えるだなんて、二十歳の自分に言っても絶対に信じないだろう。
あの頃の我は、絶対にどこぞの戦場で野垂死にすると信じて疑わなかった。「戦場で死ぬるは武人の華」とすら公言していた。
それが、まさかこんな畳の上で病を得て死ぬ事になるだなんて。
あの頃の我ならきっと言うであろう。そのような恥ずかしい最後を迎えるくらいなら、自ら銃を持って果敢に敵に突っ込んで行けと。
あの頃は若かった。まるでこれから咲かんとする蕾のように。
「ああ、できる事なら、もう一度あの鶴ヶ城の桜を見て、あの旨い酒が飲みたかったのう……」
もはや叶わぬだろう希望を口にして、立見は静かに瞼を降ろした。
閉じられた右の瞳から、つうっと雫が垂れる。
再度一陣の風が吹き、桜の薄墨の花弁が舞った。
****
ふわふわという何とも言えない感覚が体を包み込む。
周囲を見ようとするが、残念ながら目が開かない。だが、まるで雲の上を漂うような、心地の良さのようなものを感じる。
ふわりふわりと揺れる。まるで船に揺られているような。
この匂いは何の匂いだろうか。
青臭いようでもあり、埃臭くもある。
ずっとこのまま揺られていたい。
ゆっくり、ゆっくり、体が何かに沈み込んでいるのを感じる。
まるで上質な真綿の中に沈み込んで行くような。
****
何やら小鳥のさえずりが聞こえる。
この匂いは何であろうか。そうだ、この匂いは
ここが天国なのだろうか?
ゆっくりと瞼が開いていく。横に長く見えた光が、徐々に厚みを帯びていく。
目に入って来たのは板張りの天井。そして部屋に差し込む陽光。
我は……死んだのでは無かったのだろうか?
これは一体?
陽光が眩しく、布団から右手を出して光の差す方へかざす。
ん?
なんだ、この小さい手は。まるで子供のそれではないか。
まさかと思い左手を出してみるも、やはり同様に小さい。
両手で顔を触ってみる。顎に髭が無い。
半身を起こし、その上背の低さで確信した。
どうやら我は子供になってしまったらしい……
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