天空の糸
馬渕まり
天空の糸
「――頼むよ、俺を助けると思って、写りのいいやつ一枚くれよ」
*
昭和二十年七月某日。
連日の空襲で滑走路に無数の穴が開いた、大分海軍航空隊。
その一角にある薄暗い事務室で、主計中尉の佐々木浩司は、遺品の仕分け作業に明け暮れていた。
奉書紙に並ぶ無機質な活字と、ジュラルミンの箱に残された私物を突き合わせる。検閲済みの手紙、使い古した万年筆、そして階級章。 佐々木は憂鬱な手つきで、新たな封を切った。
『六月×日 沖縄方面ニテ未帰還』
『海軍中尉・山崎一郎』
『功ニヨリ、海軍大尉ニ任ズ』
「……山崎中尉も、往きましたか」
コレス(他学校同期)のよしみで知った顔だった。優秀な男がまた一人、特進と共に数字だけの存在になった。
佐々木は慣れた手つきで遺品箱の中身を確認していく。だが、その手が不意に止まった。 無骨な軍人の遺品には似つかわしくない、一枚のポートレート写真が出てきたからだ。
日本髪に、上質な着物。整えられた眉と、美しい鼻筋、憂いを帯びた瞳。写真館特有の修正が施されているのか肌は陶器のように白く、口元は小さく愛らしい。初めて見る顔だが、どこか懐かしい。それに、妙に守ってやりたくなる不思議な雰囲気の女性だ。
「中尉の許嫁か? ……写真うつりは極上だな」
佐々木は写真を裏返した。そこには撮影日と、几帳面な山崎らしい文字が走っている。
『この写真を、手套(手袋)と共に本人へ返して欲しい』
インクの沈み具合から見て、書かれてまだ日が浅い。出撃直前、整理箱にこれを放り込む最期の瞬間に書いたものに違いない。
遺品箱を探ると、新品の白い手套が出てきた。 女性への贈り物にしてはサイズが男物そのものだ。おそらく山崎自身の持ち物だろう。上質な生地だが、奇妙なことに、袖口には不揃いな間隔でびっしりと白いしつけ糸が残っている。
「几帳面な山崎らしくもない。……まぁ、事情を書いて実家に送れば、あの女性の手元にも届くだろう」
佐々木はそう判断して身上書を確認する。しかし、頼みの綱である実家の住所は、赤い二重線で無惨に打ち消されていた。
「呉空襲か……。これでは届けようがないな」
佐々木が途方に暮れていると、部屋の扉がノックされた。 入ってきたのは、大量の書類を抱えた航空司令付の副官、
扉が開いた瞬間、カビ臭い薄暗い部屋に、廊下の窓から強烈な夏の日差しと、耳鳴りのような蝉の声がどっと流れ込んだ。
「追加の訃報だ」
湯口は無造作に書類の束を遺品箱の横へ置く。 鼻筋が通り、彫刻の様に整った顔だが、その右眼は白く濁り、黒縁眼鏡の底に沈んでいる。
湯口は山崎と兵学校の同期だった。卒業後は共に飛行学生として操縦桿を握ったが、訓練中の事故で片目の視力を失い、地上勤務に回されたという経緯を持つ。
「……なんだ、この写真は」
ふと、湯口の視線が机の上のポートレートに吸い寄せられた。
分厚い眼鏡の奥の目が、奇妙なほど大きく見開かれている。佐々木はその表情を見逃さなかった。
「山崎の女だよ。お前、同期で同郷なら何か知っているだろ」
「ああ、確かに周りに写真を見せながら何か言っていたな。詳しい内容までは知らん」
「遺品として実家に送ろうと思ったが、空襲にやられたようでな」
「寺で供養してもらえばいいだろう」
佐々木が写真を持ち上げ、湯口に裏側を見せた。
「この女性に写真を返して欲しいってよ」
「この国家の大事に、くだらん」
「くだらんかもしれんが、あいつの遺言だぞ」
湯口は佐々木に聞こえるように舌打ちをした。
「任務に障らないようにしろよ」
それだけ言い残し、部屋を出ると乱暴に扉を閉めた。
取り付く島もないとはこのことだ。
佐々木は肩をすくめると、再び遺品箱に向き直った。湯口があれほど動揺するということは、やはりこの写真には何かある。
主計科仕込みの探究心、いや、ただの野次馬根性に火がついた。
「任務に障らない範囲でなら、文句はあるまい」
佐々木はまず、新品の白手袋を手に取った。
先ほど感じた違和感の正体を突き止めるためだ。女性への贈り物にしては大きく、そして袖口のしつけ糸が妙に多い。
指先で糸の凹凸をなぞる。
不規則な縫い目。長、長、長、短、長……。
ツー・ツー・ツー・ト・ツー
ツー・ト・ツー・ト・ト
ツー・ト・ト・ト
佐々木の顔色が変わる。
これは、ただの縫製ミスではない。和文モールスだ。
彼は慌ててメモ用紙を引き寄せ、指先が読み取る信号を書き殴っていく。通信科の符号表に付き合わせ、浮かび上がる三文字。
『ス』 『キ』 『ダ』
「…………」
佐々木は息を呑んだ。 なんと不器用で、なんと熱烈な遺言だろうか。検閲官の目を欺き、ただ一人、これを受け取る女性にだけ伝わるように縫い込まれた愛の言葉。
「こんなものを見せられたら、引くに引けないじゃないか」
佐々木は写真を慎重に胸ポケットへ仕舞うと、うだるような暑さの屋外へ出た。真夏の太陽が容赦なく肌を焼く。
かつての喧騒はなく、残機も疎らになった格納庫。それでも整備兵たちは黙々と、主を待つ機体を磨き上げている。
佐々木はその中から、山崎が信頼を置いていたベテランを見つけ出した。
「森兵曹長!」
名を呼ぶと、男はプロペラの手入れを止め、脚立を降りてくる。森誠兵曹長だ。
「佐々木中尉、なんでしょうか」
森は油にまみれた手拭いで、額の汗を乱暴に拭った。
佐々木は懐から例の写真を取り出し、森に見せる。
「この写真の女性に見覚えはないか?」
「ああ……。山崎中尉……いえ、大尉の『女神様』ですね」
森の表情が崩れ、懐かしむように目を細める。
「これを本人に届けてくれというのが遺言なんだが、あいにく手がかりがない」
「私もお名前は存じませんが……幼馴染だと聞いております」
「恋人だったのか?」
「いいえ、高嶺の花だと。良家のお嬢様だから、尉官風情じゃ相手にされない。いつか出世して迎えに行くんだと、そう
森は言葉を詰まらせ、目頭を押さえる。
佐々木の中に疑念が走った。同郷の良家の子女であれば、湯口が知らないというのはやはりおかしい。
「大尉は、いつもその写真を肌身離さず持っていました。『この人がいれば俺は死なない、必ず帰れる』って。……でも、今回は置いて行かれたのですね」
それはつまり、帰るつもりのない出撃だったということだ。佐々木は返す言葉を持たなかった。
「そうか……時間をとらせて悪かったな」
搾り出すように言い、ふと森の顔を見る。その涙で潤んだ瞳の表面に、佐々木自身の姿が揺れているのが見えた。
――瞳の、映り込み。
佐々木は弾かれたように、事務棟へと走り出した。 部屋に戻るなり引き出しからルーペを取り出し、荒い息のまま女性の写真を覗き込む。引き伸ばし特有の粒子の荒れが無い。ならばこれは、大判のガラス乾板から直接焼き付けた「密着印画」だろう。
拡大された右の瞳。その吸い込まれる様な黒目の中に、白い影が浮かび上がる。
「……最大限に引き伸ばせば、何か分かるかもしれん」
その夜、佐々木は
写真を新しいネガに焼き付け、拡大機を操作し、瞳の奥を執拗に引き伸ばす。現像液の中で徐々に輪郭を現したのは、 白い極端に丈の短いジャケット。
「江田島の生徒か……」
顔はぼやけて誰かは分からないはずなのに、佐々木はそれが山崎に思えた。
撮影日は昭和十三年、八月。山崎がまだ兵学校の生徒で、戦争の影も薄く、未来だけを見ていた夏の日の幻影だ。
不意に、遮光カーテンが引きちぎられるように開いた。
「……おい」
不機嫌を具現化したような湯口が、仁王立ちで佐々木を睨み下ろしている。
「貴様、何をしている! 少ない資源を無駄に使うな」
湯口は苛立ち紛れに頭を掻きむしった。
佐々木は動じない。濡れたままの印画紙をピンセットでつまみ上げ、湯口の目の前に突き出した。
「決定的な証拠だ。場所は呉、映っているのは山崎。……白状しろ。お前、本当はこの女性を知っているな?」
確証は無いが、今は言い切るしかない。湯口の視線が泳ぎ、やがて観念したように深い息を吐き出した。
「……ああ、俺の従姉妹だ」
忌々しげに、吐き捨てる。
「山崎が、見合いが鬱陶しいから『女避け』に写真をくれとしつこくてな。親類の写真館で、従姉妹に頼んで撮った一枚だ」
「その従姉妹は、今どこに?」
「去年結婚した。今は代議士の奥方だ」
湯口は佐々木の手から写真をひったくると、躊躇いなくビリビリと引き裂き、屑籠へ叩き込んだ。
「独身の時分ならまだしも、古傷を掘り返すな。……迷惑なんだよ。山崎にとっても、我が家にとってもな」
「……悪かった」
佐々木が小さな声で詫びた。
「いや、こちらも感情的になりすぎた。……お前が山崎を思ってやったのは分かる」
湯口が低い声で応じる。しばらくの沈黙のあと、佐々木がポツリと切り出す。
「手套を渡してくれないか。……出所は伏せても良い。ただ、しつけ糸は絶対に取らないでくれ」
「……なんだそれは」
「新品の証だ。切るのは、受け取った本人の役目だろう」
「……分かった。机にでも置いておいてくれ」
足音が遠ざかり、扉が閉まる。
部屋には、引き裂かれた写真の残骸だけが残された。
*
それから一月後、佐々木はまた遺品整理に明け暮れていた。
終戦日に行われた特攻。戦死者の名簿には湯口の名も刻まれていた。志願だった。片目の視力は無いものの、航空学生だった過去と熱意を買われ、湯口は見事に本懐を遂げた。
「終戦だったというのに、全く馬鹿な奴だ」
遺品箱には、あの手套と、湯口が破り捨てたはずのあの写真があった。いや、破れた跡は無い。
「もう一枚あったのか……」
裏書きの撮影日は同日。『親友に乞われて』と古いインクで書かれた湯口の筆跡が残る。
佐々木がそっと手套を手にとった。
――しつけ糸が増えている?
慌ててメモをとる。
『ス』 『キ』 『ダ』
『オ』『レ』『モ』
佐々木は震える手で、箱の底にあった身分証を拾い上げた。
事故前の、湯口がまだ眼鏡をかけていなかった頃の写真だ。
それを見た時、既視感は確信に変わった。 写真の女性と同じ、憂いを帯びた瞳と、小さな口元がそこにあった。
「ああ……」
嘆息を漏らし見上げた窓の外には青空がひろがる。燕が二羽寄り添って視界の外へと消えていった。
天空の糸 馬渕まり @xiaoxiao2
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