トナリのヒトのヒトトナリ

灰唐 揚羽

金究 烏鷺という少女

人間が居る。

すなわち、嘘がある。


嘘は人間の偉大な発明品の一つだ。い嘘も悪い嘘も、人の周りを常に、纏わりつくように漂う。グループの中で暗黙の役割を演じたり、思ってもいない褒め言葉を言い合ったり。僕含め、人間は人と関わる上で仮面を被り、本心を隠す。しかしそれは悪い事ではないし、むしろ自然な事で、故に僕、空見そらみ 信司しんじは人間が好きだ。人間の営みをて、どんな関係で、なぜその仮面を被るに至ったかや、どんな本心を隠しているかなどを考えるのが楽しい。


イエス・キリストはこう言った。

『隣人を愛せよ』

己を愛し、それと同様に他者を愛せという教えだ。いい言葉だと思う。

しかしだ、ここ早蕨さわらび高校に入学し早一月、人間観察をしてきて、クラスで就中なかんずく異彩を放つ人間が一人居た。それが僕の左隣、1-Aの後ろの窓際席でしめやかに読書しているこの女子生徒だ。


金究かなくつ 烏鷺うろ

隣人として少し話した事はあるが、特に変なところも無く、物静かな麗人れいじんといった具合だった。つややかな黒髪をさらりと耳にかけるその姿は、一見ただの文学少女である。しかし僕は昨日、彼女の本の中身を見てしまったのだ。


それは文字一つ、ページ数さえ書かれていない真っ白な白紙だった。

さながら、ブックカバーを纏っただけの紙の束だった。彼女は、ありもしない活字に目を走らせ、それが左端に達すれば白紙のページを捲り、普遍的な読書家然としていた。

異常者である。

極めて無害だが、それ故に動機も意味も分からない。この一ヶ月、金究さんは友達らしい友達を作る様子もなく、ただあの紙束を捲っていたというのか?なんの目的があって?

まるで分からないが、僕はそれ故に彼女が知りたくなった。

キリストなら、この奇妙な隣人も愛するのだろうか。


「金究さん、その本って何読んでるの?」


り気なく、ただ尋ねる。

金究さんはこちらに少し首を向ける。

「『舞う紫陽花あじさい』って小説。」

すっと淀みなく答えた。こうもはっきり言われると僕が何らかの勘違いをしたのかと思う。

「あー聞いたことある、なんかの賞取ったんだよね。」

「うん」

「面白い?」

「うん」

「へ〜、それさ、良かったらちょっと見せてくれない?最初の数ページだけとか」

ぶっ込んでみる。

「...」

2秒ほど沈黙した。一瞬だがやけに長かった。

「…いいよ、でもHRホームルーム始まっちゃうし、放課後にでも。」

言い終えたタイミングでチャイムが鳴る。上手く躱されてしまった。仮に用意していた本物を渡されれば、白紙本は暴けない。しかし、彼女はあれを『舞う紫陽花』だと言った。

つまり、嘘を吐いた。

であれば俄然がぜん、隠された本心を知りたくなる。なんのために白紙本を学校で開いている?嘘を吐いてまでそれを隠すのはなぜ?


授業中、僕は頭の中で可能性を潰していく。


A.誰かを騙すため。

何らかの目的があって文学少女を演じている可能性。しかし白紙本である必要がまるでないのでこれは除外。


B.中二病。

白紙本を読むという常軌を逸した行動で悦に浸っている可能性。しかしそういった動機なら、誰かにそれを知られ、普通でないと思われないと意味がないはずだ。


C.抑々そもそも「そういう」本だった。

表現として真っ白なページを用いている本だったのかも?僕が見たのは見開き計4ページだけだし、世界には色々な本がある。『舞う紫陽花』がそういう本だっただけかもしれない。もしそうなら、かなり拍子抜けだが…。


放課後になり、クラスの喧騒が大きくなる。僕は腹を決めて、彼女の机に歩み寄った。

「金究さん、さっきの話だけど…」

彼女は顔を上げ、僕の目を見た。その瞳は驚くほど静かで、何一つ感情を読み取れない。白紙のページとは対照的に、吸い込まれてしまいそうな黒だ。

「うん、じゃあちょっと着いてきて。」

金究さんはそう言うと、鞄を手に持ち席を立った。

「え、うん。どこ行くの?」

「良いところ。」


「ここ…書庫?」

「うん、旧書庫。開けてくれる?重いんだよね」

着いたのは、僕含むほとんどの生徒が存在も知らないであろう、旧棟の隅にある旧書庫だった。扉は少し重く、開けると中は少し埃っぽくて、本の匂いがした。

「ありがとう」

金究さんはスタスタと中へ入り、若干戸惑いながらも続く。中は薄暗く、天井まで届く木製の書架が迷路のように並んでいる。整然としているというよりは、忘れ去られたように雑多な印象。放課後の喧騒は届かず、時折吹部すいぶの練習の音が薄らと聞こえる程度。

「良いところでしょ?」

「そう、だね。秘密の部屋って感じ…。」

なぜ態々わざわざこんな誰も来ない所に連れてこられたのか。それは、あの白紙本の事を周囲に知られたくない事を示唆している。

「ほら、座って。」

埃を被った椅子を引き、軽く埃を払い、手をぱっぱとはたき、座る。

「はい」

金究さんは鞄から、くだんの本を取り出し、僕に差し出す。

「ありがとう」

妙に緊張した。手触りのいいレザーのブックカバーを纏った、その2cm程の紙束は、やけに重く感じられた。

そして、開いた。パラパラと捲り、それは、『舞う紫陽花』でないと確信する。最初から奥付までざっと確認した。本当に、それは白紙の束であった。ずっと、雪のように真っ白。


「…やっぱり…」

「その反応からして、やっぱり見たんだね。人の読んでる本を覗き見するなんて、空見くんはえっちだねぇ。」

「これは…何?なんでこれを教室で開いて、『舞う紫陽花』だなんて嘘までついたの?」

「空見くんはさ、盗撮されたことある?」

「…は?」

「無いよねぇ、男の子だもんねぇ。私はあるよ、1度だけ。でもきっと1度だけじゃない。」

「何を」

「盗撮や掏摸スリのような行為ってさ、本人や周囲の人間にバレなければ捕まらないよね?そういう犯罪を潜行犯罪せんこうはんざいと勝手に呼んでるんだけどさ。」

「ちょっと」

「で、潜行犯罪の被害者が被害に一生気付くことなく、つ加害者が一切証拠を残していない場合、果たしてその行為は存在したと言っていいのかと疑問に思ったんだ。」

「金究さん」

「証拠は無く、観測者も不在の罪に被害者は存在するのか?認識されることのない被害は被害なのかな?」

「…」

「だから、試してたんだ。」

途端に、滔々とうとうと、自論を語り出す金究さん。表情はそう変わっていないのに溌剌はつらつとしていて、先程までの得体の知れないミステリアスな彼女は消え失せていた。仮面を剥がした彼女は、宛ら別人だった。

「白紙の本を読むという私の奇行も、観測されない限り、傍から見ればただ読書をしているだけ。もしこれがクラス中に知れ渡っていれば、私は奇人。でも、観測されていないというそれだけで、私の奇行は肯定されるんだ。」

「…結局バレてちゃ世話ないよ」

「ふふ、そうだね。」

彼女は口の前に手を持ってきて、くすりと笑う。その笑みは役を演じきった役者か、あるいは実験が成功した研究者のようだった。

「確かに何で、何のために、この一ヶ月、私はこんな事をしていたんだろうね、ふふ」



「そりゃ、気付かれたかったからでしょ?」

「...え?」

金究さんが、初めて素で驚いたようにこちらを見る。

「実験は失敗したのに、随分と嬉しそうじゃない。というか第一、この実験はする必要が無い。誰が自分の家でどんな奇行に走ろうと、それは基本的に誰に知られることも無い。誰にも観測される事のない行為が便宜上べんぎじょう存在しない事なんて、考えれば分かる。」

「…」

金究さんはじっとこちらを見つめ、傾聴けいちょうしている。

「金究さん、君は思索的しさくてきで好奇心旺盛な人間とうかがえる。この実験はそれ故の行いだ。この実験の目的は観測されない事でなく、寧ろその真実を暴かれ、こうして仔細しさいを話す事。そしてその目的の源泉は、『存在を知られたい』『誰かに考えを話したい』であり、承認欲求......。

要するに、君は寂しかったんじゃなかろうか?」

「...なっ......」

彼女の白磁はくじのようだった顔がみるみる紅く染まる。まるで無自覚だったらしい。その様子は今までに例を見ないほど、純粋で無防備な人間の姿だった。

「僕は人間観察が好きなんだ。金究さんも見てたけど、友達らしい友達も居ないようだった。もしかしたら、友達が欲しいという心の奥底の叫びが、論理のたいを成して溢れ出たのかもしれない。」

「ふ、ふふふ、ふふふふ…面白い推理だね…。小説家にでもなったらどうかな…?」

「そんな追い詰められた犯人みたいな」

「まぁ否定はしきれないよね。一部的を射ているのは事実というか、そういう面もあったかもしれない。」

金究さんは紅潮した頬に手を当て、目を泳がせる。嘘をついている人間の典型的仕草。

あれ程不可解だった仮面が、剥がれてしまえばこの有様である。彼女は宛らごく普通の、どこにでもいる少女のようだった。

やはり人間というのは良いものだ。

嘘と、嘘が隠す本心は、その人間の本質を、存在の形を、為人ひととなりを、率直に表している。

「…良ければ、友達になろうよ。」

くいう自分も真正面から、女子に、友達になろうなんて、面映おもはゆい事を。必死に仮面を被って平静をよそおって、言ってみるのだ。

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トナリのヒトのヒトトナリ 灰唐 揚羽 @haikara-ageha

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