戦時中、この街には小規模ながらも海軍の航空隊があった。ただし小さいとはいえど軍事施設には違いなく、そのため戦争末期にはアメリカ軍の爆撃機が再々やってきては爆弾を投下していったらしい。


 その防空壕が円明寺の裏山に掘られた理由はどうやらアメリカ軍も御仏の住まいである寺までは空襲の標的にしないだろうと当時の人々がタカをくくっていたからだという。


 笑える話だと兄はそれについてこう言い添えた。


「知ってるかい? 原爆投下予定地の筆頭は直前まで広島でなく京都だったんだよ」


 ともかく戦争は終わり、防空壕はたいした役割も果たさないまま打ち捨てられた。

 

 戦後七、八年も経った頃の夏。

 その防空壕跡に乞食のような身なりをした男が住み着いているらしいという風聞が街に広まった。


「当時、浮浪者はそれほど珍しくもなかったんだ。たいていは傷痍軍人とかそういう類いの人たちだよ。戦争で手や足がなくなったり、目が見えなくなったりね」


 少し肩をすくめてそう注釈を入れた兄に僕はなんとなく頷いた。


 男は早朝、夜も明けきらないうちにどこかへ出掛けていき、夕闇が迫る頃、円明寺の門をくぐり帰ってくる。そんな生活を繰り返していた。

 男はいつも真っ黒な洋服を着ていた。

 それは暗い場所でも分かるほど汚れて、そこかしこが解れてはいたが、もとはきちんと仕立てられた礼服のようだった。


 住職は年老いていた。

 息子をガダルカナルで失い、先年、妻にも先立たれ、大阪に嫁いだ娘は便りを寄越すことも稀になっていた。


 住職はときおりその男に話しかけてみた。


「どこから来たのか」

「いつも何をしている」

「食うものはあるのか」


 けれど男はいつもなにも答えず、ただ住職が息をのむほど深々と頭を下げてから通り過ぎていった。口ひげに覆われた男の頬は異様に痩せこけ、伸びきった前髪に見え隠れする瞳がやたらギラついていた。判然とはしないがおそらく歳の頃は三十代後半といったところだろうと住職は予想をつけていた。


 住職には男がそれほど悪い人間であるとは思えなかった。仏門に仕える身としてはあくまでも性善説に生きるべき、などともちろんそんな殊勝な考えを持っていたわけではない。僧侶といえどもそれでは暮らせない。迂闊に人を信じると寺ごと悪人に奪われてしまう。そういう時代だった。


 住職には男の中になにか言い知れぬ事情があるように思えた。

 潔白な善人であるとは断じきれないが、少なくとも悪いことを企む人間ではない。そうでなければあれほど深く頭を下げることはないだろう。そう考えた。

 住職は男を悪人にしたくなかったのかもしれない。

 なぜならその男の相貌が失った息子に妙に重なるものがあったからだ。


 けれど、地域住人たちのほとんどは当然ながら彼の存在を快く思わなかった。

 そういう人種、つまり浮浪者たちはたいてい畑の作物を盗んだり、喧嘩騒ぎや面倒ごとを起こすと相場が決まっていた。

 そして同じ頃、近隣の田畑で作物盗難の被害が出ていた。

 憂いが実害となって姿を現したわけで、防空壕に住み着いた男に疑いの目が向けられたのは至極当然な成り行きだった。

 

 町内会での話し合いの結果、町内会長と住職を含めた数人の男たちで、防空壕を訪れることになった。

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