第1話
「――ただいま、っと」
アパートの自宅へと戻ってきた日雲は、普段の仏頂面のまま靴を脱ぐ。部屋へと向かい、丸テーブルの上に買い物袋を置く。
踵を返してキッチンに行き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出すと、再びテーブルの方へ戻って座る。
袋からレジで温めてくれた弁当を取り出す。まだほんのり温もりを感じる。両手を合わせて「いただきます」と口にしてから食事を始めた。
スマホでSNS情報を見ながらも、思考はやはり先ほどの光景について。
(ネットではそういう情報はまだ無い……か。にしても……魔法少女ねぇ)
アレは間違いなく魔法少女だった。しかしこの世界で、あんな奴らを見たのは生まれて初めてだし、そういうのが実在するなんてのも聞いたことがない。少なくとも〝少し前〟までは。
地球のどこかでは、今も戦争は起きているし、飢餓に苦しむ人間も大勢存在する。ただ日雲が住んでいる日本は平和そのもので、犯罪こそ起こるものの、当然ファンタジー要素なんて皆無だった。それが一変して〝アレ〟である。
僅か三分ほどで弁当を食べ切り、水で喉を潤しながら、SNSの検索ワードに魔法少女という言葉を打つ。検索してみても、実在するなどという情報はやはり見当たらない。
この状況、普通ならば夢だったと無理矢理言い訳しても不思議ではない……が、今の日雲にはそれは困難と言わざるを得ない。
何故なら先ほど、あの魔法少女と戦っていたらしき異形を瞬時にして倒したのは、他ならぬ日雲自身なのだから。
その手応えから、あの光景は現実であり、そして――。
(〝アイツ〟の言ってた通りのことが起きたってわけだ)
飲んでいたペットボトルをテーブルの上に置いて、そのまま寝っ転がる。見慣れた天井に目を細めつつ溜息を吐く。
日雲の脳裏に浮かぶ〝アイツ〟なる存在。その者との邂逅が蘇っていく。
そう、アレはゲリラ豪雨にも似た激しい雨が降っていた夜のことだった。
その日、日雲は学校の図書室で読書を静かに満喫していた。
放課後になると、いつもは真っ先に直帰してから自宅でゲームに勤しむのだが、五回に一回くらいは、こうして最終下校時間まで図書室の隅の席を陣取っている。
知識は生きる力になる。死んだ母がよく口にしていた言葉だ。実際に母も、学生時代は本の虫と呼ばれるくらいには夢中になっていたらしい。
世の中に存在するありとあらゆるジャンルの本。その中には確かに生きていく上で役立つ情報もある。それが絵本や漫画だとしても、その中から学び取れるものは確実にあると母は言っていた。
幼い頃からそう言われながら育ったこともあり、日雲も抵抗なく読書は趣味となっていたのだ。知識欲がもともと強かったからか、本を読むことに幸せすら感じていた。
ただ、現代高校生にとって普通の趣向も持ち合わせており、やはりゲームというジャンルもまた趣味の一つとして数えられていたのである。
故に日雲の生活パターンとして、その大半を占めるのはゲームか読書だ。食事すら忘れて没頭することも珍しくなく、気づけば土日を寝ずに過ごしていたということもあった。
(そろそろ帰るか)
まだ最終下校まで時間はあるが、ちょうど一冊を読み終えたので、そのまま図書室を後にする。
廊下を歩いていると、グラウンドの方角からは他の生徒たちの声が聞こえる。特にもうじき夏の甲子園を迎える野球部の熱量は凄く、今年こそ目指すと意気込んでいるようだ。過去に一度、甲子園の土を踏んだ経験があるらしく、再びその栄光を手にしたいと力を入れている。
「ありゃ、雨が降ってきた?」
予報では五分五分だったが、できれば帰るまで我慢してほしかった。まだポツポツとだから急いで正門を出て、その近くにあるバス停へ走った。天板が張られているので雨避けになって助かる。
どうやらバスが来るまで五分といったところ。その間にも、段々と雨足が強くなってくる。背後からは、フェンス越しに生徒たちの活気ある声が響いていた。
(こんな天気でも頑張るよなぁ)
日雲が通う学校は部活が盛んで、特に運動部は様々な輝かしい結果を残しているという。しかしながら文化部においても、何らかの賞を頂いているとのことで、部活目当てで入学に踏み切る者も少なくない。
中にはプロを夢見ている生徒もいるはずだ。実際にOBでプロ入りした者もいると聞く。
バスがやって来たのですぐに乗り込み、後ろの方の席へ座る。今日は他の客もいない。まるで貸し切り状態だ。
雨で叩かれる窓をぼ~っと見つめていると、学校がどんどん離れていく。
(高二の夏……かぁ)
とはいっても、この学校で一年以上帰宅部で過ごしてきた日雲には関係のない話。今後も部活に身を置くことは考えていない。自分の時間は自分だけのために。好きなことをして過ごしたいと思っているのだ。
(今年もまた変わり映えのない一年になるだろうな)
何せ日雲自身が、何か変わってほしいと強く願っているわけではないから。単調な人生というのもまた一つの人生である。
ゲームと読書さえできれば、それだけで幸せを得られるのだから、他に手を出す必要性がまったく見当たらない。もっとも変化というものが嫌いなわけではない。ただ、求めてしまうと、それを失う時に、どれほどの痛みが伴うか知っているだけだ。
(はは、要は臆病なだけ。カッコ悪いなぁ、俺)
物語の主人公のような生き方に目を輝かせたこともあるが、今の自分はそんな者たちとはかけ離れた存在であることは自覚していた。
急激な変化は、いとも簡単に人の心を砕いてしまう。
だから平坦な道程を歩くのが一番良い。きっとこれからも日雲は、まさしく陰キャのごとく目立たず静かに暮らしていくことだろう。
…………………………そう思っていた。
青信号になり、バスが緩やかに動き始めると、左側の席に座っていた日雲は、不意に嫌な予感を覚えた。その感覚に従い左側の道路に注視する。そして気づく。凄まじい勢いで向かってくるトラックに。
こちらが進んでいるということは、当然トラック側は赤信号のはずであり、その前で停車しなければならない。だが明らかにそのトラックからは、停まる意識が感じ取れない。それどころか益々速度を上げている。
「お、おいおいおいおいっ!?」
反射的に声を上げ立ち上がった日雲に気づいた運転手が「どうかしましたか?」と暢気に尋ねてきた。だがそれに丁寧に答えている時間はない。
「早くっ、前に進めっ!」
トラックに気づいていない様子の運転手は怪訝な表情を見せるが、その直後にようやくこちらに向かってくるトラックを視界に捉えようで真っ青になった。
運転手は驚いたことで、本能的にブレーキを踏んでしまう。ゆっくりと進んでいたとしても、急ブレーキをかけられたことで、立っていた日雲は体勢を崩され、咄嗟に近くにあった椅子にしがみつくことになった。
その間にもトラックはこちらに猛スピードで突進してきている。あれほどの速度で突っ込まれたら、バスは間違いなく潰れるだろう。その結果、日雲も十中八九死んでしまう。
(もうっ……間に合わねえっ!)
今から急発進したところで、バスがこの場から離脱することは叶わない。それが理解できたのか、運転手は悲鳴を上げながら両手で頭を抱え蹲った。
そして日雲だが、思考だけは目まぐるしく活動していた。よく死ぬ前は走馬灯を見るというが、本当に過去の記憶が蘇っていく。特にその中でも濃い記憶。それは母子家庭だった母との日々の生活である。
死ぬ前に、自分よりも長く生きろと言ってくれた言葉が脳裏に浮かび上がった。
(母さんっ…………ごめん)
景色がスローになる感覚に陥りながら、母への謝罪を想った。
――ようやく波長が合う者を見つけたぜ。
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