魔女の遠景
白縫いさや
魔女の遠景
1. プロローグ:二十一時
階下の遠いところで階段を踏む音が聞こえた。猫は目を閉じたまま髭をぴくりと揺らす。もうすぐ彼女がやってくるのだ。
ドア、窓が開いて、ベランダの軋む音。近付くほどに音ははっきりとしてくる。彼女は古いアルミのはしごで屋根に上り、屋上にしつらえたお手製の観測所にやってくる。
猫は近所の野良猫で、彼女は夏休みに祖父母の家へ帰省してきた女の子。お互いそれ以上のことは知らないし、知る必要もない。互いの名前も、素性も、一日の出来事も、将来の不安も、何も。
彼女は猫に構うことなく、重ねた座布団の上に座った。そして猫の手のように指を丸めて環を作り、穴を通して田畑や雑木林の方を眺めはじめる。
猫はちらりと薄目を開けて、彼女の横顔を見る。それからゆっくりと息を吐いて、彼女の気配を身近に感じながら再び目を瞑った。
ここは虫の音も届かないくらい静かで遠い場所で、彼女はそのさらに彼方、肉眼では見えないものを見ている。
***
2. 紫水晶の砂浜
弓なりに続く遠浅の砂浜がある。
岩や石のない砂浜は白砂糖のようで、ソーダ色の波が控えめに砂を濡らして引いていく。
その白砂に混じって紫水晶の結晶がまばらに点在している。大きさは子供の膝ほどのものである。淡く薄い紫色は真白い輝きに紛れてしまって、昼間のうちはほとんど目立たない。
雲のない昼や鮮やかな星月夜も良いが、砂浜が最も美しくなるのは黎明のひとときである。
夜空がうっすらと色を失っていくのに伴い、沖とは反対側にある林の向こうから朝がやってくる。そのとき、ずっと夜の闇に隠れていた紫水晶が、砂浜の白に残る薄影となって存在が明らかになる。結晶特有の幾何学的な輪郭は波に削られることなく保たれていて、むしろ潮水で磨かれた分、艶やかである。その紫水晶が、朝の気配の中でゆっくりと輪郭を浮かび上がらせる。梢の合間から差し込む朝の明かりが紫水晶の淡い影を砂浜に映している。
朝焼けは東の空にかかる薄雲を桃色に染め上げていた。
消えゆく星の名残や、控えめでほとんど聞こえない潮騒や、時々思い出したように吹く潮風は、一日の中で今この瞬間にしか存在しないものである。
3. りんご林を見下ろす丘の道
さあっと強い風がりんご林を撫でて吹き抜けると、少し離れたところにある丘の上までりんごの甘い香りが届くのであった。風の行く末を目で追ってみれば、そこにあるのは午後二時の穏やかな青空。空の高い所に薄く貼られた白雲は、空の青を淡く霞ませている。
丘の上を幼い兄妹が歩いている。二人は手をつないでおり、妹が一生懸命に話しているのを兄が頷きながら聞いている。妹はりんごのように頬を上気させ、兄は優しい眼差しを妹に向けている。
再び、さあっと強い風が吹いた。兄は妹を抱いて庇い、風が収まるのを待つ。妹の長い髪が真横になびいて、毛先が暴れていた。
やがて風が収まる。妹はきょろきょろと辺りを見渡しながら兄に何かを言った。それを聞いて、兄はりんご林を指差した。
疲れた兄妹は丘の斜面に腰かけ、後ろに手をつき眼下の光景を眺め始めた。そのうち妹が兄の脇に抱きつき横になる。兄は眠たくなった妹を抱き、自身も横になった。
次に兄妹が目を覚ましたときには辺りはもう夕方であった。りんご林に沈みゆこうとする夕陽が、枝葉を真白く焼きつつ、淡い日差しで空全体を茜色に染めていた。空の高い所に並んだひつじ雲は桃色にも赤色にも染まっていた。妹はその雲を指差し兄に何かを言っていた。
4. 雁
長い一日の終わりは赤黒い夕焼け空である。地平線に沈みゆく夕日とはほとんど水平に射すものであるから、あらゆる物を影に変えてしまう。山も稲穂も電柱も電線もすべてが真っ黒で、鈴虫の鳴く音さえも影である。唯一明るいのは西の端の空だけだった。
その黄昏を、雁の四羽か五羽かが横断する。じっと目を凝らせば翼がそれぞれ上下に羽ばたいているのが見える。黒いしみのように見える雁であるが、さらにじっと目を凝らせば、その影の輪郭は薄灰色の羽毛に夕日の橙が乗った色であることがわかる。しかしそれも、光の当たり方ひとつで他の影と同じ黒に落ちてしまうものであるのだが。
5. 氷銀河
真夜中の氷海は満月の光を受けて白銀色に輝いた。暗黒の海に白銀色の氷たちが浮かぶ様子はさながら銀河のよう。ここには生命の痕跡はなく、あるのは星と月と氷と海のみである。
氷銀河の中心には氷山がある。彼方から流れてきた氷たちはこの氷山に集うのだ。流れ着いた氷は追い付いた氷に押し潰され、氷山の中心には尋常ではない圧力がかかる。氷山の最奥で押し固められた氷塊とは真空に等しいほどに透明であり、時間さえも凍てついていた。増し続ける圧力が氷塊の純度をさらに高めている。月や星の光はこの透明なブラックホールに吸われてしまうため、その下に沈む海や海底とは出口のない暗黒そのものである。
どこかで氷が割れて破片が海に落ちる。しかしその音も飛沫も、この氷銀河では誰の耳にも目にも届かない。
6. きのこの森
森の奥へ進むほどに木々は太く大きくなり、枝葉は高く遠くなる。そこら中にある水たまりとは、草木の湿った吐息が水となって滲んだものである。濃厚な森の香りの中を進むうちに、辺りには大樹に混じって巨大なきのこが現れるのであった。
小人の目線できのこの群生を見上げると、赤や青や黄色などの胞子が発光しながら宙の高い所を漂っているのがわかる。一部の粒の大きい胞子は緩やかに地面の近くまで降ってきて、足元の水たまりに油膜のような虹色を照らしている。
奥へと歩みを進め、きのこの傘の下を通る。立ち止まって傘の裏を見上げてみれば、生まれたての胞子が傘の裏筋に沿って並んでいるのが見える。大きくゆっくり静かに息づく森の震えできのこの傘も揺られて、胞子がぱらぱらと放出されるのである。
進むほどにますます森は広く高くなり、きのこの傘が梢を隠すようになり、地面は菌糸の絨毯に敷き直され、一粒一粒の胞子が人の拳の大きさほどにまで膨れていく。森の植物たちの成長が著しいのか、あるいは自分がどんどん縮小しているのか。
床に降り積もった七色の胞子を蹴り分けて進めば、やがて朽ちた丸太を越えた先に煌めくきのこの城を見る。
7. 湖沼の廃墟
広大な森林の奥深く、人の記憶から失われた場所にひとつの廃墟がある。そこは極小の沼がいくつも連なる場所で、沼の分布する様とは、火傷で爛れたような、あるいは膿んで腐ったような、病的な皮膚のように見える。しかしそれらは枝葉によって覆い隠されているため、一見すると静かな森である。
廃墟は湖に半身を浸した状態で朽ちている。最奥の水底には祭壇があり、祭壇へ続く道は石畳で舗装されている。祭壇を飾っていた石柱は根元の辺りで例外なく折れて、丸太のように乱雑に湖底に転がっている。石畳や石柱には水草や藻が絡み、その周囲を小魚が泳ぎ、木々の枝葉で切り取られた空から降る僅かな光が水を透かして水草や小魚を明るく照らしている。しかしその様子も僅かな風のそよぎや水の揺れによって、簡単に暗がりに沈むものである。
そのような光景の中にあって、石畳よりも一段高くしつらえられた祭壇だけは水草にも藻にも浸食されず、過去の名残をそのまま残している。平皿のような白石の盃が水面に向かって開かれている。古の時代の儀式において、盃は満月の光を受け止める役割を担っていた。盃に満ちて、蜂蜜を溶かした乳のように甘く白い塊となった月光に向かい、巫女と司祭たちが豊穣の祈祷を捧げていたものだ。
しかしそれも今や過去のこと。空の盃が満たされることは二度となく、ただ水底でゆらゆらと揺れている。
8. 孤島の牢獄
孤島の牢獄に囚人や看守がいたのは遠い昔のこと。処刑具や人骨などはどこにも残っていなかった。孤島の牢獄は壁も天井も鉄格子もすっかり朽ちて崩れている。石煉瓦の分厚さや、鉄格子の数の多さや、壁から垂れた鎖のおかげで、そこが牢獄だったのだとかろうじて察することができる。
崩れた天井から覗く空は長閑な水色。不規則に聞こえては消える潮騒と風の音。
かつて窓だったところには錆びた鉄の棒が等間隔で生えているのだが、長さが不揃いである。よく観察するうちに、それは自然に朽ちた結果というよりは、最初から不揃いになるように切り揃えられているのだと気付いた。
観察に飽いて、落ちていた木の枝がふと目に入る。手に取り重さを確かめて、なんとなく鉄の棒を叩いてみた。甲高い金属音が孤島の空に響いて消えた。隣のより短い棒を叩けば、さらに甲高い金属音である。
これは、楽器である。そう気付くのに時間はかからなかった。
高い空に音楽を奏でて遊んでいても、咎める者はいない。
9. 天使の街
円形の街の中心には天の果てまで続く一本の塔が建っている。それは継ぎ目のない薄灰色の石柱で、表面には細やかな彫刻が施されている。その彫刻とは、まず円周の八分の一を短辺とした長方形を土台として、幾何学の文様が下地に刻まれたものである。その長方形の外周を神への祈りの言葉が縁取っており、中央には神話の象徴的な場面が彫られている。このようなレリーフが円柱の八方向に並んで一つの層を形成し、地上から天の果てまで隙間なく続いているのである。これは完璧な神の塔であるから、建造から数千年あるいは数万年が経った現在でも塔には欠損も汚れもない。
その塔のふもとには小円形の広場がある。均等な角度で割った八方向に太い石畳の道が走っており、街を囲む八つの城門にそれぞれ続いている。道は街の外にも同じ太さでまっすぐ地平線まで続いている。
八本の大通りの間にはそれぞれ等間隔で小道が巡らされており、さながら蜘蛛の巣のよう。道で区切られた区画には赤煉瓦で作られた家が建っており、大きさと内装は統一されている。各家には神の意思に忠実な天使たちが暮らしている。天使たちには個別の役割が与えられており、重複も無駄もない。城壁の外にも同じ家がまばらに建っており、こちらはたとえば牛飼いや農夫が住む家である。
ここでは一日は二十四時間で数えられ、昼と夜は正確に十二時間ごとに入れ替わる。太陽と月は常に天球の対極にあり、日没と同時に月がのぼり、夜明けと共に月は沈む。春夏秋冬の四季は九十一日を周期とし、どの季節にも属さない特別な一日を加えた計三百六十五日を一年と数える。雨は七日に一度降る。
夜が明ける。空がしらむ前から牛飼いや農夫の天使たちは活動を始め、朝靄の中、決まった順路を通って仕事をする。
日がのぼった後は城壁の中も賑わいを見せ始める。新聞配達の少年天使が通りを走り抜け、女天使が井戸から新鮮な水を汲んでいる。
小広場にある鐘楼の鐘が重々しく鳴り響き、午前六時を報せる。
この街に暮らす天使たちは皆例外なく神に創造され、神の意思を体現している。しかし彼らに自我と神の意思の区別はなく、日々の暮らしの中での意思決定は自らの意思に基づいていると思い込んでいる。だが、それは神が仕込んだ機構の一部でしかない。彼らの認識のなかではそもそも神という概念自体が存在しない。
たとえば、新聞配達の少年天使が曲がり角を曲がったところで、桶を運ぶ女天使と出合い頭にぶつかりかける場面。少年天使は大きく身を捻って女天使を躱し、女天使は身を強張らせて動けずにいた。筒状に丸められた新聞が三本、少年天使の鞄から飛び出しばらばらと地面に落ちる。女天使の桶に張られた水も大きく揺れて、五分の一ほどが地面にこぼれてしまう。少年天使は手早く新聞を拾いながら女天使に謝りつつ駆け出し、女天使が少年天使の背中に文句を投げかける。
これとまったく同じ光景がちょうど一年前にも繰り広げられていた。一年前とまったく同じ軌道で新聞は鞄から飛び出し、まったく同じ軌道で水は桶からこぼれていた。ゼンマイ仕掛けの人形が同じ動作を繰り返すように、彼らも同じ日々を繰り返しているのだ。一年後にもまったく同じ光景か繰り広げられるだろうが、彼らはそのことに気付かない。
しかしじっと目を凝らしてみれば気付くことが一つある。これらは繰り返されてきた動作であるがために、天使たちは時々既視感を感じているようなのだ。そのような瞬間、天使たちは一瞬だけ手を止め、足を止め、自らの内に生じた混沌の正体を探ろうとする。しかしすぐに秩序が意識を上書きするらしく、その瞬間だけ、彼らは目が虚ろになるようだった。
その様子とは、……神に気付かれる前に、魔女は観察をやめた。
***
10. 朝霧の湖畔
雲がそのまま降ってきたような白霧の中を、一台の自転車がゆったりと駆けていく。いつでも立ち止まれるようにゆっくりと、しかしなるべく早く医者のもとへ辿り着けるように急きながら。病に侵された妹が兄の背中に弱々しく抱き着きうなだれている。いつか見たりんご林の兄妹である。
いつもであれば、日がのぼればすぐに霧が晴れるというのに、今朝に限ってはいつまで経っても道の先は霧に隠れたままである。兄は前かがみになって足に力を込めようとしたが、腹に巻き付いた妹の手の熱さを思い、ぐっと堪える。
自転車が通り過ぎて、遠退いていく。じきに霧に紛れて自転車は見えなくなった。目を凝らしてみても彼らの行く末を追うことはできない。
11. 雨と梅林
日を透かした雨雲からしとしとと雨が降っている。雨粒たちは僅かな空気のゆらぎで左右に揺られるほどに小さく儚い。そのような雨が幾重にも薄絹を重ねるように、梅林を覆っていた。
山と山の合間に白色、桃色、薄紅色が隙間なく敷き詰められている。曇天の薄暗さの下で花弁は濡れそぼち、天の微かな光を集めて艶めく様は淡い光を帯びたよう。梅林の一帯だけがさながら異界の一端と呼ぶべき気配を薫らせていた。
遠い彼方でまばたくような発光があり、遅れて雷鳴が届く。しかし梅花の屋根が光も音も遮るため、その下では雷とは現実の出来事ではない。雨の雫は梅の花を通り抜け、滴るまでの間に一粒一粒が甘い香りに染まり、地面で弾けることで香りを立ちのぼらせる。冬の名残を留める空気も、ここでは間近な春を先取りするように柔らかい。
梅林の中心で眺める四方はいずれも白色、桃色、薄紅色の空である。滴り弾ける雨粒は梅香の霞となって地表に堆積し続け、膝から下を隠している。
天地の狭間で幸福を錯覚する。
12. 虹と龍
やがて雨は止み、雲は去った。空を横断していた七色の弧は身震いすると身を捻り、垂直に空へ昇っていった。残ったのは底抜けの青。
13. 星屑の洞窟
こつん、と踵を鳴らすと足元から星屑のような光の粒が無数に広がり、洞窟が奥深くまで続いていることを示した。床や壁面、天井のすべてに白銀色の斑点が浮かび、洞窟の構造を明らかにする。洞窟の奥では遅れて光が発せられているので、中心に暗黒を据えて光の環が集積しているように見える。
光の正体はこの地で採れる星電石という鉱石である。これは外部から衝撃を受けると一定時間発光し、さらに近くの星電石に衝撃が伝播し、発光が連鎖するのである。
旅人はランプの灯を消し、星屑の光を頼りに洞窟の奥へ進む。宇宙の彼方、星の海を歩くようである。
その道にいざなわれた先には天井が崩落した広間があった。乱雑に積み重ねた星屑の上には本物の星空があり、月がある。こうして見てみると、星電石の放つ光とは無機的に感じられるものである。星の光とは空気の層を通過する分いくらかぼやけるものだが、星電石の光ははっきりとして輝きに淀みがないのだ。
旅人はその場に腰かけ、手ごろな鉱石の一つを手に取り感触や重さを確かめ、手の甲で叩いて星電石が発光する瞬間を観察する。
14. 渓谷の小径
渓谷には一本の細い清流があり、優しいせせらぎの音とともに下流へ続いていた。渓谷を作るふたつの山はいずれも天頂の近くまで梢を高く伸ばしている。季節は秋。まだ色づかない葉もあるが、多くは既に赤や黄色に染まっている。清流にも上流から何枚かの紅葉が浮かんで流れていく。ふたつの山に遮られない太陽が陽光を渓谷に直射させ、清流、水面を泳ぐ葉、薄灰色の小石の道をより色鮮やかに照らし出していた。
やがて日が傾く。渓谷は影に包まれ、月がのぼって渓谷全体が銀色に沈む。夜行性の生物たちが活動し、時折鋭い影が銀色を横断する。そのような気配も東の果てから朝の気配が訪れるに伴い静まっていく。夜明けとともに渓谷の銀色は融解し、空には桃色の薄雲が浮かぶ。そのときようやくせせらぎの音が蘇る。ここには一貫して清流があったことを思い出させてくれる。昼夜を通してここは同じ場所なのだと。
しかし今朝は昨日と比べて秋の深まりが進展しており、ふたつの山の色合いはいくらか賑やかになっている。しかしそれも今日か明日までのことで、数日もしないうちに山はだんだんと禿げて寂しくなるだろう。
清流が全ての紅葉を流し終えたら、乾いた冬がやってくる。じきに初雪も降るだろう。
15. 黄金平野
四方の地平線まで平坦な草原がある。草原は旅人の足首ほどの長さの草葉に覆われている。まばらに白や黄色、赤などの小花が咲いているが、それ以外は新緑で覆われている。ここには視界を遮るものは何もない。樹木はおろか、彼方に山の稜線もない。一本の水平に引かれた地平線が空と草原を区別しているのみである。
さあっと強い風が吹くと、光の波が走る。光の波は彼方からやってきて、旅人を通り過ぎるときに髪や衣服を揺らし、旅人は冬の名残に身を竦ませる。風から目を背けてみれば、光の波が彼方へ遠ざかっていくのが見える。
夕暮れの草原は一切が黄金色に染まる。夕日が地平線に沈む瞬間だけは、天球の両端に昼と夜が対峙するのだ。草原は燦然と輝き、旅人の影が地平線の果てまで引き伸ばされる。旅人がその眩さに耐えてうっすらと目を開くことができたときには、夜になっている。
中空までのぼった月が草原を銀色に染め上げる。日中には白や黄色、赤だった花々は、夜の間は夜露に濡れて、それぞれが乳白色、琥珀色、深紅色に艶やかに照っている。
風が吹くと、白銀の波が走り、通り抜けていく。
16. 経絡電波とラジオ
春先の高原は今なお溶けない雪に覆われていた。一面は空と同化した真白の景色である。空が低く広く頭上に敷かれ、空の端には上方向へのなだらかな傾斜がある。雪は一昼夜を経て表面が薄氷のように固まっており、踏めば、さく、さく、と小気味の良い音が背後に残る。これは旅人の長い旅の軌跡である。
じじ、じじ、と細切れにノイズが聞こえる。旅人が肩に下げているラジオだ。長らく異国の音楽や世相を伝えていたが、ここまでは電波が届かないようだ。しかしノイズであっても無音であるよりはましらしく、旅人は電源を切らずにそのままにしている。
やがて日が傾き、空には本来の宇宙の色が戻ってくる。冷たく澄んだ空気を通して見る星空こそが真実の姿なのだろう。空の果てまで広がる光の粒とはそれぞれが燃えて発光する火球であるが、何万光年、何億光年という隔たりを経たあとでは氷の結晶のように凍てついた光となっている。色や強弱や分布に統一性はない。混然一体となって隙間なく夜空を埋めている。
太古の人々は星の瞬きを線で繋いで星座を描き、物語を見たという。旅人も古い知識を掘り起こして、いくつかの強い光を繋いで造形を幻視しようと試みたが、やがて諦めて目線を前に戻す。
その瞬間のこと。どくん、と何かが脈打つ気配を旅人は感じた。自分以外の大きな存在の気配である。しかし辺りには何もない。気のせいかと思い直した折に、再び、どくん、と何かが脈を打つ。振り返るがやはり何もない。
旅人は目を閉じ、じっと耳を澄ませ、気配の居場所を探る。それまで意識していなかった風の流れを感じ、足元の雪の厚さを思う。じじ、じじ、と細切れのノイズが。そのノイズのリズムとは独立して、拍動がある。地面から、空の果てから、己自身の中から。
旅人が次に目を開いた時、空の星々の間に蜘蛛の糸のような光の筋の痕跡が消えゆく様を見た。じっと目を凝らしてみれば、再び拍動があり、南東の果てから翡翠色の光の網が走って空を覆い、北西へと駆け抜けていく。星と星を繋ぐ光の細糸は最初からそこにあったかのように、脈打つ気配に合わせてゆったりと明滅する。そのような光の網が星空に描く文様とは人の知らない神話である。
じじ、じじ、というノイズに混じって、異界の音楽が流れてきた。旅人は呆然と立ち尽くす。
17. 天上の楽園
高原を越えて天に迫る坂道は可憐な花弁の高山植物によって彩られていた。平和で穏やかな空間では時の流れさえも緩やかであり、やがて夕日が眼下の地平線の端に留まり、永遠の黄昏に停滞する。赤黒い影を背負って厚く高く聳えた雲は、門番として天上の楽園に侵入者がいないか監視している。
何人たりとも立ち入りが許されない場所を旅人が行く。靴が草花ごと土を踏み潰し、その後にはひしゃげた花の痕が残っているが、旅人は気に留めない。旅人は長い坂の先を睨んでいる。
その視線を追ってみれば、黄昏を背に佇む幼い人影が一つ。幼い人影はうずくまって花を摘んでいる。摘んだ花をつなげて花冠を作っている。苦労の末に、編み上げた花冠を掲げる。夕日と重なり輪郭が本来の色を取り戻し、白の花弁や若草色の茎が黄金色に染まりながら照っている。幼い人影は振り返り、頑張って作った花冠を誰かに見せようとしたが、それが誰だったのかを忘れてしまったらしく、掲げた花冠はしょんぼりと手元に戻っていった。
さあっと丘の下から強い風が吹く。幼い人影は顔を上げて辺りを見渡し、失った記憶の影を追う。そのとき、幼い人影は丘の下からやってくる旅人を見つける。立ち上がる。小さな背丈に不釣り合いな大きな翼が、広がり、数枚の羽根が散って影は空の彼方へ吹き流れていった。夕陽と接するその輪郭は眩い銀色に輝いた。
旅人が前に進み出ながら妹の名を叫ぶ。
一度、二度。
三度目で、幼い天使は自分が何者だったかを思い出す。
その瞬間のこと。永遠だった黄昏は一瞬にして闇に沈み、旅人と幼い天使の姿を隠してしまう。星の一つもない暗黒の空に、すうっと黄金色の切れ目が現れ、傷が開いて一つの眼となる。その眼は素早く左右に振れて、今しがた罪人となったふたりを見つける。この男は神の領域を侵しただけではなく、神の所有物を盗もうとしている。また、この神の所有物は神を裏切ろうとしている。いずれも一切の弁明の余地のない、神への背徳である。
一方、暗闇のなか、兄妹は互いの名を呼び手を伸ばし合う。その距離は少しずつ狭まり、ついに指先同士が触れ合おうとしていた。神の眼はその瞬間こそ裁きを下すに相応しいと決め、じっと待っている。金色の瞳孔が窄まり、蒼玉色の虹彩の領域が広がる。その色合いには不規則な濃淡があり病的でさえある。魔女はその瞳の奥に、悪意に等しい正義の意思を見た。そこには己の正義への陶酔があり、愉悦の喜色が浮かんでいる。兄妹が泣き叫びながら己の大罪を懺悔する未来を視ている。
不意に、神の眼が魔女の視線に気付く。
神の眼は魔女を睨み返し、魔女の解釈を咎める。巨大な瞳孔に魔女の全身を収め、この不快な存在を、可能な限り悪辣で侮蔑的な言葉で描写し辱めようとしているようだ。しかし怯んではいけない、目を逸らしてはいけない。魔女こそが観察する者なのである。魔女がそれを観察し、認識している限り、それは描写され、定義されるのだ。
そのような対峙の傍らで、ついに兄妹は再会を果たしたようである。共に手を取り合い坂を下れていることは、抜け落ち続ける銀色の羽根の軌跡が示唆している。
それを視界の端に見ながら、しかし焦点は正面に据えたまま、魔女は神の眼をその一点に縫い留め続けた。
長い睨み合いの末、ついに神は苛立たし気に眼を閉じる。金色の切れ目が消えると同時に辺りには藍色の星空が戻ってきた。兄妹の姿はない。
***
18. エピローグ:四時
女の子は指の環を解き、後ろに手をついて空を見上げた。遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきて、夜空が薄らいでいっている。もう間もなく薄灰色の雲に赤や橙の色味が差してくるはずだ。ずっと背中で様子をうかがっていた猫は、気付かれないよう、横目で女の子の横顔を見る。
女の子は上気した頬をしていて、鼻でゆっくりと大きく深呼吸をしていた。何か大きな冒険をしてきたのだろう、と猫は考えた。
猫は女の子に気付かれる前に目を逸らした。女の子の小さなあくびの音がする。まだ興奮が醒めきらないようで、呼吸の音は早い。しかしそれも僅かな間のことで、女の子はやがて観測所を下りていった。
アルミのはしごの揺れる音、ベランダの軋む音、窓が閉まり、ドアも閉まる。階段を踏む音が遠ざかっていく。
魔女の遠景 白縫いさや @s-isaya
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