第17話 自己嫌悪

 いつになく頼りなげな彼女は、どこか彼の心をざわつかせるものがあった。

 ともすればシュリンの手がヘリットの腕から滑り落ちる。このままではこころもとない。ヘリットはシュリンの片手を自分の首に回し、腰を抱くようにして一歩ずつ階段を上がっていった。力の入らない彼女の身体を安定させるのは思ったより大変で、怪我させることなくやっと階段を上りきった彼はこれで一安心とばかり息を吐いた。


「ねえ、ヘリット」


 シュリンが顔を向けると、ヘリットの首筋に熱い吐息がかかる。ぴったりとくっついている彼女の身体が熱い。

 びくり。ヘリットは鳩尾からこみ上げるような、奇妙な快感を感じた。このままシュリンの身体が密着した状態でいると、ヘリットは自分がどうかなってしまいそうな気がして身体を震わす。

 何かに絡め取られて逃げられない状況は、彼にとって最も避けたい事態だった。彼は必死で自分の理性をつなぎ止める。


「じ、じゃあ、これで」


 慌ててドアの前まで送ると、ヘリットは首にまわしていた彼女の腕を外して離れようとした。

 しかし、支えを失った彼女は膝から崩れ落ちそうになる。


「仕方ない。僕も部屋に入るよ、いいね」


 ヘリットは彼女を抱きかかえるようにして、ドアを開ける。こんなに激しく打っている胸の音が彼女に聞こえないか、ハラハラしながら。

 部屋の戸をあけてすぐ、正面に廊下に吊されたランタンの光で照らされた白いベッドが目に飛び込んだ。


「とりあえず、ここに寝て」


 ほぼ身体に力が入ってないシュリンが崩れるようにベッドに横たわり、勢いにつられてヘリットの上半身もベッドに倒れ込む。薄ボンヤリとした暗がりの中、彼女の頬が彼の鼻に触れた。

 ヘリットは光りに浮かび上がった顎から首にかけてのなまめかしさに息をのむ。

 湯に浸かった後の石けんの香りが鼻腔をくすぐる。

 ごくり、思わず彼は生唾を飲み込んだ。

 シュリンに対して、こんな気持ちは初めてだった。

 今まで結婚を強要してヘリットを束縛してくる押しつけがましい奴としか見ていなかったが、これほど妖艶だとは――。


 獏家を捨てるつもりだった彼は、この王国に自分が責任を持たねばならぬ者を作りたくはなかった。だから彼女とは距離を置き、きちんと向き合ったことがない。   

 第一、こんなに美人で能力の高い彼女に自分がつりあう自信もなかった。

 しかし、距離を置けば置くほど彼女はヘリットを追いかけてきて外堀も内堀も埋めてしまった。有無を言わせない、いや言っても聞く耳を持たない彼女のやり方は、息苦しいぐらいに強引だった。

 気持ちがきつい、プライドが高くて居丈高。苦手な所も沢山あるが、でも彼女は弱い者に対して惜しみなく慈愛を注ぐ優しい人でもあった。

 無防備にベッドに横たわったシュリンからかすかな寝息が聞こえてきた。ヘリットは最後の理性を振り絞ってベッドからそっと離れようとする。


「じゃあ、僕は行くから」


 実は隣の部屋のヘリットのベッドの上にはすでに荷物がまとめてあった。彼は今宵隙を見て聖獣家の面々から逃げ出すつもりだったのである。幸い予定外の酒のせいでその計画は考えていたよりもたやすく成功しそうであった。皆が酔っ払っている今、絶好のチャンス到来だ。


「だめ……、置いていかないで」


 シュリンの声、そしてかすかなうめき。

 それはヘリットの理性を粉々にした。

 暗闇の中、彼はベッドに覆い被さるようにして彼女の顔に唇を寄せる――。

 だが。

 ヘリットの荒い鼻息が彼女の顔にかかった途端、いきなりシュリンの目がぱっちりと開いた。

 眼前には血走ったヘリットの顔。


「何するの? このけだものっ」


 声と共に、握りしめた拳がヘリットの頬に飛ぶ。


「ぶほっ」


 ヘリットは壁まで吹っ飛んで、ずりずりと床にへたりこむ。シュリンは剣技も得意だが、拳法も得意であった。そのまま彼女は再びべッドに倒れ込む。

 激しい衝撃で我に返ったヘリットは、無我夢中で首を横に振る。しかし、真っ白な頭からは言い訳のひとつすら出てこなかった。


 彼はガタガタと身体を震わして、何か叫びながらそのままドアから飛び出す。

 謝罪をしたのかさえも覚えていないほど、彼は逆上していた。横並びにある自室に飛び込むと、自分の荷物をひっつかんで開け放した窓から飛び降りる。窓の下が土以外何も無いことは、すでに夕食前に確認していた。身軽なだけが取り得な彼は、  無事に地面に着地するとそのまま必死で走り出す。

 逃げると決めていたのに、なんであんなことをしてしまったのか。


「僕はダメな奴だ。ダメな奴だ。ダメな奴だ。シュリンにあんなことをして、もう合わせる顔がない。逃げるしかできない、能力も無い役立たずのくせに――最低な事をしてしまった」


 うめきながら彼は城を飛び出して暗闇の森をひた走る。

 国が危急存亡の危機を迎えているというのに何もできない無力感が彼を支配している。 

 すべてのことに立ち向かう気力がない自分が心底嫌なくせに、彼の出した答えはいつも逃げる、しかない。

 何もかも捨て去りたい、自分がもう嫌だ。このまま、崖から足でも滑らせてしまえればどんなに楽だろうか。自己嫌悪の刃が彼の全身に突き刺さっている。

 みんなは言うだろう、奴はどうしようもなく意気地無しで、その上卑怯な男だと。

 言われるまでもない、それは本人が一番良く知っていた。


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