第1章第5話 朝
朝の空気は、夜とはまるで違っていた。
つばきは布団の中でゆっくりと目を開けた。
雨はすっかり止み、
どこかで鳥が、ちち、と短く鳴いている。
家の奥のほうで、鍋をかき混ぜる音がした。
かちゃん……かちゃん……
夜の恐怖とは違って、
軽く、やわらかい音。
つばきの耳が、布団の中でぴん、と動いた。
尻尾はまだ少し緊張しているけれど、
昨日ほど硬くはない。
(……こわくない……音……)
気がつけば、布団から顔を半分だけ出していた。
部屋には、朝の匂いが淡く漂っていた。
湯気のあたたかさ。
木の床が陽に温まる匂い。
どこか土の匂いも混じる。
(……あったかい……匂い……)
しばらくすると、
部屋の入り口に昨日の女の人が現れた。
「……おはよう。眠れた?」
つばきは一瞬びくっと身を縮め、
耳をぺたんと伏せた。
でも、昨夜よりはゆっくり顔を上げる。
蓮華は、近づきすぎずに座った。
「そういえば……まだ名乗っていなかったわね」
つばきの耳がぴくりと動く。
「私は、この家で弟と二人暮らしをしてるの。
こう見えて、お姉さんなのよ。」
やわらかく笑いながら、
つづけて言った。
「名前は……“蓮華”。昨日あなたにりんごをあげたのは私の弟よ。」
その瞬間、外から声が飛ぶ。
「ぼくのこと?! ねえ、一緒に遊ばない?!」
勢いよく扉が開きかけて、
蓮華が慌てて押さえた。
「ちょっと、まだ早いって言ったでしょう」
「だって、昨日より元気そうだったから!」
蓮がひょこっと顔をのぞかせる。
幼い男の子――優しい匂いと泥の匂いが混じった、外の子どもの匂い。
蓮は胸を張った。
「ぼく、“蓮”! えっと……昨日の……その……
一緒に来てくれて、ありがとう!」
つばきは驚いて目を丸くした。
耳がぴこぴこと動く。
蓮は慌てて両手をぶんぶん振る。
「ち、違う! 無理に遊ばなくていいから!
その……また今度でいいから……!」
蓮華が蓮の肩を軽く押して下がらせる。
「ごめんね、驚かせちゃって。
……うちの子、悪気はないの」
つばきの胸が少しだけ緩んだ。
蓮が去ると、
蓮華がゆっくりとつばきの方へ視線を向ける。
けれど、直接目を合わせないように。
「あなたのお名前……聞いてもいい?」
つばきは布団をぎゅっと握る。
声が出るか分からない。
信じてもいいのかな?
でも、この家からはあったかい匂いがする。
小さく、小さく、囁くように。
「……つばき……」
蓮華の表情がふっと柔らかくなる。
「つばきちゃん。
いい名前ね」
名前を呼ばれ、
つばきは布団に顔を隠した。
でも――その耳は、少しだけ前へ倒れていた。
蓮華は静かに言う。
「今日も、少しずつで大丈夫だからね」
つばきは、ほんのわずかにうなずいた。
外では蓮が走り回る音がしている。
部屋には木の匂いと朝の空気。
人間の家だけれど、
怖い場所ではなかった。
(……わからない……でも……)
“怖い”から、
“分からないけれど、信じてみたい”へ。
胸元の鈴が、小さく鳴った。
り……ん。
新しい朝が、
つばきの世界を少しだけ広げていくような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます