第1章第4話 真っ暗な夜

しばらくして雨は止んでいた。


けれど、外の静けさが余計にこわかった。


一度は眠りについたもののすぐに目が覚めてしまった

つばきは布団の中で小さく丸くなり、

耳だけがぴん、と立っていた。


木の壁が冷えて、家全体がぎし……と鳴る。

そのたびに、つばきの肩がびくっと震えた。


(……こわい……)


暗闇は、自分の中の恐怖を思い起こさせる。

背後から追ってきた足音。

割れる枝の音。

息の荒い気配。


全部、暗いところから迫ってきた。


布団をぎゅっと握りしめ、

尻尾は細い紐のように体に巻きついている。


喉が乾いて、息が浅くなる。


そのとき――


きい……と、廊下の板が鳴った。


つばきの耳がぴくんと跳ねる。

息が止まる。


(……こっち……くる……?)


目を固く閉じても、

暗闇の奥から何かが近づいてくるような気がした。


足音はゆっくりと。

静かで、軽い。


あの夜の、荒々しい追手の足音とは違う――

違うはずなのに、体が覚えている恐怖は

簡単に判断してくれなかった。


布団を引き寄せようとして、

指が震えて力が入らない。


足音が部屋の前で止まった。


「……眠れないの?」


蓮華の声だった。

静かで、落ち着いていて、雨のようにやわらかい声。


つばきはぴくりと耳を動かし、

布団の中で小さく顔を上げる。


蓮華は明かりを持たずに部屋へ入ってきた。

光があると眩しくて怖がらせてしまうと思ったのかもしれない。


月明かりだけが、彼女の輪郭を淡く照らす。


蓮華は布団に近づかず、

少し離れた場所にそっと座った。


「真っ暗だと、怖いよね」


優しい声だった。

けれど手を伸ばしてくることはない。


つばきは返事ができない。

喉が音を拒んでいる。


蓮華は、つばきが安心するまで動かないつもりのようだった。


「無理に寝なくても大丈夫。

何か怖い目に遭ったのね。

ここは安全だから。

……誰もあなたを傷つけたりしないよ」


つばきの胸の奥で、硬く凍っていたものが

ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。


布団の端を握る手が、わずかに緩む。


蓮華は、つばきを見ない。

暗闇で視線を向けるのは、脅威になると分かっているようだった。


そばにいる。

でも、距離を詰めない。


ただ、ひとりにならないように。

ただ、怖さが薄らぐように。


つばきは布団から鼻先だけ出し、

蓮華の影をちらりと見た。


その一瞬で、

張りつめていた耳がすこしだけ前へ倒れる。


尻尾の力がゆっくりほどけ、

布団に落ちていく。


まどろむような呼吸が戻り、

つばきはそっと額を布団に押しつけた。

まるで“ありがとう”と呟いたように。


しばらくして、

つばきの呼吸は深くなっていく。


やがて、雨のように静かな眠りが訪れた。


蓮華はつばきの寝息をしばらく聞き、

そっと立ち上がって部屋を出た。


扉が静かに閉じられたとき――

胸元の鈴がかすかに鳴った。


り……ん。


それはつばきが、

初めてこの家で眠れた夜の証だった。

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