第1章第6話 名前
それから1週間が経ち、つばきは徐々にこの家での生活に慣れてきていた。
かちゃんとお玉を鍋にかける音がした。
蓮華はお皿を持つと布団の端にしゃがみ、
つばきから少し遠い位置にお皿を置き、微笑んだ。
「朝ごはん、少しここに置いておくね。
……つばきちゃん、食べられたら食べてみて。」
つばきの胸の中で、
ほわっと何かが広がった。
名前を呼ばれるのは怖くなかった。
むしろ――
懐かしいような、
深いところがそっと撫でられるような感覚。
(……つばき……)
自分の名前なのに、
誰かに呼ばれるたび胸があたたかくなる。
蓮華は柔らかく微笑みながら、
ただ、自然にその名を口にした。
つばきの耳が、
すうっと前へ倒れた。
蓮華と蓮は畑を見に行くという。
蓮はこちらにぶんぶんと手を振り、
蓮華は「すぐ戻るからね」と言い残し、
ふたりの足音がどんどん遠くなる。
しん……と静けさが戻ると、
つばきは布団から鼻先だけ出したまま、
ふわりと眠気に引きずられた。
(……あれ、ねむ……)
薄く意識が沈んでいく。
──その瞬間。
焔の匂いが鼻を刺した。
つばきの夢は、あの夜へ引き戻される。
焔が揺れ、赤く弾ける。
木々が倒れ、叫び声が夜を裂く。
つばきの小さな手を引く誰かがいる。
けれど。
どれだけ近くにいても、
どれだけ必死に走っても、
その“手を引く男”の顔だけがどうしても見えない。
光に焼けて白くにじむだけ。
(……だれ……だっけ?)
追手の音。
木の枝が砕ける音。
胸が苦しい。
そのとき。
夢の景色がゆらりと変わった。
焔の赤が消え、
静かな月夜の薄青になる。
草原のような場所を、
つばきは誰かと並んで歩いていた。
手はつないでいない。
並んで歩くだけ。
でも、隣から感じるぬくもりがあたたかくて、
胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
月明かりの輪郭だけで、
その人がとても綺麗だとわかった。
顔は見えない。
でも、声が聞こえた。
「……つばき」
優しく、
包みこむように、その人は呼んだ。
その声の温度は――
蓮華の声と、
重なった。
重なった瞬間、
胸の奥で何かがそっと震えた。
(……この声……しってる……?)
夢の中のつばきの耳が、
心地よさに溶けるように倒れる。
誰かが名前を呼ぶたび、
心の奥深くが、
やわらかく撫でられるように落ち着いていく。
(……つばき……?)
自分の名前が、
やけに愛おしく感じられた。
目を開けたとき、
部屋には朝の匂いが静かに残っていた。
遠くから、蓮の笑い声が聞こえる。
つばきは布団の上で、
胸元の鈴をそっと握った。
り……ん。
夢と現実をつなぐように、
鈴が、ほんの小さく鳴いた。
その音は、
つばきの世界に薄く、光が広がる予感を
静かに知らせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます