第1章第3話 あったかい

蓮華の家の中は、

しずかで、雨の音が遠く聞こえるだけだった。


つばきは隅で丸くなったまま、

耳を伏せ、尻尾を抱え込むように体に巻きつけている。


見慣れない匂い。

乾いた木の床。

濡れた衣の匂い。


そして――

ゆっくりと近づいてくる、あたたかい人の気配。


蓮華が小さな鍋に火を入れた。

ぱち、ぱち、と静かに油が弾ける音。


つばきはその音にびくっと肩を震わせ、

鼻をひくひくと動かした。


「あ……ごめんね。怖かったよね」


蓮華は火を弱め、

つばきのほうを見ずに鍋をかき混ぜた。

“見ないこと”が、つばきを怯えさせないためだと分かる。


鍋から漂う匂いが、

ふわりと部屋に広がる。


米と水と、少しの塩――

淡い湯気が、やわらかな甘さを運んでくる。


つばきは鼻先だけそちらへ向けた。

ほんの少し、ほんの少しだけ。


でも、体は動かない。


(……知らない人の……食べ物……)


喉がひゅ、と詰まる。

怖さが胸の奥に居座っている。


蓮華は鍋のそばを離れ、着替えを置き、

布団を取り出して部屋の隅に敷いた。


「濡れてて寒いでしょう? ここに着替え置いておくね。ちょっと大きいかな。

着替えたらここに座ってもいいし、近寄りたくなければ、離れててもいいよ」


布団の匂いがつばきの鼻先に届いた。

干した日向のような、

草と陽の匂いが混じった――

懐かしい匂い。


つばきの耳がぴくりと揺れた。


(……あったかい……匂い……)


でも、すぐには動けない。

足先が石のように固まっている。


蓮がそっと近づき、

小さな声で言った。


「お姉ちゃん、食べられそう……?」


つばきは思わず蓮のほうを見た。

その一瞬で、蓮はぱっと笑顔になる。


蓮華が慌てて静かに注意する。


「蓮、急に笑うとびっくりしちゃうでしょ」


「あ……ごめん……」


声の調子を落として、

蓮はそっと小さな椀をつばきの近くに置いた。


湯気が、ほんのり指先を照らす。


つばきは喉を鳴らしそうになり、

慌てて口を閉じた。


(……食べたら……あぶない……?

……でも……)


ぐう、とお腹が鳴る。


蓮華は椀から少し離れたところで、

手を膝に置いて座った。


「無理に食べなくていいよ。

……ただ、あったかいから。

見てるだけでも、いいからね」


つばきは鼻をすすり、小さく震えながら、

椀をちらりと見た。


そして――

ほんの一瞬、蓮華を見た。


その目が、

“敵かどうか”確かめる鋭さではなく、

“どうして?”と迷う子どもの目だった。


蓮華は笑わず、手も伸ばさず、

ただ首を小さく横に振る。


「大丈夫。何もしないよ」


その言葉が落ちた瞬間――

つばきの耳が、

すうっと力を抜くように少しだけ前へ倒れた。


ゆっくり、ゆっくりと服に手をかけ、着替える。

蓮はぱっと顔を逸らした。


着替え終えると、つばきは服の袖をぎゅっと握りしめながら、

体を布団の側へ滑らせた。


布団に触れた瞬間、

つばきははーっと息をつく。


蓮華は息を呑んだ。

蓮は嬉しそうに口を手で押さえた。


つばきは布団の柔らかさと温度を確かめるように

手でそっと押し、


そして――

そっと椀へ手を伸ばした。


椀の縁を、

ほんの少し舌で触れる。


米の甘さが広がる。

あたたかさが喉に降りていく。


一口だけ。

たった一口。


でも、それで十分だった。


蓮華の目が、

そっと柔らかく細められた。


蓮は胸の前でぐっと拳を握り、

声を出さないように喜んだ。


つばきは視線を外し、

布団の上で鼻先を少しだけ埋める。


怖い。

怖いけれど――

この布団も、この匂いも、このあたたかさも。


ほんの少しだけ、

涙が出そうになるほどやさしい。


胸元で鈴が、小さく鳴った。


り……ん。


その音は、

ここではないどこかで守ってくれた誰かの手のようで――


つばきはそっと目を閉じた。

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