2 自由の鳥籠

 色々な感情が巡り、桃花は自分でも気付かず涙していた。

 それの姿を目にした小暮は驚くことなく、桃花の心を察したかの様に何も言わずに手拭を差し出す。


 その手拭いを受け取った桃花は、我慢していた涙が枯れるまで泣いた。

 もう吉芳はいないこと。

 自分は何もしてあげる事ができなかった悔しさ。

 その全てが涙となり溢れ出した。



 暫く泣いたあと、ようやく落ち着きを取り戻した桃花はずっと側についていてくれた小暮に視線を向ける。




「恥ずかしい姿を見せちまいましたね」


「恥ずかしくなどありませぬ。師範を思い泣いてくださったのでしょう」




 優しい眼差しが桃花に向けられ、その温かな瞳にほんのり頬が色づく。

 こんな風に男と話したり、優しい瞳を向けられるのは吉芳以来。


 桃花の瞳に映っていたのはいつも吉芳で、他の男は嫌いだった。

 見た目を気に入り金を積み、自分の欲を満たそうとする男ばかりを見てきた桃花にとって、吉芳以外にこんな優しい瞳をする男がいるなど思いもしなかった。




「小暮といいんしたね。あちきが幸せになるのを見届けていただけんすか」


「勿論です。某は最初からそのつもりでここにいるんですから」




 小暮は他の男と違った。

 吉芳の様に桃花を求める事もせず、ただ見守ってくれた。



 そして月日は流れ、小暮が桃花の側につくようになってから変な輩が来る事はなくなり、いつしか桃花に笑顔が増えていった。

 自分を見ていてくれる存在がいる。

 それが桃花の生きる理由となり、小暮といると幸せを感じるようになっていた。


 もし幸せを望んでいいのなら、桃花は小暮と居たいと望むようになる。

 だが小暮は違う。

 小暮は吉芳に頼まれて桃花の側に居るだけであり、それ以上の感情を持ってはいない。




「小暮はあちきの幸せを見届けるためにいるんでありんすよね。なら、今私は幸せでありんす。あちきは小暮が居てくれるなら――」


「某は桃花殿の幸せを見届ける身。桃花殿の幸せの一部にはなれませぬ」




 小暮は桃花の言葉を最後まで聞くことなく拒んだ。

 それが小暮の気持ちであるとわかっていても、桃花は小暮への想いを無いものにはできず、はしたなくも抱き締める。


 遊女であった桃花は、どうすれば男が喜ぶのか知っている。

 いくら普段冷静であろうと、どんな人にも欲は存在する。

 抱き締めて首元に顔を埋め、首筋に唇を寄せたとき、桃花の身体は勢いよく突き飛ばされ倒れてしまう。


 顔を上げて、驚いた桃花の瞳に映ったのは、温かさも優しさもない、汚いものを見るかのような小暮のしかめた顔だった。


 桃花は自分が遊女であったこと。

 そして、自由になっても遊女なんだと思い知り「ごめんなんし」とポツリとこぼして家から飛び出す。


 好いた相手に一方的な想いを押し付け嫌われてしまった。

 生きる理由がなくなってしまった桃花は、帰る場所すら見失い遊郭街を彷徨う。

 遊女である自分が幸せを求めてはいけなかったんだと、心が空っぽになっている桃花に二人の男が声をかけてきた。




「お! 美人な遊女だな。逃げ出してきたのか?」


「こりゃ捕まえて元の場所に戻してやらねーとな。その前に、礼を先払いしてもらおうか」




 嫌な瞳に声。

 遊女であった自分はこんな男達に欲を吐き出されていたんだと思うと、自分が小暮にした事がこの男達と同じである事に気付いて涙が溢れる。


 泣き出す桃花を男二人は無理矢理路地へと連れて行く。

 一人の男が桃花の首元に顔を埋める。

 まるで桃花が小暮にした時のように。


 想いを寄せていない相手からされる事が、こんなにも汚く嫌なものである事を知らなかった桃花は、先程の小暮の顔を思い出し涙を流す。




「その女子おなごから離れぬか!!」




 突然聞こえた怒鳴り声。

 桃花も男二人もそちらへ顔を向ける。




「お前もこの遊女狙いなのか?」


「元の場所に戻す前にお前にもさせて――」




 男の言葉など聞く耳持たず、拳をぶつけ遮る。

 その勢いで地面に倒れる男。




「この方は遊女ではない!! さっさと立ち去らぬか!!」




 男達二人は逃げていき、桃花は自分を背で庇ってくれている人物に只々驚く。




「なんで……」


「さっきはすまぬ事をした。ただ解ってもらいたい。某は師範ではない。桃花殿は某に師範を重ねているだけなのだ」




 その言葉に桃花は首を横に振る。

 背を向けている小暮には見えていないが、桃花は否定していた。

 勿論桃花にとって吉芳は大切な存在で恩人。

 だが、小暮への気持ちはそれとはまた違うもの。




「違いんす! あちきは吉芳様ではのう、小暮を好いているのでありんす。この気持ちを間違えるはずありんせん」


「その言葉に間違えはありませぬか」


「勿論でありんす」




 その言葉を聞いた小暮は、桃花へと向き直ると腕の中に閉じ込めた。

 すっぽりと収まってしまう小さな体。

 壊さない様に、それでいて力強く、小暮は桃花を抱きしめる。




「某も、桃花殿を好いております」




 桃花の想いは吉芳に向けられるべきものだと思っていた小暮。

 先程桃花の言葉を遮ったのも、期待してしまう自分がいたから。

 桃花が向ける想いが自分だけのものなんじゃないかと。


 桃花に抱きしめられたとき動揺する自分に気づき、小暮は自分自身を軽蔑した。

 それが桃花を傷付ける形となり、危うく男達の欲をぶつけられるところだった。




「もう放しませぬ。桃花殿が幸せになるのを命尽きる最後まで共に居て見届けます」


「約束でありんすよ」




 微笑みを浮かべる桃花の頬は桜色に染まり、その愛らしい唇に小暮は口付けをする。

 触れるだけの優しい口付け。

 それが今は幸せで、二人にそれ以上の欲はなかった。


 この幸せは、吉芳が桃花に贈ってくれたものなのかもしれない。

 桃花は吉芳に更なる恩が出来てしまった。

 もう直接礼を伝えることは叶わないが、この星空の何処かで見ているのだろうか。




「そろそろ戻るとしよう。体を冷やすといけませぬからな」


「そうでありんすね」




 二人並んで歩く姿は、きっと誰が見ても幸せそのものに違いない。

 自由を手に入れても、遊郭という鳥籠の中にいる桃花だったが、その鳥籠の中でも幸せがあり、自由があるのだと、今ならわかる。

 本当の自由と幸せを知った今なら――。



《完》

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自由の鳥籠 月夜 @Yozora2

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