自由の鳥籠

月夜

1 自由の鳥籠

 遊郭の中でも一番小さく、客なんて来ないだろうという建物には、ただ一人の遊女がいた。

 その美しさは同じ女でさえ見惚れてしまうほど。

 遊郭街を歩けばみなが振り返る。

 だが、誰一人としてその建物に足を踏み入れる者はいない。


 遊郭街の小さな建物の遊女。

 それだけならまだいい。

 だが、あの美しさを目にすれば、どれだけの金銭がかかるかわかったものではない。

 そんな遊女の建物にやって来る客は、お金をたんまりと持った男ばかり。


 そして今も、一人の男がやってきて遊女を自分の欲のために欲していた。




「金ならいくらでも出すぞ。美しい遊女よ、俺の酌をしてもらおうか」


「帰っておくんなんし」




 素っ気ない反応の遊女は、男を一度も見ることなく追い返そうとする。

 その毅然とした態度は慣れたもの。




「この金が見えんのか。お前一人を買う事だって出来るんだぞ」




 お金の入った袋を遊女の目の前にチラつかせるが、それでも返ってくる言葉は同じ。

 これだけの金銭があるというのに、一切自分を見ようともしないことに流石の男も頭にきたのか、遊女の腕を掴んで無理矢理自分へと引き寄せた。


 だがその瞬間、男は腹部に与えられた痛みで足がよろめく。

 その痛みは、遊女が肘で思いきり男の腹部を突いた痛み。


 一瞬の隙に遊女は男から離れ、ようやくその視線が男に向けられた。

 その瞳は殺気を放っており、男をキッと睨む。




「この建物の主はあちきでありんす。そのあちきが帰っておくんなんしと言っているのでありんす」


「くっ……! 遊女の分際で調子にのりおって!!」




 男が怒りで手を振り上げた時、その動きを制止する人物が現れた。

 遊女も知らぬその男が手に力を入れると、腕を掴まれた男は痛みで声を上げる。


 あまりの痛みで地面に膝をついた男に対し「女子おなごに手を上げるなど恥をしれ」と言い放ち、男の腕を引いて外に投げるように捨てると、男は慌ててその場から逃げていく。


 そして助けられた遊女はというと、見知らぬその男に何か用かと尋ねる。

 まるで今のことなどなかったかのように冷静な遊女に男は「あなたが桃花ももか殿だな」と口にする。


 一体その名をどこで耳にしたのか、自分の客にこんな男はいなかったはずだと思った桃花は、興味がなかったその男にようやく視線を向けた。




「申し遅れた。某は、吉芳きちよし師範の弟子の小暮こぐれと申す」


「吉芳様!! 吉芳様が来ているのでありんすか!?」




 先程までの冷静さはどこへいったのか。

 その名を聞いた瞬間、問い詰めるように小暮に詰め寄る桃花。


 それもそのはず。

 桃花は吉芳をよく知っていた。

 なにせ、桃花を遊郭から買い、この建物を与えてくれた人物なのだから。


 遊女としての桃花を自由の身にしてくれた恩人。

 でも吉芳は、桃花を自由にしたあと突然姿を消した。

 桃花はあの時の礼すら言えぬまま、この地で、この建物で、吉芳が来るのを待ち続けていた。

 いつかまた来ることを信じ、あの時の礼を伝えるために。


 だが、現実というのは残酷だ。

 桃花を待っていたのは、小暮から告げられた吉芳の死なのだから。




「吉芳様が……。そんなの嘘でありんす!!」


「嘘ではない。某は、亡くなる直前に師範からの頼みを受けてここへ参った」




 吉芳は亡くなる直前手紙を小暮に託した。

 そこに書かれていたのは桃花の事。

 病で一度も様子を見に行けなかった自分の代わりに、小暮に桃花を守ってほしいというもの。


 遊女である桃花を買い、自由を与えた吉芳だが、元々小さい頃から遊女として育った桃花が遊郭を離れて一人で暮らすのは難しいと思い、遊郭の一角にある小さな建物を与えた。

 それは、自由を与えたと同時に不安でもあった。

 元々遊女だった女が一人でいれば、変な輩が現れるやもしれない。

 桃花の見た目はどこから見ても遊女そのもの。

 いくら買われて自由の身とはいえ、遊郭を訪れるものにはそうは見えない。


 そんな桃花を一人にするのは吉芳にとっての心残りだったが、自分が弱っていく姿を桃花には見せたくなかった。

 そこで死の間際、唯一の弟子である小暮に桃花を託した。

 桃花が幸せになるまで見守り、助けてやってほしいと。




「帰っておくんなんし。あれから何年の月日が経っていると思いんすか? あちきはすでに暮らしに慣れてやす」


「ですが、先程の様な輩はいつものことでしょう。桃花殿の毅然とした態度を見ればわかります。某は師範から、あなたの幸せを見届けるように託されたんです」




 桃花は未だこの場所に一人でいる。

 そしてあの様な輩が来るのもいつものこと。

 そんな状況を見ては、小暮もこのまま帰るわけにはいかない。

 師範から託された思い。

 小暮は桃花の幸せを見届けることで果たしたいと思っていたからだ。


 だが桃花は、待ち人の死を受け入れることが未だできず、現実を突きつけるように目の前にいる小暮を早く追い返したいと思っていた。


 何を言ってもこの場から動こうとしない小暮に、桃花は溜息を一つ吐くと「勝手にしておくんなんし」と奥へ入ってしまう。

 構わず放っておけば、一人でも大丈夫だということがわかって帰るだろうと思ったからだ。



 それから数刻程経った頃、何やら騒がしい物音や声が聞こえて行ってみれば、小暮が一人の男の手を捻り上げていた。

 苦痛に顔を歪める男の顔に桃花は見覚えがない。

 先程と同じように桃花を狙ってきた者だろう。


 男は怯えた様子で走り去り、小暮は「やはり危険です」と一言。

 確かに一日にこんな事は何回もあるが、普段桃花は一人で追い返しているので小暮が居らずとも自分でどうにか出来たこと。




「余計な事はしなくて結構でありんす。あれくらい、あちき一人で追い返せんした」


「だとしても、用心棒が一人居ても問題はないでしょう」




 確かに一々追い払わなくて済むが、桃花が嫌なのは用心棒ではなく小暮の存在。

 小暮を見る度に思い出すのは吉芳のこと。

 亡くなったという言葉に嘘がないことくらいわかる。

 でも、だとしたら、桃花は一体何の為に待ち続けていたのか。


 あの時の礼を伝えたい。

 あの時の恩を返したい。

 自由になってからずっとその事ばかり考えていた。

 きっといつかまた会いに来てくれると信じていたのに、もうその待ち人は来ない。

 一気に暗闇が桃花を襲い、これからどうしたらいいのかわからなくなる。


 今までは、吉芳が来るのを待つということだけを考えてきた桃花。

 それが自由になった後も一人この場所で生きてこれた理由。

 その理由が無くなってしまったら、遊女としてしか生きてきたことがない桃花はどうすればいいのかわからなかった。

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