『蛇口』 ——大正浪漫小品・芥川探偵綺譚——

不思議乃九

 あの屋敷の台所には、夜更けになると水が天へ返る蛇口がある──そんな噂を、わたくしが信じたのは、女中が忽然と姿を消した朝のことでございました。


 台所に足を踏み入れると、冬の井戸水の気配が、静かに胸元へ滲んでまいります。明けやらぬ空の下、蛇口からひとしずく。ぽとり、と落ちるはずの水が、微かな光を曳いて天へ吸い上がってゆくのでございます。


 芥川先生は、それを見ても眉ひとつ動かされず、

「重力に不義理を働くものは、えてして人間より素直だよ」

 と、淡く笑われました。


 床板は、夜の湿気を吸った影すらなく、乾ききっておりました。先生は片膝をつき、掌をそっと当てられます。


「ここは、悲しみに触れたあとの布のようだ──乾きすぎている」


 そのお声が落ちるより早く、先生は床板をひとつ外されました。そこには黒ずんだ空洞がぽっかりと開き、女中のお草履が片方、うつくしく並んでおりました。まるで主の帰りをまだ待ち続けているように。


「蛇口が吸い上げていたのではない。吸い込まれていたのは、夜にまぎれた人のほうさ。水音は落とし穴の喉を隠すための幕だったのだよ」


 先生が蛇口をひねられますと、不思議なことに水は出ません。代わりに空洞から、人の未練に似た湿った息が、ほのかに立ちのぼってまいりました。


「まだ……ここにおられるようだね」


 その呟きに揺れるように、空気がふるりと震えます。蛇口からひと雫、銀の糸のような光をまとって昇り、闇へと消えてゆきました。それはまるで、失われた女中が、己の名を呼ばれたからひと時だけ振り返った──そんなふうに見えたのでございます。


 事件の後、家主は捕らえられました。しかし、その屋敷では今なお、丑三つ時になると、ひとしずくだけ水が昇ると申します。まるで、


 「ここにおります」


 と、夜のどこかへ返事をするように。

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『蛇口』 ——大正浪漫小品・芥川探偵綺譚—— 不思議乃九 @chill_mana

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