『蛇口』 ——大正浪漫小品・芥川探偵綺譚——
不思議乃九
*
あの屋敷の台所には、夜更けになると水が天へ返る蛇口がある──そんな噂を、わたくしが信じたのは、女中が忽然と姿を消した朝のことでございました。
台所に足を踏み入れると、冬の井戸水の気配が、静かに胸元へ滲んでまいります。明けやらぬ空の下、蛇口からひとしずく。ぽとり、と落ちるはずの水が、微かな光を曳いて天へ吸い上がってゆくのでございます。
芥川先生は、それを見ても眉ひとつ動かされず、
「重力に不義理を働くものは、えてして人間より素直だよ」
と、淡く笑われました。
床板は、夜の湿気を吸った影すらなく、乾ききっておりました。先生は片膝をつき、掌をそっと当てられます。
「ここは、悲しみに触れたあとの布のようだ──乾きすぎている」
そのお声が落ちるより早く、先生は床板をひとつ外されました。そこには黒ずんだ空洞がぽっかりと開き、女中のお草履が片方、うつくしく並んでおりました。まるで主の帰りをまだ待ち続けているように。
「蛇口が吸い上げていたのではない。吸い込まれていたのは、夜にまぎれた人のほうさ。水音は落とし穴の喉を隠すための幕だったのだよ」
先生が蛇口をひねられますと、不思議なことに水は出ません。代わりに空洞から、人の未練に似た湿った息が、ほのかに立ちのぼってまいりました。
「まだ……ここにおられるようだね」
その呟きに揺れるように、空気がふるりと震えます。蛇口からひと雫、銀の糸のような光をまとって昇り、闇へと消えてゆきました。それはまるで、失われた女中が、己の名を呼ばれたからひと時だけ振り返った──そんなふうに見えたのでございます。
事件の後、家主は捕らえられました。しかし、その屋敷では今なお、丑三つ時になると、ひとしずくだけ水が昇ると申します。まるで、
「ここにおります」
と、夜のどこかへ返事をするように。
『蛇口』 ——大正浪漫小品・芥川探偵綺譚—— 不思議乃九 @chill_mana
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