郷愁

秋の香草

郷愁

 彼は旅をしていた。

 ずいぶん長いこと旅を続けていた。始まりはうんと昔のことだ。白い太陽が闇夜の地平線を突き破ったとき、彼は住処を発った。辺りに漂う濡れた草葉の匂いが、きっと数少ない彼の記憶になることを自覚しながら。

 彼は旅人として、様々な都市を訪れた。畏怖と敬愛を同時に集める主君が治める都市。偉大な王が揺るぎなき権威をもって統制する都市。民衆を代表する賢人どもが討論する都市。互いが互いを告発し合う都市。呪いが人々を食い散らかす都市。均一を良しとしない都市。平坦を良しとする都市。役割を与える都市。奪う都市。夢を見るのをやめた都市。理想と心中した都市。今に安住した都市。

 彼は故郷を探していた。海を渡り、野山をかき分けながら進み、礫の転がる砂漠を彷徨った。そうして、都市という都市を見て回った。何処かに、彼の郷愁を収めてくれる都市が見つかることを期待しながら。


 彼は廃屋の前に立っていた。紛れもなく、見覚えのある建物だ。それは、果てしなく続く旅に疲れ果てた自分を迎え入れるため、荒野の中で朽ちながら風雨に耐えていた。

 錆びついたドアノブが回る。痛みきった扉がゆっくりと開く。

「やっと帰ってきたんだね」

 居間で本を読んでいたと思しきその者が、そっと顔を上げた。友人であり、同志であり、かつて彼自身であったその者は、変わらず穏やかな声をしていた。

「おかえり。ようやく、故郷を見つけられたようだ」

 彼はその者の言葉を素通りした。そのままゆっくりと内へ進んでいく。

「場所は分かったかい」その者は続けて問いかける。

「いや」

 彼は今度は口を開いた。自分は、未だ見ぬ帰るべき場所を求めて旅をしていたのか、それとも最初から帰る場所を知りながらそこを目指していたのか。果たして最初はどちらだったか、彼はもう覚えていなかった。

「分かっていたはずだよ」その者は彼に語りかける。「君は故郷を捨て去ったんだ。君が夜明けとともに都市を出発した、そのときに」

「僕は帰る場所を知りたかった」

「知る必要はなかったんだよ。君はまさに郷愁そのものに浸かっていたんだから」

 彼はその者を鋭い目で睨んだ。

「そんなはずはない。僕は確かに、故郷に帰りたかった」

「気づいていないのかい。変わったのは君自身だよ。君が変わってしまったから、君の故郷も彼方へと消えてしまったんだ。だって都市は、君なんかよりもずっと長持ちだからね」

 そこで彼は思い出した。そして悟った。長い旅路を経て、彼はとうとう故郷を見つけ出し、彼が願った通りに帰還した。けれどそれはもはや彼の故郷ではなかった。

「僕は今も帰りたくてたまらないのに」

 そう言うと彼はゆっくりと向きを変え、再びドアノブに手をかけた。彼は再び旅に出るのだ。今までずっとそうしてきたように。

「いいさ。そうやって探し回るといい。君が郷愁を収める、そのときまで」

 その者の言葉を、彼は再び無視した。

 砂塵の舞う荒野を、彼は再び歩いていく。来たときには収まっていた風が、いつの間にか強くなっていた。ふと、風の流れを捕えるように、彼は手をかざす。すると指先がほつれていき、乾いた砂が空にこぼれていく。そう時間もかからない内に、彼は風で舞う砂の中に散り、埋もれた。

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