第五十一話 復讐の元凶
舌を切り落としたのは、
自分というバケモノの存在意義を、根こそぎ失くすため。
そして、「けじめ」のため。
私が教わった「けじめ」は──死ぬこと。
私はもう、実験体じゃない。
そう、何度も言い聞かせてきた。
けれど、実験されたものは、まだ私の中に残っている。
それをすべて失くせば、私はバケモノじゃなくなるのかな?
"普通"に戻れるのかな?
あれ?
そういえばこの瞳って、私のだっけ?
「
私の記憶にずっといるのに。
"こんな目"に向けられた言葉じゃない。
気づいたときには、自分の手が真っ赤だった。
指の間には、知らない髪の毛が絡みついている。
何をしたのかは、分からない。
でも──私のせいじゃない。
私じゃない。
私のせいじゃない。
「バケモノ」
違う。
「死ね。バケモノ」
違う。
「全部、お前のせいだ」
違う。
これは──。
バケモノがやったことだ。
「アミダさん、ダメ!!」
両目に指を突っ込もうとした、その瞬間。
アミダの両手首を、
だが止まらない。
力が異常に強い。
──待って、力強すぎッ。
それは、バケモノとしての力だった。
美鈴は必死に手首を掴んだまま叫ぶ。
「誰か!! ちょっと、来てください!!」
声を張り上げても、返事はない。
アミダは錯乱し、声にならない声で喉を震わせている。
その叫びは、部屋の外に届いているはずなのに、誰も来ない。
事実、この部屋の扉が閉まったままでも、かなり離れた休憩室の外にまで、その悲鳴は届いていた。
それなのに、誰も来ない。
それもそのはず。
今日の事件で、アミダに恐怖したメイドは多い。
この日から、誰一人として近づこうとはしなかった。
アミダの舌から、血が止めどなく溢れている。
美鈴は、瞬時に理解した。
このまま誰かを呼びに行けば、その間にアミダは必ず、両目を抉る。
そして、この出血量。
放っておけば命に関わる。
それなら。
「アミダさん、ごめん!」
美鈴は、手首を離した。
そして、迷いを振り切るように──。
右の拳を、アミダの腹部へ叩き込む。
───ズンッ。
叫び声は、潰れた息へと変わった。
「……あ、ぐっ」
間髪入れず、もう一発。
再び腹部へ拳が沈み込み、アミダの身体から力が抜ける。
意識が落ち、そのまま美鈴にもたれかかるように前へ崩れ落ちた。
──急がないと。
美鈴の服に、アミダの血が染み込んでいく。
だがそんなことは、どうでもいい。
美鈴は、右手に緑の妖気を纏わせる。
左手でアミダの口をそっと開き、右手で舌を掴んだ。
血と唾液が絡み合う、生々しい感触。
それを意識の端に押しやり、右手へと集中する。
『
能力が発動。
そして、アミダの舌から溢れていた血の勢いが、次第に弱まっていく。
「……よかった」
思わず、声がこぼれた。
これまで積み重ねてきた治癒の知識が、確かに役に立ったことへの安堵。
「あとは、最低でも三十分はこのままか……」
そう呟いた、その時。
部屋の入口から、穏やかな声が落ちてきた。
「おや、こんばんは」
反射的に美鈴は顔を上げる。
そこに立っていたのは──ミズトだった。
美鈴は状況を説明しようと、慌てて口を開く。
「あ、こんばん……じゃなかった。
あの、アミダさんが……ちょっとっていうか、かなりヤバくて──」
言葉は途中で遮られた。
「キミは、治療が出来るんだね?」
──え……?
その問いに、美鈴の胸の奥に違和感が走る。
「……はい。外傷なら、ある程度は……」
おかしい。
この状況を前にして、ミズトは一切、動じていない。
アミダが明らかに大量の血を流し、放っておけば命を落としかねない状態なのに。
ミズトはただ、興味深そうに美鈴を見つめ、微笑んでいる。
紅い瞳。
その視線に、背筋をなぞるような寒気が走った。
「あ……あの……アミダさんが……」
だが、その言葉を聞くことなく、ミズトはゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
目を逸らせない。
紅の瞳から、視線が外れない。
「……あの……アミダさん……が……」
ミズトは美鈴の目の前で立ち止まり、右手を広げ、ゆっくりと美鈴の顔へ伸ばした。
視界いっぱいに、手のひらが迫る。
「え……ミズ──」
その瞬間、ミズトの右手が青く光った。
『
その言葉が降りたその直後──。
美鈴の瞳から、光が消えた。
ミズトは、手を広げたまま、静かに問いかける。
「私の名前は、わかるかい? 美鈴」
美鈴は、迷いなく答えた。
「はい……
♦
「あれ……?」
気がつけば、美鈴は屋敷の玄関ロビー内の出入り口の扉の前に立っていた。
ここの扉の前にいつの間にかいたのか分からない。
さっきまで──"休憩室に忘れ物を取りに行ってた"はずだ。
「ん……?」
視線を落とし、思わず首を傾げた。
「今日の私の服って……こんなんだっけ?」
着ているのは、ここへ来たときの服ではない。
休憩室の、自室ロッカーにしまってあるはずの私服だった。
理由を考える間もなく、屋敷の奥で──ゴーン、と低く鐘の音が鳴った。
反射的に、壁に掛けられた時計を見る。
「えっ……二十一時!?」
一気に現実が押し寄せる。
「やばやばやば! 帰って弟のご飯作らなきゃ!」
それ以上考えることを放棄するように、美鈴は踵を返した。
違和感を胸の奥に押し込み、屋敷を後にする。
♦
アミダが舌を切り落としてから、十日が経過していた。
美鈴の治癒能力と、アミダ自身の異常な回復力により、傷口は完全に塞がっている。
だが──。
舌を切り落とした、その日から。
アミダはずっと無意識の最中だった。
「───!! ───!!」
誰かの叫び声。
その音に引き裂かれるように、意識が浮上する。
闇が剥がれ落ち、視界が一気に開けた。
最初に目に映ったのは、
屋敷のロビー。
アミダの正面で、籠女が床に膝をつき、倒れている誰かの身体を必死に揺さぶっている。
その光景を理解した瞬間、肺から空気が抜け落ちた。
「……え……」
籠女の腕の中にいる人物。
それは、
口元から、赤い血が細く流れている。
桜は、この屋敷で籠女といちばん親しかったメイドだった。
籠女より少し年上で、いつも妹のように気にかけ、笑ってくれていた人。
視線を動かした、その先。
アミダを囲むように、メイドたちが立っていた。
逃げ場を塞ぐような距離感。
向けられているのは、同情でも困惑でもない。
それは──化け物を見る目だった。
背筋を冷たいものがなぞる。
喉が震え、それでもアミダは声を絞り出した。
「……籠女?」
その呼びかけに、籠女の動きが止まる。
ゆっくりと、振り向いたその顔は。
涙でぐしゃぐしゃだった。
泣き腫らした目で、籠女は口を開く。
「アミダ……なんで……」
頭の中から、思考が削り取られていく。
呼吸が、浅く、乱れる。
聞きたくない。
次の言葉だけは、聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくな──
「──なんで……桜さんにまで、手ぇかけたんや……」
世界が、音を失った。
「ちが……っ、私じゃ……」
反射的に、声がこぼれる。
だが、その言葉は床に落ちるだけで、誰にも届かない。
その時。
周囲にいたメイドの一人が、吐き捨てるように言った。
「……バケモノ」
その一言が、胸の奥に深く突き刺さる。
そして、間を置くことなく。
「「バケモノ」」
複数の声が、重なった。
否定の言葉は、形になる前に崩れ落ちた。
音として耳に届くよりも早く、アミダを殺していく。
その言葉に、籠女がハッと息を呑む。
バケモノ。
それは──。
アミダが、この世でいちばん嫌っていた言葉。
籠女は桜を腕に抱いたまま、叫ぶ。
「ごめん、みんな……やめてや……!」
声が震える。
「それだけは言わんで……お願いや……!」
必死に、何度も首を振る。
「お願いやから……ほんまに……やめて!!」
そのとき。
階段の上から、静かな声が降ってきた。
「……残念だ」
その一言で、空気が凍りついた。
誰一人、言葉を発することができない。
声の主は、ミズトだった。
ミズトはゆっくりと階段を降りながら、淡々と告げる。
「まさか……桜にまで手をかけるとはねぇ」
一段、また一段。
「それだけじゃない。籠女の"鳥籠"まで盗んでしまうなんて」
その言葉に、籠女とアミダが同時に目を見開いた。
アミダは、その瞬間になって初めて、自分の左拳に違和感を覚える。
ゆっくりと、恐る恐る、指を開いた。
そこにあったのは、籠女が命のように大切にしていた、
意識が戻ってから、ずっと握りしめていた事に、今の今まで気づいていなかった。
身体が、がくりと震える。
「……違う」
声にならない。
「違う……違う……違う……違う……」
否定を重ねるほど、現実は濃くなる。
もう、無理だ。
「────!!」
叫びとともに、アミダの身体から黄色の妖気が爆ぜるように噴き出した。
抑制も、理性もない。
ただ、絶望と怒りと、壊れた心の音だけがそこにあった。
そして──。
その妖気に反応するかのように、アミダの左手にあった那由多が、淡く光を放つ。
那由多は、籠女の血族以外が妖気に触れれば、命を奪う呪物。
だが、その光が完全に解放されるよりも早く、鳥籠が奪われた。
───ぱしっ。
背後から、伸びてきた手。
那由多を掴み取ったのは、
研究のためにミズト邸へ向かう途中、客間に医学書を置いたままにしていた事に気づき、急ぎ到着していた。
そして、那由多が解放されかけた瞬間を見て、反射的に手を伸ばしたのだった。
「ふぅ、危なかったなぁ──」
その言葉を待たずに。
乱丸の手の中で、那由多が青緑の妖気を噴き出す。
一瞬だった。
妖気は、爆ぜることもなく音もなく消えた。
だがその静けさこそが、致命的だった。
───ドサリ。
乱丸の身体が、床に崩れ落ちる。
沈黙。
その静寂を引き裂くように、籠女の叫びが響いた。
「オトン!!」
籠女は駆け寄り、乱丸の身体を揺さぶるが、返事はない。
周囲のメイドたちも、遅れて集まってくる。
籠女の悲痛な声が、屋敷中にこだました。
その光景を前にして。
アミダは、壊れたように口ずさんでいた。
「……私じゃない……私じゃない……私じゃない……」
その様子を見て、ミズトは笑った。
口元を、わずかに吊り上げて。
そして、静かに宣告する。
『傀儡霊操獄・解放』
その刹那──
アミダの中で、封じられていた"記憶"が、雪崩のように押し寄せた。
無意識の間に行ってきたすべての行動。
奪ったもの。
傷つけたもの。
壊したもの。
それらが一つ残らず、鮮明に蘇る。
ミズトは、アミダにかけていた"支配"を解いたのだ。
アミダは叫ぶ。声にならない悲鳴を。
そして、その記憶の奔流の中で、気づいてしまった。
ミズトの本当の目的。
それは──乱丸の医学書を、手に入れる事。
事故に見せかけて、医学書から乱丸を切り離す。
そのつもりで、最初からアミダを屋敷へ引き取っていた。
理解をした時、最後の支えが音を立てて崩れ落ちた。
自分は、利用されただけだった。
アミダの心は完全に壊れた。
今の自分が、何をしてしまうのか。
誰を傷つけるのか。
自分自身でさえ、分からない。
籠女ですら、今は憎いと錯覚してしまう。
だからこそ。
今、この瞬間に出来る最大限の抵抗。
あの医学書を奪い、この屋敷から消えること。
もう、どうでもいい。
次の瞬間、黄色の妖気が弾け、光速にも似た加速で二階へと跳躍した。
床を蹴る音すら、遅れて聞こえる。
客間へ、一直線に。
音速で駆け抜け、卓の上にあった医学書を掴み取る。
躊躇はない。
そのまま、窓を突き破った。
籠女と、初めて出会った日のこと。
手を差し伸べられたこと。
助けられたこと。
そして、何も言わずただ抱きしめてくれたこと。
それら全てが、頭の奥で反復される。
「ごめんね……籠女」
硝子が砕け散り、夜の空気が流れ込む。
アミダの姿はそのまま闇の外へと消えた。
ミズトは、泣き叫ぶ籠女を見据え、呟く。
「あとは、頼んだよ……亜美雫」
──復讐の元凶へ──
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