第五十話 自戒
アミダがミズトの"温度"に気づいた、その翌日の夕方。
籠女の父──
場所は、ミズト邸二階にある客間。
今は乱丸が自由に使わせてもらっている部屋だ。
十分な広さのある室内には、寝泊まりができるようベッドが置かれ、その中央には大きな卓と椅子が据えられている。
卓の上には、研究や実験に用いる資料や刃物が、用途ごとにきっちりと整えられていた。
乱雑さは一切なく、すべてが「使われる前提」で配置されている。
乱丸は長身で、黒髪をきっちりとオールバックに整えている。
切れ長の目元は鋭く、紫を基調とした長袖シャツには、山吹色の蓮華がいくつも刺繍されていた。
その姿だけを見れば、とても"近所の優しい医者"という評判には結びつかない。
むしろ、近寄りがたい雰囲気すら漂っている。
「せやからなぁ、ミズト。
その
乱丸はそう言いながら、卓の上を指で軽く叩く。
その隣でミズトは、研究卓に並べられた容器へ視線を落としていた。
空き缶ほどの大きさの容器が十数個。
中に収められているのは、白い粉末──霊子粉だった。
「……うーん。
ミズトは苦笑気味に続ける。
「いざ調合となると、やっぱり難しい」
その言葉を聞いて、乱丸は卓に広げていた分厚い一冊を持ち上げた。
表紙には、"霊子力学解体医学書"とある。
乱丸はページをめくり、基礎が記された箇所まで戻すと、ある一文を指差した。
「ほら、ここや。
怪異の身体はな、霊子によって細胞が形成されるって書いてあるやろ」
指先をそのまま滑らせながら、続ける。
「やから、傷薬を作るんやったら、ただ治すんやなくて、その細胞の治癒作用を"助ける"組み合わせにせなあかん」
ミズトは、その説明に小さく笑みを浮かべた。
「理論上では理解しているさ」
そう前置きしてから、静かに息を吐く。
「ただ、調合になると経験がものを言う分野だろう?
今の私の経験値では、目利きだけで判断が難しくてね」
乱丸は他人に何かを教える時、必ず"基礎の基礎"から叩き込む。
遠回りに見えても、その土台がなければ応用は意味を成さないと、誰よりも理解しているからだ。
そうした性格と積み重ねの結果──。
怪異の身体に関する乱丸の知識は、他に並ぶ者がいないほど、深く、そして正確だった。
乱丸は腕を組み、顎に力を込めるようにして、ゆっくりと頷く。
「うん。俺もな、ミズトのその感覚、ホンマようわかるわ」
低く息を吐きながら続ける。
「今でも正解が、わからんことばっかりや。
調合も理論も答えは一個ちゃう。
けどな……これから霊子の新しい可能性を見つけ出していく、って思うと、ちょっとワクワクせえへんか?」
その言葉に、ミズトは一瞬何かを思い出したような表情を見せた。
「新しい可能性、と言えば──」
医学書に落としていた視線を、ゆっくりと乱丸へ向ける。
「──死んだ怪異の身体の崩壊を防ぐ方法は、見つかったのかな?」
乱丸は腕を組んだまま、チラッと横目でミズトを見た。
「なんやミズト。そこ、気になっとるんか?」
問い返され、ミズトは肩をすくめるように微笑む。
「もちろんさ。乱丸の知識と発見は、純粋に興味深い。
優れた理論は、脳にインプットしておきたいからね」
露骨な賛辞に、乱丸は機嫌を良くしたように口角を上げた。
ニヤリと笑い、分厚い医学書のページをぱらぱらと捲る。
「現実的か言われたら、まだ微妙なんやけどな……あった。ここや」
七枚ほどページを進めた先で、指が止まる。
そこに記されていたのは、怪異の身体構造についての記述だった。
ミズトがそのページを見るのは、これが初めてだった。
乱丸は常にこの医学書を持ち歩いている。
屋敷にいる時でさえ、乱丸が自ら開いた時しか中身を覗くことはできない。
この一冊は、乱丸の全てだった。
だからこそ、親友であるミズトであっても、乱丸の目が届かない場所では触れさせなかった。
乱丸は、医学書に記された文章を追いながら、それを自分の言葉に噛み砕くように読み上げていく。
「怪異の身体はな……。
それが体内の"
その途中で、ミズトが静かに口を挟んだ。
「すまない。霊子場、というのは一体なんだい?」
乱丸は一瞬、目を瞬かせ、すぐに頷く。
「おお、そういや教えとらんかったな」
そう言いながら、ミズトの腹部あたりを指差した。
「霊子場っちゅうのはな、身体の中に霊子を溜め込む場所や。
位置で言うと、
指を下ろし、言葉を続ける。
「ほんでな、霊子場から流れ出とる霊子が、怪異の細胞から肉体まで、ぜんぶを形作っとる」
そして、卓の上にあったコーヒーを指差す。
「飯食ったり、寝たりして体調を整えられるんも、この霊子場があるおかげや。
摂取したエネルギーは、最終的に霊子場へ循環される仕組みになっとる」
一拍置いて、念を押すように付け加えた。
「心臓から流れる血液とは、また別物やからな?」
乱丸の声が、わずかに低くなる。
「せやけどな。怪異が死ぬと……霊子場から流れとった霊子が、ひたすら漏れ出して循環できんようになる。
その結果、霊子場は空っぽになってまうんや」
医学書のページに視線を落としたまま、静かに言い切る。
「そうなると、身体は支えを失って内側から崩壊を始める。
これが──怪異の死のメカニズムや」
その説明を、ミズトは即座に咀嚼したようだった。
「つまり、怪異が死んだ時に、霊子場から霊子が漏れ出さないように出来れば、崩壊自体はされなくなる……と」
乱丸はその言葉を聞き、ほんの少しだけ沈黙した。
やがて、ふっと笑みを浮かべる。
「ミズトはホンマに理解が早いなぁ。さすがは俺の親友や」
肩をすくめるようにして続けた。
「せや。理論上はその通りや。
ただしな……実際に成功した例は、まだ一つもあらへん」
視線を伏せ、独り言のように呟く。
「もしそれが出来るんやったら……家族や友達に、せめて最後の別れくらいは、ちゃんと出来るんやけどな……」
乱丸の呟きが、客間の静寂に溶けかけた、その瞬間だった。
廊下の向こうから、甲高い悲鳴が立て続けに響いた。
メイドたちの声だ。恐怖に裏打ちされた、切迫した叫び。
「……なんや?」
乱丸が顔を上げ、扉の方へ視線を向けた刹那、ばたばたと慌ただしい足音がこちらへ迫ってくる。
───ガチャン!
勢いよく扉を開けて飛び込んできたのは、
肩で息をし、今にも崩れ落ちそうな表情のまま、一歩だけ部屋に足を踏み入れる。
その異様な様子に、乱丸が声をかけようとした瞬間。
「おぉ? どないした籠──」
言葉は、籠女の声に遮られた。
「アミダが……」
震える唇で、必死に言葉を紡ぐ。
「……メイドさんのこと、三階から突き落とした……」
空気が、一瞬で凍りついた。
ミズトは、その言葉を聞くや否や、迷いなく動いた。
「乱丸。籠女を頼む」
それだけ言い残し、踵を返して廊下へ飛び出していく。
足音が遠ざかる中、籠女はついに堪えきれず、泣き出しそうな顔で乱丸に
「どうしよ、オトン……!」
声が震え、言葉が乱れる。
「ウチ、アミダの事……ちゃんと見てやれんかった……! どないしたらええの……」
乱丸はゆっくりと籠女に歩み寄り、その小さな手を両手で包み込んだ。
力強く、それでいて温かく。
「大丈夫や」
声は明るく、優しかった。
「オトンが、なんとかしたる。
アミダちゃんのことは……絶対に守ったるから」
そう言って、籠女の頭をそっと撫でる。
そのまま背を向け、迷いなく部屋を後にした。
♦︎
アミダは、自室のベッドの上に座っていた。
──あれ、私……。
まるで、深い眠りから覚めたような感覚。
けれど、眠っていた記憶は、どこにもない。
──また……意識、失ってたんだ。
ここ二週間、一日に最低一度は起きる、無意識の時間経過。
最初の一週間は、自分がボーッとしているだけだと思っていた。
だが、無意識中に経過している時間が、多くなってきている。
そして──昨夜食事をした後の記憶が、ぽっかりと抜け落ちている。
階段で、誰かに会った気がする。
声をかけられたような気もする。
それでも、何も思い出せない。
何か、籠女に言わなきゃいけなかった気がする。
胸の奥がざわつく。
危険だと、伝えなければならなかった気がする。
でも、その「何か」が、どうしても掴めない。
部屋は暗かった。
アミダは身体を起こし、布団から抜け出して壁のスイッチに手を伸ばす。
パチリ、と乾いた音。
明かりが灯った、その瞬間。
「……え?」
息が、止まった。
両手が──真っ赤だった。
血に濡れ、指先から手首にかけて、異様なほどに染まっている。
頭が真っ白になる。
そして、さらに目に入ったものに、喉が引きつった。
両手の指の間に。
絡みつくように、大量の髪の毛が巻き付いていた。
知らない、髪の毛が。
♦︎
廊下に響いたアミダの悲鳴を聞きつけたのは、
「……え? なに、今の……?」
三階の休憩室を出た、ちょうどその瞬間。
扉の向こうから、喉を引き裂くような声が届いた。
美鈴はミズト邸でアルバイトをしている。
今日は本来、勤務のない日だったが、忘れ物を取りに来ただけだった。
だからこそ──今日、屋敷の中で何が起きているのか、彼女は何ひとつ知らない。
休憩室には、もう誰の気配もなかった。
美鈴は落ち着かない様子で周囲を見回す。
「……これ、行ったほうがいいやつ、だよね……」
小さく呟き、意を決して廊下を走り出す。
悲鳴のした方向──アミダの自室へ。
扉の前に辿り着いたとき、内側から、かすれた呻き声が聞こえた。
それだけで、胸が嫌な音を立てて跳ねる。
反射的に、美鈴はドアノブを掴み、捻った。
───ガチャッ。
「ア、アミダさん……!?」
扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、美鈴の足が止まった。
部屋の中央──アミダは、扉に背を向け床に座り込み、微かに身を震わせていた。
喉から漏れる声は、声と呼ぶにはあまりにも弱々しい。
「だ、大丈夫ですか……?」
駆け寄ろうとした、その途中で、美鈴は異変に気づく。
床に、点々と──血が落ちている。
一歩、また一歩と近づくほどに、その赤は濃くなっていった。
そして、アミダの前まで来た瞬間。
美鈴は完全に言葉を失った。
膝元には、厨房にあったはずの包丁が転がっている。
刃先は、赤黒く濡れていた。
そして──。
アミダの口元からは、止めどなく血が溢れている。
震える右手に握られていたのは──。
切り落とされた、自分の舌だった。
──記憶のない自戒──
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