第四十七話 信じてたからこそ
数秒前まで、地獄へ引きずり落とされるようだった痛みは、嘘のように消えている。
あまりにも即効性がありすぎて、籠女の口からこぼれた言葉は、ほとんど脊髄から落とされたものだった。
「
屍々子の太ももを枕にしたまま、籠女は上から覗き込む屍々子に、思ったままを投げる。
その、あまりにも素直すぎる問いに、屍々子は思わず吹き出した。
「ぷはっ……あははは──ごふッ」
同時に、口から血が噴き出す。
「屍々子おお!!」
笑った代償は、即座に返ってきた。
この身体のダメージ量で腹を揺らす行為が、どれだけ無茶だったかは言うまでもない。
屍々子は何事もなかったように、右袖で口元の血をぐいっと拭う。
「ん……大丈夫。
これ、籠女助けに行く前に茜たちと食ったミートソース」
「人が
軽口は交わしている。
だが、その姿からは"大丈夫"という言葉の説得力が、微塵も感じられなかった。
顔には打撲と切り傷。
汗と血で張り付いた毛先は、もはやピンクではなく、赤に近い色をしている。
外見で分かるのはそれだけだが──。
籠女自身もまた、全身に鈍い痛みを抱えている。
──まぁ、ウチも説得力皆無やな。
心の中でそう呟き、ゆっくりと身体を起こそうとすると、屍々子がすぐに背中へ手を添えた。
互いに手を掴み合い、立ち上がる体勢に入る。
その途中、二人とも気づかぬうちに、思いきり歯を食いしばっていた。
「「ふんぐぐぐぐッ!」」
その顔は、あまりにもブサイクだ。
籠女は息を荒くしながら、ニヤリと口角を上げる。
「はッ……はぁ……し、屍々子ぉ。
アンタ今、えらい……ブサイクやぞぉ」
侵色による妖力消耗と傷の痛みで、身体が小刻みに震える。
屍々子もまた、同じように震えながら、同じようにニヤリと返した。
「ふんぎぎぎっ……あのさぁ……。
今の……くっ……
二人は無事立ち上がり、ほんの一息入れる。
「「ふぅ~」」
籠女は、阿巳蛇が倒れている部屋の方へ視線を向け、そのまま屍々子に声を投げた。
「屍々子。ちょっと
言い切って、一歩踏み出す。
その瞬間。
屍々子の手が、籠女の右手首を掴んだ。
「一人で行くな。
制止する声は低く、短い。
そのとき、背後から掠れた声が割り込んだ。
「おい……」
屍々子と籠女は、ほぼ同時に振り向く。
茜だった。
「心配……すんなって」
そう言って、腰を押さえながら「イテテ」と小さく呻き、ゆっくりと身体を起こす。
無理をしているのは、見てすぐに分かる。
それでも、茜は背筋を伸ばした。
「大丈夫だ。美鈴は私が見ておく」
茜は、少し笑った。
屍々子と籠女は、その言葉を受け止めるように軽く頷く。
そして二人は、阿巳蛇が倒れている部屋へと向かう。
入口からではなく、屍々子が穿った、崩れた壁の向こうから。
足を踏み入れた瞬間、光景が広がる。
部屋の中心だけが、異様なほど広く空いていた。
その周囲には、砕けた卓や椅子が瓦礫と混じり合い、無秩序に散乱している。
先ほど放たれた空気圧の余波。
その爪痕が、まだ生々しく残っていた。
そして、その空白の中心。
阿巳蛇が、床に直接あぐらをかいて座っていた。
全身は裂傷と打撲で覆われ、血も流している。
それでも、その顔に痛みを訴える色はなく、ただぼんやりと壁を眺めている。
その
その近くには
阿巳蛇が、屍々子と籠女の気配に気づき、顔を向けた。
「なに……。鳥籠?」
その一言に、無兎と鏑は即座に立ち上がり、妖気を纏う。
阿巳蛇の前へ出ようと、一歩踏み出したその時。
「無兎、鏑。大丈夫だよ。座ってて」
無兎の声に、抑えきれない怒気が滲む。
「……阿巳蛇さん。どうしてですか。
今だったら──」
だが、阿巳蛇はその言葉を、やさしく遮った。
「大丈夫だから」
それだけ。
間を置いて、続ける。
「……怒ってるんだよね。ありがとう、無兎。
でも、本当に大丈夫だよ」
威圧でも命令でもない。
年長者が、年下を宥めるような静かな声だった。
その響きに、無兎は一瞬唇を噛みしめる。
やがて、妖気をスッと閉じる。
「……鏑も、戻るよ」
その言葉に従い、鏑も妖気を収める。
二人は何も言わず、元いた椅子へと戻っていった。
その様子を眺めながら、屍々子は、"仲間として無兎と鏑を見ている阿巳蛇"の姿を、確かに捉えていた。
「……お前も、そういうとこあんだな」
呟くように言いながら、瓦礫と破片の隙間へ足を踏み入れる。
籠女と並び、ゆっくりと阿巳蛇へ歩み寄った。
阿巳蛇は小さく笑う。
「……そういうとこって?」
その問いに答えたのは、籠女だった。
声は低く、冷え切っている。
「アンタが裏で、とんでもないことしとるのにや。
それでも、こんなふうに信頼されとる……そこが、びっくりや言うとんや」
阿巳蛇は答えない。
籠女の言葉を受け止めながら、近づいてくる二人を、ただ静かに目で追う。
やがて、屍々子と籠女は阿巳蛇の目前に立った。
阿巳蛇は、あぐらを崩さない。
そのまま二人を見上げる。
その瞬間。
───バチンッ。
乾いた音が、部屋に響いた。
籠女の右手が、阿巳蛇の頬を打ち抜いたのだ。
血と汗が飛び散り、阿巳蛇の顔が勢いよく横を向く。
それでも即座に、口を開いた。
「無兎……大丈夫」
無兎が妖気を滲ませたのを、感じ取っていた。
阿巳蛇は、打たれたままの向きで、じっと動かない。
籠女が叫ぶ。
「アンタ……なんで、こんなことしとるんや……!
なんでウチになんも言わんと、屋敷を出てったんや!!」
それは、単なる怒りではなかった。
これからも、笑って並んでいたかった。
同じ時間を重ねていくはずだった──。
"友達だった"相手に向ける、悲しみと、やるせなさの叫び。
沈黙が重く場を満たす。
やがて、阿巳蛇が口を開いた。
「……ごめんね」
その一言が落ちた瞬間。
───バチン。
今度は左手だった。
籠女の平手が、阿巳蛇の右頬を打ち、無理やりこちらを向かせる。
「……なんて? こっち見て……言いたいことあるんやったら、全部言えや!!」
阿巳蛇は、ようやく籠女の目を見る。
逃げずに、逸らさずに。
そして、ゆっくりと言葉を選ぶように、口を開いた。
「……ミズトから逃げて、籠女」
籠女の眉が動いた。
「は?」
意味が掴めない。
思考を巡らせても、言葉が繋がらない。
「なにが言いたいんや、アンタ」
その問いに、阿巳蛇は小さく息を吐いた。
そして、静かに告げる。
「ミズトは……籠女の鳥籠を狙ってる」
屍々子も籠女も目を見開いた。
だが、その反応を待たず、阿巳蛇は言葉を重ねた。
「あたしが強くなったのも。因喰を作ったのも。
……そして、ここに籠女を無理矢理連れてきたのも──」
言葉が途切れる。
一旦視線を落とし、再び籠女を見つめた。
「……全部、籠女をミズトから守るため」
今すぐ返せる言葉はない──けれど。
その言葉を、籠女は否定できなかった。
阿巳蛇が嘘を吐いているようには、どうしても見えなかったから。
それは、籠女自身が一番よく知っている。
阿巳蛇は、これまで一度も誰に対しても嘘を吐いたことがない。
少なくとも、籠女が出会ってからの彼女はそうだった。
泣き虫で、臆病で、頼りなかった。
けど、誰よりも優しくて、誰よりも籠女に心を開いてくれた。
そして籠女自身──。
阿巳蛇という存在を、誰よりも信頼していた。
五年前までは、ずっと。
ずっと。
親友でいたかった。
胸の奥が軋む。
思い出が、静かに痛みへ変わっていく。
そして、次に放たれた阿巳蛇の言葉は、屍々子と籠女の想像を遥かに超えた。
「そして……この怪異界を、あたしが支配するため」
その宣言は、弁明でも懺悔でもなかった。
──差し伸べた手は、闇へ──
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