第四十六話 決着、阿巳蛇戦
──こいつの色、一体なんだ?
阿巳蛇のその疑問は単なる色味の話ではない。
視覚で捉えている情報よりも先に、"感覚"が異質さを突きつけてくる。
そして。
"それ"を初めて見る者は、決まって同じ感覚を落とし込まれる。
──なんだ、この見下ろされてる感覚は。
その見下ろしは、屍々子の瞳から感じるものではない。
灰色の妖気を纏った屍々子という存在から、自然と放たれる"圧"。
立っているだけで、空間の上下関係を塗り替えるような感覚。
灰色は、見透かすように、俯瞰するように。
ただ──そこに在るだけで、こちらを下に置いていた。
そしてその感覚は、阿巳蛇だけのものではなかった。
言葉にせずとも、同じ違和と圧迫を、確かに感じ取っていた。
♦︎
──またこの
灰色の妖気が身体から溢れ出る、その引き金を屍々子自身は把握していない。
だが、発現しているからには、使い方は全て
だって──アタシの"力"だから。
───バチリ。
屍々子の妖気が弾け、そして──。
跳んだ。
両足から空気圧を放ち、一直線に阿巳蛇へ跳躍する。
同時に、阿巳蛇もこちらへと迫ってきていた。
ここで空気圧を放てば、倒れている仲間たちを巻き込む。
それだけは、避けなければならない。
だから、殴り倒す。
阿巳蛇の本気の速度。
正面からではない。屍々子の視線を切り離すように、黄色い光を伴いながら、左右へ不規則に軌道を変えてくる。
妖気が空気に溶けて消える前に、次の位置へ。
その連続が、黄色い残像となって空間に刻まれ、屍々子の感覚を惑わせる──つもりだろう。
だが、空気は教えてくれる。
『直感』と『真偽』。
たとえ直感で捉えられたとしても、身体が追いつかなければ意味はない。
ならば最初から真実だけを捉えれば、見えたも同然。
屍々子が自覚をもってこの色を使えた時間は、わずか三分。
この灰色の効果が尽きる前に──。
──阿巳蛇を倒す。
視界の左端から、黄色が迫る。
次の瞬間、その黄色はすでに右へと位置を移していた。
が──この一連の流れが、読める。
空気を切り裂く音が、わずかに遅れて届く。
それと同時に、阿巳蛇の左拳が屍々子の顔面へ迫る。
屍々子は右腕を内側から差し入れ、最小限の動きで弾く。
その一手を置いた時点で、阿巳蛇の姿はすでに左へ──。
床を蹴り、切り返し、無駄のない連動。
一手ごとに位置を変え──屍々子の頭上から、右脚が叩き落とされていた。
「────ッ」
屍々子は反射的に両腕を交差させ、頭上でそれを受け止める。
───ドンッ。
重みが乗った衝撃に、跳躍で宙に浮いていた身体が押し下げられ、足裏が床を捉えた。
腕に、鈍い痛みと痺れが走る。
阿巳蛇は笑っていた。
──いつぶりだっけ。ここまであたしと
それは、相手を潰せると確信した笑みではない。
全力を叩きつけても沈まない相手と相対する、純粋な愉悦だった。
屍々子は即座に両足から空気圧を放つ。
身体がふわりと浮き、頭上の脚を、その反動ごと弾き返す。
阿巳蛇に一瞬の隙が出来た。
だがそれは、本来なら致命にはならない。
阿巳蛇ほどの使い手なら、その程度の間合いは容易く埋められる──ハズだった。
屍々子は、その隙を疑わない。
右拳を迷いなく振り抜き、空気圧を解放する。
───ボンッ。
音が阿巳蛇の耳に届いた時には、すでに顔面が撃ち抜かれていた。
身体が吹き飛び、屍々子の左手側の壁へ背中から音速で叩きつけられる。
「──ぐあッ!」
肺から、無理やり空気を押し出すような声が漏れた。
阿巳蛇は壁を背に、ゆらりと身体を起こす。
その表情には、今起きた出来事へのハッキリとした動揺が浮かんでいた。
──なにが起きた……。
反応できなかった。
屍々子の拳に対して、まるで身体が動かなかった。
灰色の妖気を纏ってからの屍々子は、速度も、攻撃の威力も確かに上がっている。
だがそれでも、阿巳蛇なら完璧ではなくとも、ある程度の対応は出来たハズだ。
それが──出来なかった。
意思とは無関係に、身体が次の防御へ移ることを、拒否していた。
本能が、屍々子の内にある"概念"に抗うことを、許さなかった。
それは──『二秒間の思考停止』
屍々子が灰色の妖気を纏い、攻撃へ転じた瞬間。
彼女の中の"概念"が、相手の本能を
それは、生き物が本能の奥底で刻み込まれている、
"裁く者"への畏怖──
阿巳蛇はその瞬間、初めて理解してしまう。
自分が、負けるかもしれないという可能性を。
ミズト邸を出てから、今日まで。
"阿巳蛇という呪い"を殺すために、自分の中の"残酷"と一緒に過ごしてきた。
そして、自分と同じように。
"失ったもの"を取り返すために、自分の元へ集まってくれた者たちの願いを──。
その悲しみも、叫びも、怒りも──。
すべてを背負って、ここまで来た。
復讐を、終わらせるわけにはいかない。
この先、自分の記憶に、自分自身が殺されないためにも。
「あたしは──」
──こんなところで。
喉から絞り出すように、声が漏れる。
「──立ち止まれないんだよ!!」
痛む身体を叱咤し、阿巳蛇は踏み出す。
屍々子へ向け、全力で距離を詰める。
だが、屍々子の拳が迫る。
そして──思考が止まる。
───ズダンッ!!
爆ぜるような衝撃音とともに、拳が胸部を貫き、阿巳蛇の身体は後方の壁へ叩きつけられる。
瓦礫が崩れ落ちるよりも早く、阿巳蛇は跳ね起きた。
間髪入れずに距離を詰め、左脚の蹴りを振り抜く。
理屈ではない。
執念だけで、身体を動かしていた。
屍々子は、そこで気づく。
──遅くなってる。
阿巳蛇の蹴りが、わずかに鈍っている。
積み重なったダメージが、確実に動きを縛っていた。
屍々子は低く潜り込み、下から踏み上がるように、右脇腹へ空気圧を叩き込む。
阿巳蛇の顔が、苦痛に歪む。
だが吹き飛ばない。
衝撃を無理やり耐え、至近距離から拳を返してきた。
───ダンッ。
衝撃に押され、屍々子は二、三歩、後退する。
読めていた。
だが、極度の疲労と痛みが、反応を一瞬遅らせた。
そこから、激しい攻防が続く。
屍々子は『直感』と『真偽』で攻め、阿巳蛇は吹き飛ばされようとも、即座に対抗する。
二人とも、すでに限界を超えている。
攻撃する度に、自然と息と声が漏れる。
それでも、倒れるわけにはいかない。
信念のために。
仲間のために。
───ドゴァッ!
阿巳蛇の蹴りが屍々子の胸部へ直撃する。
反動で、距離がわずかに空く。
「──くっ」
休息はない。即座に反撃。
屍々子は左足から一瞬だけ空気圧を解放し、一気に踏み込む。
右拳を全身の重さごと叩きつける。
だが、阿巳蛇は──それをかわした。
屍々子は、思わず喉が鳴る。
「……なっ」
阿巳蛇の本能が、変わり始めていた。
攻撃を受けるたび、畏れに"慣れ"が生じている。
『二秒間の思考停止』は、長く続かない。
威厳とは、無限ではない。
それは、有限であるがゆえに破られる。
阿巳蛇は、迷いを振り払うように距離を詰めた。
「……アタシの、勝ち!!」
勝利を確信した叫び。
だが──その蹴りは、空を切った。
屍々子はすでに読んでいた。
阿巳蛇の踏み込みの癖。
攻めに転じる際の、わずかな間。
両足から空気圧を解放し、後方へ滑るように退く。
それは反射ではない。
積み上げた観測と直感の結果だった。
阿巳蛇の判断は、遅れていた。
限界まで削られた身体。
積もり続けた疲労。
そして、確実に鈍った決断力。
すべてが、今この瞬間に噛み合わなかった。
屍々子は勢いを殺さず、両腕を突き出す。
灰色の妖気が、両手から激しく奔流し、空気を震わせる。
バチバチ、と音を立て周囲の空気が歪んだ。
「……なぁ、阿巳蛇」
その名を呼んだ刹那。
屍々子の両手のひらから、直径一メートルの空気圧が轟音とともに形成される。
"その直径"は、阿巳蛇が手を伸ばすまでもなく、触れられる距離。
「……ここからだったら──」
阿巳蛇は、その瞬間に理解してしまう。
──あ……そっか、あたし──。
視界に映る灰色。
逃げ場のない距離。
そして、自分の身体が、もう応えないこと。
──負けたんだ。
屍々子は、確信をもって言い切った。
「──ぜってえ当たるよなぁ」
空気圧が、解き放たれる。
───ズガガガガガガッ!!
空気の塊は阿巳蛇を呑み込み、そのまま屍々子の左側の壁へ激突した。
壁は耐えきれず砕け散り、圧は貫通し、室内で爆ぜる。
瓦礫と衝撃音が、遅れて空間を満たした。
そして──。
阿巳蛇の妖気が、完全に閉じられた。
その光景を見た瞬間、無兎と鏑は同時に駆け出していた。
もはや、阿巳蛇の命令など関係ない。
屍々子は、その場に踏みとどまる。
痛む身体を、気力だけで支えながら。
だが、戦いは終わっていない。
侵色が始まってから、すでに数分。
籠女は今も、叫びを押し殺すように耐えている。
──クソッ!
その時、屍々子はふと思い出す。
この灰色の能力は、相手の真偽を見抜くことが出来る。
それなら。
阿巳蛇から、侵色を止める方法を聞き出せるはず。
震える脚を無理矢理動かし、倒れた阿巳蛇の方へ踏み出そうとした、その直前。
屍々子の身体から、灰色の妖気が霧のように散った。
時間制限。
「……ウソだろ」
胸の奥に、絶望が一気に流れ込む。
それでもやる事はただ一つ。
屍々子は腹部に意識を集中させる。
だが、いくら妖力を身体中に巡らそうとも、灰色を纏っていた感覚にはならない。
現に、全身から溢れるのは白い妖気だけ。
「なんで……なんで、なんで!!」
焦燥が、思考を焼く。
「クソ、なんで出ない!!」
灰色は、応えない。
「閻魔……お願いだよ。
もう一度……アタシに力を貸せよ……」
声が震える。
絶望が、屍々子を嘲笑う。
「閻魔!!」
叫びは、大通路に虚しく反響した。
その時──。
───コロコロン。
屍々子の足元へ、青緑色の金属が転がってきた。
転がってきた先へ、弾かれるように顔を上げる。
先ほど阿巳蛇が吹き飛ばされた、崩れた壁の向こうに、無兎が立っていた。
無兎は視線を逸らさず、短く告げる。
「……阿巳蛇さんが、それを
屍々子は、迷いなくそれを拾い上げた。
その一瞬の間に、屍々子の胸中を察したのだろう。
無兎は、静かな声で続ける。
「大丈夫……。
それは因喰の効果を打ち消す対抗物。
だから、それがあれば侵色は──」
言葉は、途中で置き去りにされた。
屍々子はすでに、籠女へ向かって走り出していた。
さっきまで震えていた脚の感覚など、もうない。
あるのは、間に合えという焦燥だけ。
滑り込むように籠女のそばへ膝をつく。
「……ちょっとごめんな」
それだけ告げ、籠女の頭を自分の太ももへ引き寄せる。
間を置かず、対抗物をその口元へ押し込んだ。
籠女は、反射的に飲み込んだ。
その瞬間から、痛みが急激に引いていく。
歪んでいた表情が緩み、血の気が戻っていった。
あまりにも、早い。
籠女は呆然としたまま、自分の腹部に手を当て、次に屍々子を見上げた。
そして、痛みから解放された実感とともに、ぽつり。
「屍々子……これ効果ハンパないで」
──切り替えの鬼──
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