第四十八話 闇の第一歩
その赤ん坊は、
みんなを幸せに出来る願いを込めて──。
闇に迷う者たちを救う──皆の希望の美しい光になる存在として。
♦
「それじゃあ、アミダちゃん。みんなに、ありがとうのバイバイしよっか」
三歳の誕生日を迎えてから、五日後。
アミダは孤児院を"卒院"する事になった。
自分の親など知らない。
そもそも、そんな事などその時は考えたこともない──というより。
気づけば、
自分と歳の近い子どもたちに囲まれ、当たり前のように同じ時間を過ごしていた。
それを不思議に思う感覚すら、まだなかった。
だから、この「バイバイ」が何を意味するのかも、分からない。
言われたから、やっているだけ。
目の前で手を振る人たちの、真似事をしてるだけ。
それでも、頭の奥にひとつだけ、妙に残っている言葉がある。
「亜美雫の瞳は、お母さん譲りで綺麗だね。
髪の色は、お父さん譲りの黒だね」
誰から言われたのかは、分からない。
言葉の意味なんて、考えることもしない。
少なくとも、この孤児院で言われた記憶ではない。
「じゃあアミダちゃん。先生とお外に行こうね」
先生と名乗る女に手を引かれ、アミダは何も分からないまま玄関へ向かう。
いつの間にか下駄箱から出されていた靴を履かされ、そのまま外へ。
後ろも振り返らず、外に出た。
外は、よく晴れていた。
春の匂いが、柔らかく鼻をくすぐる。
孤児院の外──広い敷地の芝生の上に、一台の大きな黒い車が停まっていた。
やがて、後部座席のドアが開く。
黒いスーツに身を包んだ若い男が、静かに車から降りた。
男はアミダに気づくと、軽く一礼し、こちらへ歩いてくる。
先生の前で足を止め、「どうも」と短く挨拶を交わした。
二人は何かを話している。
アミダには大人の会話は耳に入らない。
先生が、アミダに声をかけた。
「アミダちゃん。このお兄さんに、よろしくお願いしますって言いなね?」
アミダは言われた通り、言葉を真似した。
「……おぉ……しく、おねない……しぁす」
本人は、ちゃんと言えているつもりだった。
胸の奥で、少し誇らしい気持ちすら芽生えている。
それを見て、男はゆっくりとしゃがみ込み、アミダと目線を合わせた。
柔らかく口角を上げ、にこりと笑う。
「はーい。よろしくお願いします、アミダちゃん」
そう言うと、男はスーツの内側に手を入れ、赤い小さな包みを取り出した。
中から現れたのは、丁寧に包装された一本の棒付き飴。
包装を外しながら、「はい、どーぞ」と言って、アミダの小さな手にそっと握らせる。
黄色い飴だった。
それを見て、先生が声を弾ませる。
「アミダちゃん、よかったねー。ちゃんとお兄さんにありがとって」
だが、アミダが口を開くより先に、男が続けた。
「ねぇアミダちゃん。
その飴ね、すごく美味しいから今食べてもいいよ」
"今食べてもいい"。
その言葉に、アミダの目がぱっと輝く。
この孤児院では、おやつは決まった時間にしか出ない。
突然の「今いいよ」は、特別だった。
「……え! しゅごい美味しいの? これ!」
そう言って、迷いもなく飴を口に入れる。
「ん……」
甘さが舌に広がる。
男は、変わらぬ笑顔でアミダを見つめていた。
「アミダちゃん、美味しい?」
「うん! 美味しい!」
弾む声が、春の空気に混じる。
アミダは、そのまま先生を見上げた。
褒めてほしかったのかもしれない。
けれど──先生は、こちらを見ていなかった。
まるで退屈な用事が早く終わるのを待っているように。
ただ遠くの景色を眺め、時間が過ぎるのを待っているだけだった。
その空気を、幼いなりに肌で感じ取った瞬間。
アミダの意識は、ふっと途切れた。
この時まで、ただ"院の外に出ただけ"だと、アミダはそう思っていた。
"バイバイ"の意味を、
三歳の子どもが理解できるはずもない。
♦
アミダは目を覚ました。
部屋は真っ暗で、知らない匂いがする。
「
小さく声を出すが、返事はなかった。
ベッドから身体を起こす。
アミダは、真っ白の簡単な服を着せられていた。
部屋は暗いままだが、出入り口の扉の下の隙間から、わずかに光が漏れている。
その光が、暗闇に慣れ始めた目に、少しずつ部屋の様子を教えていた。
部屋は、大人が一人で過ごすには狭い。
そして、窓はない。
外につながる隙間も、見当たらなかった。
あるのは、ベッドと小さな机と椅子。
それから、簡易的なシンクだけ。
今のアミダにとっては、どれも大きく感じられる。
アミダは、この部屋が孤児院の中にある、どこかの部屋だと思っていた。
いつもの自分の部屋に戻るつもりで、ベッドを飛び降りる。
そして扉の前まで行くが、ドアノブに手が届かない。
扉を押してみる。
押したまま、左右に引いてみる。
けれど、扉は開かなかった。
「……え」
その瞬間、不安と恐怖が一気に押し寄せる。
アミダは椅子のところまで行き、両手で引っ張った。
だが、三歳の女児の力では、びくともしない。
「ぁ……ああ……」
涙があふれ、視界が滲む。
泣きながらもう一度椅子を引っ張るが、やはり動かなかった。
アミダは、その場にぺたんと座り込み、声を上げて泣いた。
暫くして扉が開き、光が一気に差し込む。
アミダはハッとして、扉の方へ振り返った。
そこに立っていたのは──知らない大人だった。
白衣を着て、眼鏡をかけた男。
アミダは、泣いたままの声で男に尋ねる。
「
男は、その問いに答えながら、ゆっくりとアミダの方へ歩いてくる。
「ごめんね。今日から、違う先生になったんだ。
だから、もうあの先生には会えないんだ」
その言葉を聞いて、アミダは再び泣き出しそうになった、その時。
───ガシ。
右腕を男に掴まれた。
「え……?」
あまりに突然のことで、涙が引っ込む。
何が起きたのか理解する前に、袖が捲られていた。
そして。
───シャク。
右腕の関節の内側あたり。鋭い痛みが走る。
「───あああ!!」
生まれて初めて味わう痛みだった。
何かが刺さっている感覚はあるが、確かめる余裕などない。
アミダは、痛みから逃れようと必死に身体を暴れさせる。
だが、右腕だけは男の手から離れなかった。
もがく拍子に、身体が椅子や机にぶつかる。
打ちつけた痛みや、皮膚が切れる感覚がある。
けれど、それらは右腕の痛みに比べれば、どうでもいいものだった。
「
叫んでも、叫んでも、激痛は引かない。
腹の奥を中心に、熱がじわじわと広がり、身体中を支配していく。
それと同時に、口の中が熱を帯びた。
アミダは幼いなりに気づく。
舌が痛い。
口内を満たす灼熱は、舌そのものだった。
アミダの舌が、ゆっくりと形を変えていく。
そして、追い打ちをかけるように──。
今度は、両目に激痛が走った。
「あああああ!!!」
アミダは左手で目を押さえ、口を押さえ、痛みを感じる場所すべてに手を伸ばす。
押さえても、痛みが和らぐことはない。
それでも左手は、反射的に痛みへ向かって動いてしまう。
この小さな手で抵抗できることは、それしかなかった。
身体が痙攣し、唾液が泡を含んで口元からこぼれる。
やがて、腕に刺さっていたものが引き抜かれ、それと同時に男の手が離れた。
アミダは力なく倒れ込み、その拍子に、男の手に握られていた物が視界に入る。
注射器だった。
激痛が、少しずつ引いていく。
その瞬間、喉の奥から何かが込み上げた。
「──ぐえぇえッ」
アミダはその場で嘔吐した。
今日、孤児院でバイバイする前に、みんなで食べた物が、全部出てきた。
そして、そのまま意識を失った。
その日を境に──。
アミダの地獄が、始まった。
週に五日。
決まって"何か"を、注射器で身体に入れられる。
そのたびに、激痛に叫び、悶え、声が枯れた。
食事は量だけは与えられる。
だが、どれも不味い。
それに、注射の影響ですべて吐き戻してしまうため、食べる意味はなかった。
逃げようとすれば、殴られ、蹴られ、首を絞められる。
それでも不思議なことに。
身体は、日を追うごとに頑丈になっていった。
そして、身体の「質」そのものが、変わり始めていた。
傷つけられても、他人より治りが早い。
食べ物を口に入れると、その鮮度が分かる。
さらに──。
"温度"を、感じ取れるようになった。
アミダは、孤児院から引き取られた──実験体だった。
♦︎
七年の月日が流れた。
アミダは十歳になっていた。
日々繰り返される実験の痛みにも、いつの間にか慣れ、学校へ通う生活を送っている。
その日の帰り道。
人通りの少ない通りを、一人で歩く。
この道を二十分ほど進めば、
表向きは、アミダが幼少期を過ごした孤児院の系列にあたる委託所。
だが裏では、怪異を実験体として扱う施設だった。
それでも、アミダの帰る場所はそこしかない。
今となっては、逃げ出したい気持ちも、死にたいと思うこともなかった。
そう思う余裕すら、もう残っていなかった。
帰り道を歩いていると、背後から声が飛んでくる。
「おい、バケモノ!」
学校の男子だろう。だが、面識のない声。
いつも通りの日常だった。
この白い髪。
蛇のような瞳孔。そして、蛇のような長い舌。
それらが理由で、近所でも学校でも、子どもにも大人にも、毎日白い目で見られてきた。
アミダはバケモノと呼ばれるのが、どうしても嫌だった。
自分は、好きでこうなったわけじゃない。
"理不尽"が、アミダの身体をこう変えただけだ。
それでも、言い返したりはしない。
言い返せば、殴られる。蹴られる。
それを、もう知っている。
アミダにできる、たった一つの抵抗は──。
聞こえないふりをすること。
けれど、そんなことで言葉の刃が止まるはずもなかった。
背後の声が、さらに追い打ちをかける。
「おい、無視すんなよ、バケモノ!!」
その言葉が落ちた瞬間、背中に衝撃が走る。
───ドカッ。
背中を蹴られ、アミダは前のめりに倒れ込んだ。
「……んぐッ」
喉から、思わず声が漏れる。
後ろから、数人分の笑い声。
顔は確認しない。
だって──。
何も見ていないし、何も聞こえていない。
これは、私の不注意で転んだだけ。
ここには、私以外──誰もいない。
そうやって、現実を塗り替えようとするしかない。
だが、背後にいたうちの一人が、アミダの頭上に立った。
見下ろすように、アミダの顔を覗き込む。
「おい、みんな!
このバケモノ泣いてるぞ!
バケモノのくせに、泣く感情あるんだな!」
──これは、涙じゃない。
ただ、たまたま。
目から水が流れているだけ。
そうやって言葉を自分の中でねじ曲げながら、
アミダは必死に、自分を守るしかなかった。
その時。
前方から、鋭く張りのある関西弁の女の声が飛んできた。
「おいアンタら。喧嘩やるんやったら、ウチが相手したんぞ?」
その一言が落ちた瞬間、場の空気がぴたりと止まる。
男たちは振り返り、声の主を認めて息を呑んだ。
その中の一人が、思わず本音を漏らす。
「うわ……厄介なのが来た……」
女はその呟きを聞き逃さなかった。
「はああ??
ホンマに厄介ごとにしたろか?」
一歩、前に出る。
「アンタら、この一週間。覚えといたれよ?」
その言葉に、男たちの顔色が変わる。
誰かが後ずさり、次の瞬間には、全員が我先にと逃げ出していた。
女はその背中を見送り、小さく息を吐く。
「……ホンマ、情けないわ」
それから、ふっと視線を落とす。
「ほんで──」
女は、地面に倒れ込んだままのアミダの前に屈み込む。
そしてその手を、迷いなく握った。
「──アンタ、大丈夫か?」
その手は温かく、強かった。
引き上げられるまま、アミダは立ち上がる。
女はそのまま、アミダの顔をじっと覗き込み、
次の瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「アンタ、えらいべっぴんやな!!」
思いもよらない言葉に、アミダは息を詰まらせる。
「……え」
戸惑うアミダを見て、女は少しだけ照れたように笑った。
「あ、びっくりするわな。ごめんな」
そう前置きしてから、胸に手を当てる。
「ウチは
問いかけられて、アミダは自分でも不思議なくらい、自然に口を開いていた。
「……アミダ」
その名を口にした瞬間──。
胸の奥に、ほんのわずかだが、何かがほどけるのを感じていた。
──たまには、思い出してね──
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