第四十八話 闇の第一歩

その赤ん坊は、亜美雫アミダと名付けられた。

 

みんなを幸せに出来る願いを込めて──。

闇に迷う者たちを救う──皆の希望の美しい光になる存在として。

 

 

 

 

「それじゃあ、アミダちゃん。みんなに、ありがとうのバイバイしよっか」

 

三歳の誕生日を迎えてから、五日後。

アミダは孤児院を"卒院"する事になった。

 

自分の親など知らない。

そもそも、そんな事などその時は考えたこともない──というより。

 

気づけば、孤児院ここにいた。


自分と歳の近い子どもたちに囲まれ、当たり前のように同じ時間を過ごしていた。

それを不思議に思う感覚すら、まだなかった。


だから、この「バイバイ」が何を意味するのかも、分からない。


言われたから、やっているだけ。

目の前で手を振る人たちの、真似事をしてるだけ。


それでも、頭の奥にひとつだけ、妙に残っている言葉がある。


「亜美雫の瞳は、お母さん譲りで綺麗だね。

髪の色は、お父さん譲りの黒だね」

 

誰から言われたのかは、分からない。

言葉の意味なんて、考えることもしない。

 

少なくとも、この孤児院で言われた記憶ではない。

 

「じゃあアミダちゃん。先生とお外に行こうね」

 

先生と名乗る女に手を引かれ、アミダは何も分からないまま玄関へ向かう。


いつの間にか下駄箱から出されていた靴を履かされ、そのまま外へ。


後ろも振り返らず、外に出た。


外は、よく晴れていた。

春の匂いが、柔らかく鼻をくすぐる。


孤児院の外──広い敷地の芝生の上に、一台の大きな黒い車が停まっていた。


やがて、後部座席のドアが開く。

黒いスーツに身を包んだ若い男が、静かに車から降りた。


男はアミダに気づくと、軽く一礼し、こちらへ歩いてくる。

先生の前で足を止め、「どうも」と短く挨拶を交わした。


二人は何かを話している。

アミダには大人の会話は耳に入らない。


先生が、アミダに声をかけた。

 

「アミダちゃん。このお兄さんに、よろしくお願いしますって言いなね?」

 

アミダは言われた通り、言葉を真似した。

 

「……おぉ……しく、おねない……しぁす」


本人は、ちゃんと言えているつもりだった。

胸の奥で、少し誇らしい気持ちすら芽生えている。


それを見て、男はゆっくりとしゃがみ込み、アミダと目線を合わせた。

柔らかく口角を上げ、にこりと笑う。


「はーい。よろしくお願いします、アミダちゃん」


そう言うと、男はスーツの内側に手を入れ、赤い小さな包みを取り出した。

中から現れたのは、丁寧に包装された一本の棒付き飴。


包装を外しながら、「はい、どーぞ」と言って、アミダの小さな手にそっと握らせる。


黄色い飴だった。


それを見て、先生が声を弾ませる。


「アミダちゃん、よかったねー。ちゃんとお兄さんにありがとって」


だが、アミダが口を開くより先に、男が続けた。


「ねぇアミダちゃん。

その飴ね、すごく美味しいから今食べてもいいよ」

 

"今食べてもいい"。


その言葉に、アミダの目がぱっと輝く。


この孤児院では、おやつは決まった時間にしか出ない。

突然の「今いいよ」は、特別だった。


「……え! しゅごい美味しいの? これ!」


そう言って、迷いもなく飴を口に入れる。


「ん……」


甘さが舌に広がる。

男は、変わらぬ笑顔でアミダを見つめていた。


「アミダちゃん、美味しい?」

 

「うん! 美味しい!」


弾む声が、春の空気に混じる。


アミダは、そのまま先生を見上げた。

褒めてほしかったのかもしれない。


けれど──先生は、こちらを見ていなかった。


まるで退屈な用事が早く終わるのを待っているように。

ただ遠くの景色を眺め、時間が過ぎるのを待っているだけだった。


その空気を、幼いなりに肌で感じ取った瞬間。


アミダの意識は、ふっと途切れた。


この時まで、ただ"院の外に出ただけ"だと、アミダはそう思っていた。


"バイバイ"の意味を、

三歳の子どもが理解できるはずもない。





アミダは目を覚ました。

部屋は真っ暗で、知らない匂いがする。

 

先生しぇんしぇ?」


小さく声を出すが、返事はなかった。


ベッドから身体を起こす。

アミダは、真っ白の簡単な服を着せられていた。


部屋は暗いままだが、出入り口の扉の下の隙間から、わずかに光が漏れている。


その光が、暗闇に慣れ始めた目に、少しずつ部屋の様子を教えていた。


部屋は、大人が一人で過ごすには狭い。


そして、窓はない。

外につながる隙間も、見当たらなかった。


あるのは、ベッドと小さな机と椅子。

それから、簡易的なシンクだけ。

今のアミダにとっては、どれも大きく感じられる。


アミダは、この部屋が孤児院の中にある、どこかの部屋だと思っていた。


いつもの自分の部屋に戻るつもりで、ベッドを飛び降りる。

そして扉の前まで行くが、ドアノブに手が届かない。


扉を押してみる。

押したまま、左右に引いてみる。


けれど、扉は開かなかった。


「……え」


その瞬間、不安と恐怖が一気に押し寄せる。


アミダは椅子のところまで行き、両手で引っ張った。

だが、三歳の女児の力では、びくともしない。


「ぁ……ああ……」


涙があふれ、視界が滲む。

泣きながらもう一度椅子を引っ張るが、やはり動かなかった。


アミダは、その場にぺたんと座り込み、声を上げて泣いた。


暫くして扉が開き、光が一気に差し込む。

アミダはハッとして、扉の方へ振り返った。


そこに立っていたのは──知らない大人だった。


白衣を着て、眼鏡をかけた男。

アミダは、泣いたままの声で男に尋ねる。


先生しぇんしぇは……?」


男は、その問いに答えながら、ゆっくりとアミダの方へ歩いてくる。


「ごめんね。今日から、違う先生になったんだ。

だから、もうあの先生には会えないんだ」


その言葉を聞いて、アミダは再び泣き出しそうになった、その時。


───ガシ。

 

右腕を男に掴まれた。

 

「え……?」


あまりに突然のことで、涙が引っ込む。

何が起きたのか理解する前に、袖が捲られていた。


そして。


───シャク。


右腕の関節の内側あたり。鋭い痛みが走る。

 

「───あああ!!」


生まれて初めて味わう痛みだった。

何かが刺さっている感覚はあるが、確かめる余裕などない。


アミダは、痛みから逃れようと必死に身体を暴れさせる。

だが、右腕だけは男の手から離れなかった。


もがく拍子に、身体が椅子や机にぶつかる。

打ちつけた痛みや、皮膚が切れる感覚がある。


けれど、それらは右腕の痛みに比べれば、どうでもいいものだった。


先生しぇんしぇぇ!! 先生しぇんしぇ!!!」


叫んでも、叫んでも、激痛は引かない。


腹の奥を中心に、熱がじわじわと広がり、身体中を支配していく。


それと同時に、口の中が熱を帯びた。

アミダは幼いなりに気づく。


舌が痛い。


口内を満たす灼熱は、舌そのものだった。

アミダの舌が、ゆっくりと形を変えていく。


そして、追い打ちをかけるように──。


今度は、両目に激痛が走った。


「あああああ!!!」


アミダは左手で目を押さえ、口を押さえ、痛みを感じる場所すべてに手を伸ばす。


押さえても、痛みが和らぐことはない。

それでも左手は、反射的に痛みへ向かって動いてしまう。


この小さな手で抵抗できることは、それしかなかった。


身体が痙攣し、唾液が泡を含んで口元からこぼれる。

やがて、腕に刺さっていたものが引き抜かれ、それと同時に男の手が離れた。


アミダは力なく倒れ込み、その拍子に、男の手に握られていた物が視界に入る。


注射器だった。


激痛が、少しずつ引いていく。

その瞬間、喉の奥から何かが込み上げた。


「──ぐえぇえッ」


アミダはその場で嘔吐した。


今日、孤児院でバイバイする前に、みんなで食べた物が、全部出てきた。


そして、そのまま意識を失った。


その日を境に──。

アミダの地獄が、始まった。


週に五日。

決まって"何か"を、注射器で身体に入れられる。


そのたびに、激痛に叫び、悶え、声が枯れた。


食事は量だけは与えられる。

だが、どれも不味い。


それに、注射の影響ですべて吐き戻してしまうため、食べる意味はなかった。


逃げようとすれば、殴られ、蹴られ、首を絞められる。


それでも不思議なことに。

身体は、日を追うごとに頑丈になっていった。


そして、身体の「質」そのものが、変わり始めていた。


傷つけられても、他人より治りが早い。

食べ物を口に入れると、その鮮度が分かる。


さらに──。

"温度"を、感じ取れるようになった。


アミダは、孤児院から引き取られた──実験体だった。



♦︎



七年の月日が流れた。


がいなん区・八番街。


アミダは十歳になっていた。

日々繰り返される実験の痛みにも、いつの間にか慣れ、学校へ通う生活を送っている。


その日の帰り道。

人通りの少ない通りを、一人で歩く。


この道を二十分ほど進めば、施設いえに着く。


表向きは、アミダが幼少期を過ごした孤児院の系列にあたる委託所。

だが裏では、怪異を実験体として扱う施設だった。


それでも、アミダの帰る場所はそこしかない。


今となっては、逃げ出したい気持ちも、死にたいと思うこともなかった。

そう思う余裕すら、もう残っていなかった。


帰り道を歩いていると、背後から声が飛んでくる。


「おい、バケモノ!」


学校の男子だろう。だが、面識のない声。


いつも通りの日常だった。


この白い髪。

蛇のような瞳孔。そして、蛇のような長い舌。


それらが理由で、近所でも学校でも、子どもにも大人にも、毎日白い目で見られてきた。


アミダはバケモノと呼ばれるのが、どうしても嫌だった。


自分は、好きでこうなったわけじゃない。

"理不尽"が、アミダの身体をこう変えただけだ。


それでも、言い返したりはしない。

言い返せば、殴られる。蹴られる。


それを、もう知っている。


アミダにできる、たった一つの抵抗は──。

聞こえないふりをすること。


けれど、そんなことで言葉の刃が止まるはずもなかった。


背後の声が、さらに追い打ちをかける。


「おい、無視すんなよ、バケモノ!!」


その言葉が落ちた瞬間、背中に衝撃が走る。


───ドカッ。


背中を蹴られ、アミダは前のめりに倒れ込んだ。


「……んぐッ」


喉から、思わず声が漏れる。


後ろから、数人分の笑い声。

顔は確認しない。


だって──。

何も見ていないし、何も聞こえていない。


これは、私の不注意で転んだだけ。

ここには、私以外──誰もいない。


そうやって、現実を塗り替えようとするしかない。

だが、背後にいたうちの一人が、アミダの頭上に立った。


見下ろすように、アミダの顔を覗き込む。


「おい、みんな!

このバケモノ泣いてるぞ!

バケモノのくせに、泣く感情あるんだな!」


──これは、涙じゃない。


ただ、たまたま。

目から水が流れているだけ。


そうやって言葉を自分の中でねじ曲げながら、

アミダは必死に、自分を守るしかなかった。


その時。


前方から、鋭く張りのある関西弁の女の声が飛んできた。


「おいアンタら。喧嘩やるんやったら、ウチが相手したんぞ?」


その一言が落ちた瞬間、場の空気がぴたりと止まる。


男たちは振り返り、声の主を認めて息を呑んだ。

その中の一人が、思わず本音を漏らす。


「うわ……厄介なのが来た……」


女はその呟きを聞き逃さなかった。


「はああ??

ホンマに厄介ごとにしたろか?」


一歩、前に出る。


「アンタら、この一週間。覚えといたれよ?」


その言葉に、男たちの顔色が変わる。

誰かが後ずさり、次の瞬間には、全員が我先にと逃げ出していた。


女はその背中を見送り、小さく息を吐く。


「……ホンマ、情けないわ」


それから、ふっと視線を落とす。


「ほんで──」


女は、地面に倒れ込んだままのアミダの前に屈み込む。

そしてその手を、迷いなく握った。


「──アンタ、大丈夫か?」


その手は温かく、強かった。

引き上げられるまま、アミダは立ち上がる。


女はそのまま、アミダの顔をじっと覗き込み、

次の瞬間、ぱっと表情を明るくした。


「アンタ、えらいべっぴんやな!!」


思いもよらない言葉に、アミダは息を詰まらせる。


「……え」


戸惑うアミダを見て、女は少しだけ照れたように笑った。


「あ、びっくりするわな。ごめんな」


そう前置きしてから、胸に手を当てる。


「ウチは籠女かごめ言うんやけど。アンタ、名前は?」


問いかけられて、アミダは自分でも不思議なくらい、自然に口を開いていた。


「……アミダ」


その名を口にした瞬間──。

胸の奥に、ほんのわずかだが、何かがほどけるのを感じていた。




──たまには、思い出してね──

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