第四十五話 閻魔様。お力をお貸しください。

特殊とくしゅ因子いんし調律ちょうりつかく式日しきじつ


通常の因喰いんじきと、大きさも見た目も変わらない因子調律核。


だが、効果は異なる。


通常の因喰は、潜在妖力を前借りする道具。

前借りする分の妖力がなくなった場合に、浸色しんしょくが始まる。


そして、式日用の因喰は、潜在妖力を掻き出し、因子に直接干渉するための道具。


"その因喰"を投入されれば、多く見積もっても二十分未満で浸色が始まる。


それほどまでに、この因喰は通常の因喰と比較しても、型破りだった。



♦︎



籠女かごめの体内で、浸色が開始される少し前──。



無兎むとかぶらは、阿巳蛇あみだが壁を突き破って吹き飛ばされた瞬間、同時に目を見開いた。


血を引きずるようにして、阿巳蛇が倒れている。


「……ありえない」


無兎の口から、思わず言葉が漏れた。

その直後、鏑が弾かれたように前へ踏み出す。


「鏑!」


無兎の声が、鋭く空気を切った。


呼び止められ、鏑は動きを止める。

視線だけを阿巳蛇に向けたまま、唇を歪めた。


「おい無兎ぉ……。止めんなよなぁ」


低く、怒気を押し殺した声。


「阿巳蛇さん、あんなんなってんのにお前は黙ってられんのかよ」


無兎は鏑の方を見ない。

倒れた阿巳蛇から、視線を外さないまま答える。


「阿巳蛇さんは、"ここにいて"って言ったんだ。

だったら、阿巳蛇さんがOKを出すまで、待つしかないだろ」


言葉は冷静だった。

だが、無兎の右目には、先ほど閉じたはずの緑の光が、自然と走っていた。


無兎だって理解している。

今すぐ、この場にいる"敵"を排除したい。


だが──阿巳蛇はまだ命じていない。


ミズト側の連中を、"殺せ"とは。


勝手な行動は取れない。

そして何より、阿巳蛇の指示は、これまで一度も間違ったことがなかった。


信じる。

今は、それしかできない。


その時だった。


籠女が、悲鳴を上げながら崩れ落ちた。


腹を押さえ、耐え切れず倒れるその姿を、無兎と鏑は並んで見ていた。


「鏑……大丈夫。

ミズト側の選択肢は──」


二人にとって、その光景は。

あまりにも日常だった。


「──なくなった」



♦︎



籠女の体内で、浸色が開始される数秒前──。



式日用の因喰を、籠女の体内に投入されてから、すでに四十分近くが経過していた。


五。


屍々子と阿巳蛇の死闘は、ここからでは見えない。

聞こえてくるのは、衝突音と破壊音だけ。


籠女は、ただ祈るしかなかった。

気づけば、無意識のうちに両手を合わせている。


──屍々子ししこ


四。


その時。

背後、数メートル先から、鈍く重い衝撃音が響く。


三。


反射的に振り返った、その先。


壁が砕け、卓と椅子と瓦礫を巻き込みながら、

一つの影が大通路へと叩き出される。


阿巳蛇だった。


二。


全身から血を流しながら転がるその姿と、ほんの一瞬だけ、視線が重なる。


その一拍の静止。


阿巳蛇は、こちらを見て──。


一。



笑っていた。



最悪の幕開けが、開始した。



♦︎



「あああああ──」


腹部の奥、"手の届かない場所"が焼けつくようだ。


それは肉体の損傷による痛みではなかった。

それでも、身体は確かに悲鳴を上げている。


息はできる。

意識もはっきりしている。


だが、それが──救いにならない。


これまでに経験してきた痛みとは、質が違った。

筋肉も、骨も、神経も、説明がつかない。


身体の生理機能に、逃げ場がない。

痛みで意識を失えることが、これほどまでに幸福だと知る。


あまりの激痛に、本能が"生きること"そのものを拒絶していた。


視界の端が揺れ、

気づけば、あかね美鈴みすずを抱えたまま駆け寄ってきていた。


籠女は、願ってしまっていた。

気づいた時には、その願いは言葉になっていた。


「──殺して」


掠れ、震え、かろうじて形を保った声。


茜は勢いのまま膝をつき、うつ伏せに倒れる籠女の手を、強く握る。


「籠女!」


異質な"匂い"は、感じ取れない。


だからこそ、茜には──。

ただ、その手を握り続けることしかできなかった。


そして、籠女はもう一度口を開く。


「……茜さん。ウチを……殺して」


聞き間違いではない。

懇願でも、錯乱でもない。


籠女は、同じ言葉を、確かに二度言った。


これは、始まりにすぎない。


痛みは。

今、ようやく動き出したところだった。



♦︎



籠女の叫びが耳に届いた時、思考が一瞬白くなりかけた。


「……クソッ」


吐き捨てるように呟くと同時に、屍々子は反射的に動いていた。

破壊された壁の方向へ空気圧を放ち、その反動で跳躍する。


進行方向には、阿巳蛇が倒れている。


妖気が感じられない。

そして、意識があるのかは、この距離からでは分からない。


だが、今はそれどころじゃない。


最優先は籠女だ。

最短で辿り着ける道は、そこしかなかった。


跳躍の最中も、籠女の声が耳を打つ。

必死に叫びを押し殺そうとする、切羽詰まった声。


胸の奥がざわつき、顔が無意識に歪む。


分からない。


今、籠女のもとへ行ったところで、自分に何が出来る?

止めることも、代わることも、救うことも出来ない。


それでも。

身体は、言うことを聞かなかった。


屍々子のその判断は、冷静さを欠いた明確なミスだった。


倒れている阿巳蛇の上を、

そのまま飛び越えようとした、その時。


───ガシュ。


左足首に、硬い感触。


「──ッ!?」


阿巳蛇が、屍々子の左足首を掴んでいた。

血に塗れたその顔で、静かにこちらを見上げている。


「お前……阿巳──」


───ズダンッ!


足首ごと引きずり落とされ、屍々子は瓦礫の山へ顔面から叩きつけられた。


「が……ぁ……」


鈍い衝撃が頭から背中へと抜け、全身を痛みが駆け巡る。


思考が、一気に削られる。

それでも反射的に、両足から空気圧を放とうと意識した。


「邪魔しないで」


頭上から落ちてきたのは、低く、冷え切った声だった。


続いて──鈍痛。


───ドッ。


阿巳蛇はすでに立ち上がっていた。

そのまま屍々子の右脇腹へ、深く、容赦なく蹴り込む。


ガシャン、と破壊音が響き、瓦礫と破片が宙を舞う。

屍々子の身体もまた、放り投げられるように空中へ弾き上げられた。


その最中。

阿巳蛇の背後から、鋭い声が突き刺さった。


「阿巳蛇!!」


茜だった。

屍々子から注意を逸らさせるためだけに放たれた、覚悟の叫び。


阿巳蛇が振り向く。

その動きに呼応するように、黄色い妖気が噴き出した直後──


すでに茜の懐へ──阿巳蛇はいた。


「キミも──」


阿巳蛇の左拳が、右へ振り抜かれる。


───ズンッ。


「──邪魔しないで」


茜の身体は、そのまま壁へと叩きつけられた。


衝撃で壁に大きな亀裂が走り、先ほど屍々子が穿った破壊跡と繋がるように、背後の壁が崩れ落ちる。



屍々子はまだ、宙にいた。


茜が沈み、壁が崩れるまでの間、屍々子の身体は落下すら始めていない。

それほどの速度で事態は進んでいた。


ようやく、大通路の光景が視界に流れ込む。


空中を落ちながら捉えたその光景は、確実に、心を削った。


「……ッ」


美鈴。

茜。

そして、籠女。


全員が横たわっている。


守れなかった──。


正当化も出来ない。

言い訳にも程遠い。


それは、屍々子の中で認めざる負えない。

自分に守れる力が足りなかった。


だが。


──だからと言って。


「ここまで来て、退けるかよ!!」


その感情に呼応したのか。

あるいは、もともと潜んでいたものが露わになったのか。


落下していく身体の内側で、屍々子の中の"奥"。


さらに深く、"この怪異界では誰も辿り着いた事のない概念"が、また顔を出した。


本人は、まだ気づいていない。


だがそれは、概念としてはすでに屍々子の中に、確かに存在していた。


意味も知らぬまま、その言葉が口からこぼれ落ちる。


「おい、閻魔えんま──」


"色"は──ゆっくりと反転し始めた。


「──アタシに力を貸せ!!」


阿巳蛇が、うつ伏せのまま落下していく屍々子へ、一息で迫った。


距離は、一瞬で潰れる。


伸びる右脚。

狙いは正確で、迷いはない。


屍々子は、そのまま右手に空気を圧縮させた。


バチリ、と。

白い妖気を纏う右手の内側を、雷の走り跡のように、一瞬だけ細く歪な"黒い線"が走る。


同時に、右手が急激な熱を帯びる。

灼けるような感覚が手のひらに集中し──


瞬時に一メートルほどの空気圧が膨れ上がった。


圧縮された空気が、妖気を巻き込み形を成す。

そのまま、阿巳蛇の右脚ごと叩きつけるように放つ。


蹴りが届く寸手──。


───バヒュンッ!!


裂けるような衝撃音。

空気圧が弾け、二人の間を引き裂く。


屍々子と阿巳蛇は、それぞれ数メートル、正反対の方向へ吹き飛ばされた。


屍々子は床を転がり、反射的に受け身を取る。

片膝をつき、すぐに体勢を立て直し立ち上がった。


向かいでは、阿巳蛇も片膝をついていた。

右脚には、先ほどよりも深い傷が刻まれ、血が流れ落ちている。


───バチリ。


屍々子の全身から、灰色の妖気が弾ける。

濁りを含んだその気配が、空間を静かに圧する。


"概念"は──顕現した。


「どけろ、閻魔様のお通りだ」



──次回、決着──

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