第四十四話 最悪はいつだって

「言っただろ? 万倍にしてやっからって」

 

 

 


屍々子ししこが、妖気を纏わせた空気圧をこの部屋中に仕込む──


その、ほんの少し前のこと。


顔面を片手で鷲掴みにされ、そのまま後方の壁へ叩きつけられた瞬間。

視界を覆っていた黒が、弾けるように白へと反転した。


脳が揺さぶられ、思考が浮き上がる。

意識が、ふっと遠のきかける。


だが、それだけでは終わらない。

阿巳蛇あみだの渾身の拳が、容赦なく腹部へと突き込まれた。


そこで──本来なら。

意識は完全に断ち切られていたはずだった。


腹部を貫いた衝撃は、そのまま背中へと抜け、

壁が音を立てて粉砕される。


砕けた壁を突き破る。

その先にあった部屋の卓や椅子を巻き込みながら、屍々子の身体は、部屋の中央まで叩き込まれた。


卓にぶつかり、椅子に弾かれる。

その一つひとつが、遅れて痛みとして意識を引き戻す。


──ヤバ……息出来ねぇ。


肺が動かない。

息を吸おうとしても、空気が入ってこない。


それでも、何とか。

ほんの微量ずつ、喉を通して空気を送り込む。


身体の中を支配しているのは、痛みだけだった。


神経が悲鳴を上げ、脳へ届く信号は、すべてが「痛い」という一語に圧縮される。


次の一手を考えようとしても。

阿巳蛇の出方を読もうとしても。


思考が、根こそぎ削られていく。


だが、そんなのは"自分の都合"。

"理不尽"は待ってくれない。

 

──腹ばっか狙ってんじゃねぇよアイツ。

 

思わず愚痴が出る。

 

そして焦り。

阿巳蛇に勝てるかどうかよりも、籠女かごめの体内にある因喰のタイムリミットによる焦り。


屍々子は、ふと気づく。


暗い。


部屋の中は、完全な闇ではない。

壁がぶち抜かれたことで、かろうじて光が差し込んではいる。


だが──。

次に取る行動には、この程度の暗さで十分だった。


そして、屍々子は阿巳蛇の言葉を思い出す。

 

 

妖力で作った能力は、"全部に温度がある"。

 

 

妖気は視認出来るもの。

そして空気圧も視認出来るもの。

 

それらは、自分の"能力"であり、自身の"意図して使用可能な身体の一部"でもある。

 

だが、空気圧は屍々子の能力によって形を得ただけの質量であり、妖力本来から練り上げたものではない。

 

それなら──。

妖気を、そのまま空気圧の中に閉じ込めてしまえばいい。

 

閉じ込められた妖気は逃げ場を失い、"そのままの濃度で居座る"。

 

──やってみっか。

 

屍々子のこの閃きが、阿巳蛇を攻略する一手となる。

 

屍々子は、無理やり身体を起こし立ち上がった。

肺が軋み、全身が悲鳴を上げる。


妖気を閉じていた右手に、妖力を通わせる。

そのまま、流れるように両手を向かい合わせる。

 

手のひらから漏れ出す妖気を包み込むように。

 

すると。

向かい合った掌の中心で、空間そのものが膨らむ。

妖気を内包した空気圧が、ゆっくりと具現化されていく。


妖気は空気圧と交わり、纏いながら──。

直径二十センチほどの、球状の空気圧が出来上がった。


かつて、廃神社で思いつきのまま放った空気圧。

あれは、美鈴との特訓を経て、確実に練度を増している。


屍々子自身は気づいていなかったが、

完成した空気圧には、想定していた量を遥かに超える妖気が纏っていた。


だが、そのおかげで、この空気圧を囮に使えた結果だった。

 

その時。

ぶち抜かれた壁の外──粉塵で姿は見えないが、黄色の揺らめきが見えた。

 

阿巳蛇が来る──。


屍々子は、出来上がった空気圧をそのまま足元へ落とした。


両手のひらだけに妖気を残し、そのまま部屋の中を駆ける。


同じ要領で、次々と空気圧を作る。

妖気を纏わせ、部屋の各所へと放っていく。


卓の影。

壁際。

天井。

崩れた瓦礫の裏。


見えない場所に、確実に"仕掛け"を残しながら。

 

 

 

 

四方八方から現れた妖気を纏った空気圧が、一斉に阿巳蛇へと解き放たれた。

 


阿巳蛇は瞬時に視線を走らせ、屍々子の位置を探る。


──"温度"が……定まらない。


妖気を纏った空気圧が、阿巳蛇を惑わす。

読み取れるはずの情報が、重なり、揺れ、意味を失っていく。


その刹那。

足元で気配が跳ねた。

 

───ボンッ。

 

低く、鈍い爆発音。


阿巳蛇の足元で弾けたのは──。

屍々子が囮として、最初に仕掛けていた空気圧だった。


部屋中から迫る無数の圧に意識を奪われ、

"最初に見つけていたはずのそれ"を、完全に失念していた。


「──ッ!」


重心が、わずかに浮く。


致命的な隙。

ここから動くタイミングを見失った阿巳蛇は──罠に掛かった獲物

 

───ズガガガガガガッ!!


連続する衝撃。

妖気を纏った空気圧が、次々と阿巳蛇へ叩き込まれる。


轟音が部屋を揺らし、瓦礫と粉塵が巻き上がる。

部屋中に粉塵越しの白い光が弾ける。


阿巳蛇が今できることは、ひとつだけ。


防御の構えを解かず、

ひたすら、その衝撃に耐えること。


皮膚が裂け、身体のあちこちに傷が走る。

血が、衝撃とともに弾け飛ぶ。


周囲に散乱していた瓦礫や破片までもが巻き上げられ、それらすらも阿巳蛇への攻撃になっていた。



轟音の向こう側で。

籠女かごめあかね無兎むとかぶらの四人は、ただ息を詰め待つのみ。


この場は、屍々子と阿巳蛇のためだけに用意された、純粋な闘争の空間になっていた。



阿巳蛇へと放たれていた空気圧は、やがて尽きた。


爆音が遠のき、残ったのは。

瓦礫の崩れる音と粉塵が落ちていく微かな気配だけ。

 

「……痛い」


阿巳蛇はうつむいたまま、呟いた。

それは声と呼ぶにはあまりに小さい。

誰かに聞かせるつもりのない、独り言。


全身から、血が滴り落ちる。


一つ、また一つと傷が増えるたび、

皮膚が裂け、熱が走り、血が流れるたびに──思い出す。

 

「痛い、痛い……」


過去の痛み。

逃げ場のなかった日々。

殴られ、壊され、否定され続けた記憶。


それらは癒えることなく、今も阿巳蛇の内側で蠢いている。


その因果が阿巳蛇に降りかかり、"呪い"として相手に"理不尽"を与える動機に変わる。

 

「いたい」


呟きは、祈りでも弱音でもない。


阿巳蛇の心の傷は埋まらない、"自分が怪異界を支配する"までは。


因喰は、そのために──。




濃く漂う粉塵の中。

屍々子も、阿巳蛇も、互いの姿を視認できていなかった。


だが屍々子には『直感』がある。


万能ではない。

ある程度、相手の動きが予測できるのなら、それは"攻め"に転換出来る。


これ以上、屍々子に策はない。

だから──攻める。


──もう、戦い方は理解わかった。


両手の妖気を完全に閉じ、そして前方十数メートル先。

粉塵が濃く、何も見えない空間へと意識を定めた。


───ギュォン。


両足に溜めた空気圧を一気に解放し、

屍々子の身体が弾き出されるように飛び出す。


倒れた卓の縁を掠める。

散乱した椅子の脚を紙一重で跳び越えながら、

一直線に、闇の奥へ。


次の瞬間──

粉塵を突き破り、黄色の光が弾け出る。


屍々子を迎え撃つように、阿巳蛇が迫ってきた。


屍々子は『直感』で読む。

阿巳蛇は『温度』で捉える。


視界の利かないこの暗がりでは、

阿巳蛇に許された手段は、温度を感知して動きを追うことだけ。


そして、阿巳蛇の速度は本来圧倒的だ。

だが、この地形ではその速さが足枷になる。


でも阿巳蛇にはお構いなし。


黄色い光が、屍々子の視界左側で弾け、阿巳蛇の姿が一瞬で消えた。


「……ッ!」


───ガシャンッ!


瓦礫と卓が蹴散らされ、破壊音が暗がりに弾ける。

阿巳蛇は、屍々子の死角へ回り込もうとしていた。


その動きは隠しきれていない。

跳ね上がった瓦礫が、進路を雄弁に語っていた。


屍々子は、その軌跡を目で追う。


宙にあった足を着地させる。

着地の反動を殺さぬまま、阿巳蛇の方向へ体勢を切り返す。


その瞬間──視界の端から、椅子が飛来した。


「──マジかよ!」


屍々子は反射的に左手へ妖力を流し、椅子めがけて空気圧を放つ。


───バキンッ。


乾いた破砕音。

椅子は歪に砕け、木片が宙に散る。


だが、その破片の隙間を縫うように、黄色の光が迫ってきた。


その椅子は囮──。


理解した時には、すでに距離は詰められている。


阿巳蛇が右拳を構える。

圧倒的速度で、屍々子の懐へ踏み込んでくる。


──クソ速ぇ。けどな。


空気が、阿巳蛇の一手を屍々子に伝う。


「アタシのブン殴りの方が──」


屍々子は瞬時に右手へ妖力を通す。

振りかぶる動作と同時に、空気圧を解放する。


───ボンッ!


圧縮された空気が弾け、踏み込みの速度そのものを叩き返す。


「──もっと速ぇんだよ!!」


その速度は、阿巳蛇の想定を超えていた。


───ズダン!!


屍々子の右拳が、阿巳蛇の左顔面を正面から撃ち抜く。


衝撃は一点に留まらない。

阿巳蛇の身体はそのまま後方へ弾き飛ばされる。


背後に積み重なっていた瓦礫、卓、椅子をまとめて薙ぎ倒しながら、止まることなく流れていく。


次の瞬間。


───バギャンッ!!


壁が、爆ぜた。


瓦礫と家具を巻き込み、大通路へと叩き出される阿巳蛇の姿。


破壊された壁の向こうから、通路の光が一気に流れ込み、暗がりにいた屍々子の身体を白く照らした。


屍々子は、殴り抜いた右手をゆっくりと引き戻す。

その視線が、ふと足元へ落ちた。


──ん? これって……。


光が差し込んだ事により、それは確認できた。


無数に転がる、歪んだ金属片。

床一面に散乱するそれらは、すべて因喰だった。


そして、"最悪"が幕を開ける。


籠女のタイムリミットが──越えた。


「──っ!?」


腹部の奥から、突き上げるような熱。

次いで、内側を引き裂くような激痛が走る。


「……あ……ああ……っ」


籠女は、声にならない声を漏らし、その場に崩れ落ちた。

受け身を取る余裕すらなく、床へと叩きつけられる。


その異変を捉え、茜が瞬時に動いた。

美鈴を抱き寄せたまま、籠女のもとへ駆け出す。


「──籠女!!」


痛みは容赦しない。

逃げ場など、どこにもない。


「あああああ────」


叫ぶことしかできない。


その悲鳴が、崩れた壁越しに響いた瞬間。

屍々子の脳裏に──叩きつけられるように、絶望が走った。



──最悪は突然に──

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