第四十四話 最悪はいつだって
「言っただろ? 万倍にしてやっからって」
♦
その、ほんの少し前のこと。
顔面を片手で鷲掴みにされ、そのまま後方の壁へ叩きつけられた瞬間。
視界を覆っていた黒が、弾けるように白へと反転した。
脳が揺さぶられ、思考が浮き上がる。
意識が、ふっと遠のきかける。
だが、それだけでは終わらない。
そこで──本来なら。
意識は完全に断ち切られていたはずだった。
腹部を貫いた衝撃は、そのまま背中へと抜け、
壁が音を立てて粉砕される。
砕けた壁を突き破る。
その先にあった部屋の卓や椅子を巻き込みながら、屍々子の身体は、部屋の中央まで叩き込まれた。
卓にぶつかり、椅子に弾かれる。
その一つひとつが、遅れて痛みとして意識を引き戻す。
──ヤバ……息出来ねぇ。
肺が動かない。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。
それでも、何とか。
ほんの微量ずつ、喉を通して空気を送り込む。
身体の中を支配しているのは、痛みだけだった。
神経が悲鳴を上げ、脳へ届く信号は、すべてが「痛い」という一語に圧縮される。
次の一手を考えようとしても。
阿巳蛇の出方を読もうとしても。
思考が、根こそぎ削られていく。
だが、そんなのは"自分の都合"。
"理不尽"は待ってくれない。
──腹ばっか狙ってんじゃねぇよアイツ。
思わず愚痴が出る。
そして焦り。
阿巳蛇に勝てるかどうかよりも、
屍々子は、ふと気づく。
暗い。
部屋の中は、完全な闇ではない。
壁がぶち抜かれたことで、かろうじて光が差し込んではいる。
だが──。
次に取る行動には、この程度の暗さで十分だった。
そして、屍々子は阿巳蛇の言葉を思い出す。
妖力で作った能力は、"全部に温度がある"。
妖気は視認出来るもの。
そして空気圧も視認出来るもの。
それらは、自分の"能力"であり、自身の"意図して使用可能な身体の一部"でもある。
だが、空気圧は屍々子の能力によって形を得ただけの質量であり、妖力本来から練り上げたものではない。
それなら──。
妖気を、そのまま空気圧の中に閉じ込めてしまえばいい。
閉じ込められた妖気は逃げ場を失い、"そのままの濃度で居座る"。
──やってみっか。
屍々子のこの閃きが、阿巳蛇を攻略する一手となる。
屍々子は、無理やり身体を起こし立ち上がった。
肺が軋み、全身が悲鳴を上げる。
妖気を閉じていた右手に、妖力を通わせる。
そのまま、流れるように両手を向かい合わせる。
手のひらから漏れ出す妖気を包み込むように。
すると。
向かい合った掌の中心で、空間そのものが膨らむ。
妖気を内包した空気圧が、ゆっくりと具現化されていく。
妖気は空気圧と交わり、纏いながら──。
直径二十センチほどの、球状の空気圧が出来上がった。
かつて、廃神社で思いつきのまま放った空気圧。
あれは、美鈴との特訓を経て、確実に練度を増している。
屍々子自身は気づいていなかったが、
完成した空気圧には、想定していた量を遥かに超える妖気が纏っていた。
だが、そのおかげで、この空気圧を囮に使えた結果だった。
その時。
ぶち抜かれた壁の外──粉塵で姿は見えないが、黄色の揺らめきが見えた。
阿巳蛇が来る──。
屍々子は、出来上がった空気圧をそのまま足元へ落とした。
両手のひらだけに妖気を残し、そのまま部屋の中を駆ける。
同じ要領で、次々と空気圧を作る。
妖気を纏わせ、部屋の各所へと放っていく。
卓の影。
壁際。
天井。
崩れた瓦礫の裏。
見えない場所に、確実に"仕掛け"を残しながら。
♦
四方八方から現れた妖気を纏った空気圧が、一斉に阿巳蛇へと解き放たれた。
阿巳蛇は瞬時に視線を走らせ、屍々子の位置を探る。
──"温度"が……定まらない。
妖気を纏った空気圧が、阿巳蛇を惑わす。
読み取れるはずの情報が、重なり、揺れ、意味を失っていく。
その刹那。
足元で気配が跳ねた。
───ボンッ。
低く、鈍い爆発音。
阿巳蛇の足元で弾けたのは──。
屍々子が囮として、最初に仕掛けていた空気圧だった。
部屋中から迫る無数の圧に意識を奪われ、
"最初に見つけていたはずのそれ"を、完全に失念していた。
「──ッ!」
重心が、わずかに浮く。
致命的な隙。
ここから動くタイミングを見失った阿巳蛇は──罠に掛かった
───ズガガガガガガッ!!
連続する衝撃。
妖気を纏った空気圧が、次々と阿巳蛇へ叩き込まれる。
轟音が部屋を揺らし、瓦礫と粉塵が巻き上がる。
部屋中に粉塵越しの白い光が弾ける。
阿巳蛇が今できることは、ひとつだけ。
防御の構えを解かず、
ひたすら、その衝撃に耐えること。
皮膚が裂け、身体のあちこちに傷が走る。
血が、衝撃とともに弾け飛ぶ。
周囲に散乱していた瓦礫や破片までもが巻き上げられ、それらすらも阿巳蛇への攻撃になっていた。
轟音の向こう側で。
この場は、屍々子と阿巳蛇のためだけに用意された、純粋な闘争の空間になっていた。
阿巳蛇へと放たれていた空気圧は、やがて尽きた。
爆音が遠のき、残ったのは。
瓦礫の崩れる音と粉塵が落ちていく微かな気配だけ。
「……痛い」
阿巳蛇は
それは声と呼ぶにはあまりに小さい。
誰かに聞かせるつもりのない、独り言。
全身から、血が滴り落ちる。
一つ、また一つと傷が増えるたび、
皮膚が裂け、熱が走り、血が流れるたびに──思い出す。
「痛い、痛い……」
過去の痛み。
逃げ場のなかった日々。
殴られ、壊され、否定され続けた記憶。
それらは癒えることなく、今も阿巳蛇の内側で蠢いている。
その因果が阿巳蛇に降りかかり、"呪い"として相手に"理不尽"を与える動機に変わる。
「いたい」
呟きは、祈りでも弱音でもない。
阿巳蛇の心の傷は埋まらない、"自分が怪異界を支配する"までは。
因喰は、そのために──。
濃く漂う粉塵の中。
屍々子も、阿巳蛇も、互いの姿を視認できていなかった。
だが屍々子には『直感』がある。
万能ではない。
ある程度、相手の動きが予測できるのなら、それは"攻め"に転換出来る。
これ以上、屍々子に策はない。
だから──攻める。
──もう、戦い方は
両手の妖気を完全に閉じ、そして前方十数メートル先。
粉塵が濃く、何も見えない空間へと意識を定めた。
───ギュォン。
両足に溜めた空気圧を一気に解放し、
屍々子の身体が弾き出されるように飛び出す。
倒れた卓の縁を掠める。
散乱した椅子の脚を紙一重で跳び越えながら、
一直線に、闇の奥へ。
次の瞬間──
粉塵を突き破り、黄色の光が弾け出る。
屍々子を迎え撃つように、阿巳蛇が迫ってきた。
屍々子は『直感』で読む。
阿巳蛇は『温度』で捉える。
視界の利かないこの暗がりでは、
阿巳蛇に許された手段は、温度を感知して動きを追うことだけ。
そして、阿巳蛇の速度は本来圧倒的だ。
だが、この地形ではその速さが足枷になる。
でも阿巳蛇にはお構いなし。
黄色い光が、屍々子の視界左側で弾け、阿巳蛇の姿が一瞬で消えた。
「……ッ!」
───ガシャンッ!
瓦礫と卓が蹴散らされ、破壊音が暗がりに弾ける。
阿巳蛇は、屍々子の死角へ回り込もうとしていた。
その動きは隠しきれていない。
跳ね上がった瓦礫が、進路を雄弁に語っていた。
屍々子は、その軌跡を目で追う。
宙にあった足を着地させる。
着地の反動を殺さぬまま、阿巳蛇の方向へ体勢を切り返す。
その瞬間──視界の端から、椅子が飛来した。
「──マジかよ!」
屍々子は反射的に左手へ妖力を流し、椅子めがけて空気圧を放つ。
───バキンッ。
乾いた破砕音。
椅子は歪に砕け、木片が宙に散る。
だが、その破片の隙間を縫うように、黄色の光が迫ってきた。
その椅子は囮──。
理解した時には、すでに距離は詰められている。
阿巳蛇が右拳を構える。
圧倒的速度で、屍々子の懐へ踏み込んでくる。
──クソ速ぇ。けどな。
空気が、阿巳蛇の一手を屍々子に伝う。
「アタシのブン殴りの方が──」
屍々子は瞬時に右手へ妖力を通す。
振りかぶる動作と同時に、空気圧を解放する。
───ボンッ!
圧縮された空気が弾け、踏み込みの速度そのものを叩き返す。
「──もっと速ぇんだよ!!」
その速度は、阿巳蛇の想定を超えていた。
───ズダン!!
屍々子の右拳が、阿巳蛇の左顔面を正面から撃ち抜く。
衝撃は一点に留まらない。
阿巳蛇の身体はそのまま後方へ弾き飛ばされる。
背後に積み重なっていた瓦礫、卓、椅子をまとめて薙ぎ倒しながら、止まることなく流れていく。
次の瞬間。
───バギャンッ!!
壁が、爆ぜた。
瓦礫と家具を巻き込み、大通路へと叩き出される阿巳蛇の姿。
破壊された壁の向こうから、通路の光が一気に流れ込み、暗がりにいた屍々子の身体を白く照らした。
屍々子は、殴り抜いた右手をゆっくりと引き戻す。
その視線が、ふと足元へ落ちた。
──ん? これって……。
光が差し込んだ事により、それは確認できた。
無数に転がる、歪んだ金属片。
床一面に散乱するそれらは、すべて因喰だった。
そして、"最悪"が幕を開ける。
籠女のタイムリミットが──越えた。
「──っ!?」
腹部の奥から、突き上げるような熱。
次いで、内側を引き裂くような激痛が走る。
「……あ……ああ……っ」
籠女は、声にならない声を漏らし、その場に崩れ落ちた。
受け身を取る余裕すらなく、床へと叩きつけられる。
その異変を捉え、茜が瞬時に動いた。
美鈴を抱き寄せたまま、籠女のもとへ駆け出す。
「──籠女!!」
痛みは容赦しない。
逃げ場など、どこにもない。
「あああああ────」
叫ぶことしかできない。
その悲鳴が、崩れた壁越しに響いた瞬間。
屍々子の脳裏に──叩きつけられるように、絶望が走った。
──最悪は突然に──
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