第四十三話 万倍にしてやっから

いつぶりだろうか。

殴られる痛みを、はっきりと感じたのは。


思えば、あの子たちを引き連れるようになって、もう三年になる。

その間、こんな痛みとは無縁だった。


忘れていた、と言っていい。


だが、その一撃のおかげで、思い出してしまった。


物心ついた頃から、殴られ、蹴られ、無理やり言うことを聞かされてきた。


この白い髪も、遠い記憶の彼方で、本当は違う色だったような気がする。


気づけば、ある日突然白くなっていて。

そのことに驚いたような、驚くことすらどうでもよかったような、曖昧な感覚だけが残っている。


そして、この瞳も──自分の物だけど、自分の物じゃない。

 

 


阿巳蛇あみだは、ゆっくりと立ち上がりながら、屍々子ししこへ声を投げた。


「……ねぇ、キミ」


屍々子は首も傾けず、ただ無言で阿巳蛇を見つめ返す。


阿巳蛇は、その視線を受け止めたまま、わずかに口元を緩めた。

微笑みと呼ぶには、どこか脆い表情。


「あたしが、バケモノに見える?」

 

その言葉に、籠女かごめは思いだす。


──まだ執着しとるんか、その"呪い"を。

 

バケモノ。


それは、阿巳蛇がミズト邸を出ていく直前まで、浴びせられ続けていた蔑称だった。


蛇のような瞳孔。

蛇のように長い舌。


籠女が阿巳蛇と初めて出会った時から、周囲は彼女をそう呼んでいた。


籠女自身は、そのどこも気にしていなかった。

異様だとも、忌むべきだとも、思わなかった。


だが、ある日。

阿巳蛇は自らの手で、自分の舌を切り落とした。


それでも足りなかったのか、終いには、自分の両目を潰そうとした。


それほどまでに。

その名前は、阿巳蛇にとって──逃れられない呪いだった。


屍々子は、阿巳蛇のその突拍子もない問いを受け、ほんの一瞬だけ沈黙した。


間を置いてから、逃げも飾りもない声音で、きっぱりと言葉を落とす。


「そうだな、見える──」


その答えを聞いても、阿巳蛇の胸は揺れなかった。

同じ言葉を投げてきた者たちは、皆──この力を得てから、すでに殺してきた。


阿巳蛇には関係なかった。


自分で投げかけた問いの返事であろうと、そこに"呪い"を想起させるものがあるのなら、叩き潰す。それだけだ。


阿巳蛇は、理不尽を理不尽だとは思わない。

与えられる理不尽も、押しつける理不尽も、全てねじ伏せてしまえばいいから。

 

だが、屍々子の言葉は、阿巳蛇の外見に向けられたものではなかった。


「──お前のやってることが」


その一言で、阿巳蛇の眉が、わずかに動く。


屍々子は、視線を逸らさず、そのまま言葉を重ねた。

 

「やってることだけじゃない。

思想も、言ってることも、そして強さも全部バケモン」

 

鋭く、真っ直ぐに見据える。

 

「でもアタシには関係ない。

お前のその"バケモン"は全部ブッ飛ばして、籠女ん中の因喰を取る」


阿巳蛇の自信に、屍々子は自分の確信で応えた。


その言葉を受け、籠女とあかね無兎むとは、ほとんど同時に内心で声を漏らす。


──え、クサくない?


胸の奥がむず痒くなるような、正面突破の言葉。

場の緊張とは別の意味で、空気が一瞬だけ揺れた。


だが、かぶらだけは違った。


──か、かっけえ……。


敵であるはずの屍々子へ、思わず視線を向け、目を輝かせていた。


そんな反応など知ってか知らずか。

阿巳蛇は、屍々子の言葉を聞いて、小さく喉を鳴らす。


「ふふ……クサくて、面白いね」


「はぁ!? "お前が"それ言うのかよ!」


即座に噛みつく屍々子をよそに、阿巳蛇はふっと視線を落とし、独り言のように呟いた。


「……気に入らない」


屍々子の眉が、怪訝そうに寄る。


「……は?」


その瞬間だった。

空気が、重く落ちた。


たった一言。

だが、その呟きは、明確な"殺気"としてこの場に叩きつけられた。


びりびりと、肌を刃で撫でられるような感覚。

呼吸をするだけで、身を削られる。


阿巳蛇は顔を上げ、静かに告げる。


「その自信、潰したくなっちゃった」


口元が、愉しげに歪む。


「潰して、壊したい。徹底的に」


黄色の妖気が、殺気に呼応するように弾け、空間を震わせた。


屍々子は、一歩も引かずに言い返す。


「やってみろよ──」


唇の端を吊り上げ、挑発する。


「──万倍にして、返してやっから」


その言葉が落ちきるより早く、阿巳蛇の姿が、目の前から消えた。


屍々子は即座に意識を張り巡らせる。

視界ではない。

場に満ちる空気そのものを、感覚として引き寄せる。


──後ろ……いや、右ッ!


反射的に身構えた、その瞬間。


「……ッ!?」


違う。


──左か?


だが、遅い。

屍々子の内で灯った『直感』が、定まらない。


感じ取ったはずの"そこ"は、認識した瞬間にずれていく。

捉えた感覚が、次の瞬間には別の方向へと跳ねる。


阿巳蛇は、直感そのものを欺いていた。


思考が追いつく前に、

脳が身体へ指令を送る、その直前で──。


───ズガンッ!!


床を削り取る凄まじい音。

屍々子の両足が、文字通り一瞬で払われた。


「────ッ」


声になる前に、世界が反転する。


次の瞬間、屍々子の顔面は──阿巳蛇の右手に、がっちりと掴まれていた。


速い。

覚醒したはずの『直感』ですら、余裕で置き去りにされる。


阿巳蛇は、本気だった。

戯れではない。

確実に、屍々子を"潰す"ための速度と力。


掴まれた顔面が、そのまま後方の壁へ叩きつけられる。


視界が、白く弾けた。


だが、それで終わらない。

阿巳蛇は右手で顔面を拘束したまま、左拳を振り抜く。


───バゴッ!


鈍く、重い衝撃が腹部を撃ち抜いた。

衝撃は背中へと抜け、壁にひびが走る。


次の瞬間、屍々子の身体は壁ごと突き破られ、

隣室へと叩き込まれるように転がっていった。


「屍々子!!」


籠女の叫びが、破壊音にかき消される。


卓が宙を舞い、椅子が弾き飛ばされ、

部屋の内部を大きく巻き込みながら、屍々子の身体はようやく停止した。


瓦礫と粉塵が、ゆっくりと舞い上がる。


破壊された壁の向こう側。

その崩落した空間の縁に、黄色い影が立っていた。


阿巳蛇は、淡々とした視線で瓦礫の山を見下ろす。

粉塵と薄闇で、屍々子の姿は確認できない。


だが──感じる。

瓦礫の奥から、確かに伝わってくる"温度"。


阿巳蛇は、口元を歪めて笑った。


「このまま、殺してあげる」


屍々子が吹き飛ばされた軌道に沿って、

卓や椅子が薙ぎ倒され、床には一直線の道ができていた。


阿巳蛇は、その"温度"へ向かって駆ける。


その瞬間。

阿巳蛇の感覚が、違和感を捉えた。


──いない。


温度を感じていたその場所に、屍々子の姿はなかった。

代わりに、そこにあったもの。


空気の塊。

しかも、それは──妖気を纏っていた。


異変を認識した、その刹那。

部屋の至る所から、次々と"温度"が立ち上がる。


「……まさかっ!」


思わず、声が漏れた。


卓の影、壁際、天井近く。

四方八方から現れるそれらすべてが、妖気を帯びた空気圧。


阿巳蛇を中心に、包囲網が完成していく。


逃げ場はない。


その時、部屋のどこからともなく、低く響く声が落ちた。


「言っただろ?」


瓦礫と粉塵の向こう。

位置すら定まらない声。


「万倍にしてやっからって」


その言葉と同時に。


妖気を纏った空気圧が、

一斉に──阿巳蛇へと解き放たれた。



──温度は使いよう──

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