第四十二話 妖気の温度
あの『合図』は、
戦闘中、相手に悟られないためのやり方。
そして、屍々子が"生き残る"ための印。
合図は三つ。
籠女が屍々子と共に戦うことを想定し、独自に組み立てたものだ。
人差し指のみ──屍々子が敵を引きつけ、籠女が仕掛ける。
人差し指と中指──籠女が誘導し、屍々子が攻める。
そして、人差し指・中指・薬指──二人で挟み込み、逃げ場を断つ。
本来であれば、視線で確かめ合うための合図だった。
だが、籠女は阿巳蛇に悟られぬよう、
"二本の指"を屍々子の手のひらに伝えた。
その意図を屍々子は確実に捉えた。
『合図』を屍々子に初めて教示した後、
今日に至るまで、屍々子と籠女は共闘をしていない。
そして、今ここで──二人の息がピッタリと重なった。
屍々子がアドリブで放った空気の塊は、ただの攻撃ではない。
それは、阿巳蛇への反撃を告げる狼煙だった。
屍々子と籠女。
二人の"呼吸"が揃わなければ成立しない印。
誰にも割り込ませない。
誰にも真似できない。
それが、二人だけの──『合図』だった。
♦
屍々子の拳が阿巳蛇の顔面を捉え、衝撃はそのまま身体を後方へ吹き飛ばした。
十数メートル先。
床に叩きつけられた阿巳蛇の姿に、無兎と鏑は思わず息を詰める。
少なくとも──。
二人が阿巳蛇と行動を共にするようになってから、彼女が殴り飛ばされる場面など、一度も見たことがなかった。
「阿巳蛇さん!」
反射的に駆け出しかけた
「大丈夫。そこにいてて」
仰向けのまま、顔も向けずに投げられた声。
いつもと変わらない調子だった。
だが、空気は変わらない。
屍々子たちへ向けられた殺気だけが、舌で肌をなぞるように張りついたまま、解けずに漂っている。
阿巳蛇は、静かに思考を巡らせた。
──気づかなかった。
背後から迫っていた、あの空気の塊。
接近に、まったく反応できなかった。
身体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
視線は、正面に立つ屍々子へ向けられた。
──こいつ。いつから仕掛けていた。
屍々子と交戦していた最中か。
籠女と"話していた"間か。
あるいは、この大通路に屍々子たちが踏み込んだ、その時点から──すでに、あの空気の塊を仕込んでいたのか。
どの可能性にも、それぞれ筋が通る。
だが同時に、決定的な根拠へと辿り着く答えは、ひとつとして見つからなかった。
──あの塊。
あたしの肌に、"温度"が伝わらなかった。
妖気が形を成す以上、必ず伴うはずの熱。
だが、あの空気の塊からは、妖気特有の温度が一切感じられなかった。
そして──。
──あたしが"
阿巳蛇は理解していた。
屍々子が妖気を閉じていないことも。
片膝をつき、身体を起こしている最中でさえ、その両手から妖気が放たれていたことも。
だが──。
認識していたのは、あくまで"妖気を出している"という事実だけだった。
そこで、何かを構築し、操作している。
そんな発想は、疑念としてすら浮かばなかった。
阿巳蛇は、ゆっくりと屍々子へ歩み寄る。
「びっくりした。
普通はね。妖力で作った能力は、"全部に温度がある"ハズなんだけどな」
言葉を重ねながら、羽織っていた白衣をその場で脱ぎ捨てる。
「あたしが、温度に気づけなかったのは──」
口元が、楽しげに吊り上がった。
「──キミが初めてだよ」
屍々子は、口元に滲んだ血を右袖で乱暴に拭い、低く応じる。
「そりゃどーも。
お前がべらべら喋っててくれたおかげで、こっちは時間稼げたわ」
そして、屍々子もまた阿巳蛇へと歩み出す。
身体を蝕む痛みなど、どうでもいい。
「お前をぶっ飛ばすまで、何回でも喰らわせてやるよ」
その宣告と同時に、屍々子の全身から白い妖気が噴き上がった。
床を這うように広がり、空気を震わせる。
阿巳蛇は、それを見て笑った。
「やってみなよ──」
次の瞬間、阿巳蛇は走り出す。
その一言が、戦端を切り裂いた。
「──キミを殺して、籠女はあたしがもらうから」
音を残すことすらなく、阿巳蛇の姿が掻き消える。
その場に残ったのは、黄色の残影だけだった。
屍々子が理解するよりも早く、視界が塗り替わり──目の前に、阿巳蛇。
振り抜かれた右脚が、一直線に屍々子の腹部を狙っていた。
だが、屍々子はその脚を捉えていた。
──左ッ!
視認ではない。思考でもない。
内側から弾けるように浮かび上がった、その感覚。
『直感』
廃神社での戦いの時から、屍々子はその感覚を、漠然と意識していた。
はっきりと掴めるものではない。
だが、確かに"そこにある"と感じられる何か。
美鈴と組手を重ねていた最中にも、それは時折、唐突に顔を出した。
場の空気がわずかに歪み、流れが変わる。
その瞬間、相手が繰り出そうとしている一手の軌道が、思考を介さずに理解できた。
これまでの戦闘において、その"直感"は常に曖昧だった。
淡い感覚が、ほんの一瞬だけ輪郭を持つ。
自分の内側で何かが噛み合った時にだけ、偶然のように訪れる。
理屈では説明できない。
感覚を言葉に落とすこともできない。
だからこそ、"直感"と呼ぶしかない。
その感覚は、屍々子の本能が危険を察知した時、際立って鮮明になる。
生と死の境界に立たされた瞬間にこそ、真価を現すもの。
そして今。
死線を真正面から浴びる屍々子へ、その『直感』は、迷いのない"解答"を差し出していた。
この場に満ちる空気。
半径三十メートル以内。
そのすべてが──自分を生かすための"武器"。
偶然ではない。
奇跡でもない。
ただ、これまで気づかずにいただけの力。
屍々子の内に眠っていた、本来の"能力"。
この瞬間、初めて名を与えられる。
『
───キュウゥゥンッ。
甲高い収束音とともに、屍々子の右脚に空気が絡みついた。
阿巳蛇の蹴りが腹部へ届く、その刹那。
足元に集束した圧が、臨界へ達し──解放。
───ブゥンッ。
続いて、空間そのものが叩き潰されるような衝撃音。
───ズドォ!!!
炸裂した蹴りが、阿巳蛇の腹部を正面から貫いた。
阿巳蛇の身体が前方へ弾かれ、床を転がる。
だが、その勢いのまま即座に起き上がり、屍々子へ向かって踏み出した。
まるで、その一撃など意にも介さないかのように。
口元を歪め、愉しげに笑う。
「あたしを二度もぶっ飛ばした女は──」
次の瞬間、屍々子の眼前に阿巳蛇の姿。
だが、声は左側から聞こえた。
視界に捉えたはずの阿巳蛇は、すでに黄色い残光を引きながら左へ回り込んでいる。
「──キミで二人目」
『直感』が、屍々子の中を駆け抜けた。
───バシュンッ。
紙一重。
屍々子の右手が、飛び込んできた阿巳蛇の拳を受け止める。
この速度に反応できたのは、『直感』だけのおかげではない。
人間だった頃から積み上げてきた──"鬼"としての場数が、身体を先に動かしていた。
だが、阿巳蛇は一切怯まない。
拳を掴まれたまま、閃光のように右側へ切り返す。
───ビュォンッ。
引きずられるように、屍々子の身体が振られた。
勢いに耐えきれず、阿巳蛇の身体から弾き飛ばされる。
「──くっ!」
宙に浮いた、無防備な身体。
その隙を、阿巳蛇が見逃すはずもなかった。
「また、あたしが勝っちゃうよ」
───バゴッ!!
拳が、容赦なく屍々子の顔面へねじ込まれる。
ズドン、という鈍い音とともに、屍々子の身体が後方へ吹き飛び、壁へ背中から叩きつけられた。
「がふっ──!」
先ほど受けた胃へのダメージが響き、口元から赤が噴き出す。
その壮絶な攻防に、籠女も、茜も、無兎も、鏑も、誰ひとり言葉を失っていた。
息を呑み、足を止め、ただ視線を向けることしかできない。
介入は不可能だった。
速すぎる。
重すぎる。
殴り合いの密度そのものが、他者の踏み込む余地を拒絶している。
決着がつくまで、見届けるしかない。
壁へ叩きつけられた屍々子に、阿巳蛇が黄色の残光を引いて迫る。
痛みに顔を歪めている暇はない。
屍々子は、背中を壁に預けたまま右足へ空気圧を集中させる。
解放と同時に、後方へ蹴り上げるように身体を弾き、迎え撃つ形で前へ躍り出た。
跳ね上がる身体の中で、右手の妖気を完全に閉じる。
同時に、左手へとその分の妖力を収束させる。
そして──
左の拳が、阿巳蛇へ伸びた。
阿巳蛇は捉えていた。
屍々子の妖気の"温度"を。
肌を撫でる気配だけで、拳の軌道が手に取るように読める。
避けられないはずがない。
だが、その予測は──反転した。
───バキッ。
鈍い衝撃が、阿巳蛇の左顔面を打ち抜く。
「──ッ!?」
勢いを殺しきれず、阿巳蛇の身体が床を転がる。
すぐさま片膝をつき、体勢を立て直して前を睨む。
屍々子が、右手を突き出していた。
妖気は、ない。
阿巳蛇が喰らったのは、
妖気を一切纏わない──ただの拳だった。
その瞬間、初めて。
阿巳蛇の表情に、はっきりとした動揺が浮かぶ。
──今……
思考が形になるより先に、声が割り込んだ。
「──かわしたハズって思ったか?」
内心をそのまま言語化され、阿巳蛇の眉がひそめられる。
──コイツ……。
屍々子はその反応を見下ろしながら、一歩。
さらに一歩と距離を詰める。
やがて、阿巳蛇の目前で足を止めた。
「お前……温度でアタシの動き、読めるんだろ?」
そして、確信を帯びた笑みを浮かべる。
「だったらさ。
妖気が出てなかったら、動きが読めねぇってことだよなぁ?」
──形勢は、静かに逆転する──
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