第四十二話 妖気の温度

あの『合図』は、阿巳蛇あみだを出し抜くために仕込まれていた、唯一の手だった。


屍々子ししこがミズト邸で鍛錬を重ねていた頃、籠女かごめはさりげなく──ほんの雑談の延長のように、その合図を教えていた。


戦闘中、相手に悟られないためのやり方。


そして、屍々子が"生き残る"ための印。


合図は三つ。


籠女が屍々子と共に戦うことを想定し、独自に組み立てたものだ。


人差し指のみ──屍々子が敵を引きつけ、籠女が仕掛ける。


人差し指と中指──籠女が誘導し、屍々子が攻める。


そして、人差し指・中指・薬指──二人で挟み込み、逃げ場を断つ。


本来であれば、視線で確かめ合うための合図だった。


だが、籠女は阿巳蛇に悟られぬよう、

"二本の指"を屍々子の手のひらに伝えた。

 

その意図を屍々子は確実に捉えた。

 

『合図』を屍々子に初めて教示した後、

今日に至るまで、屍々子と籠女は共闘をしていない。


そして、今ここで──二人の息がピッタリと重なった。


屍々子がアドリブで放った空気の塊は、ただの攻撃ではない。

それは、阿巳蛇への反撃を告げる狼煙だった。


屍々子と籠女。

二人の"呼吸"が揃わなければ成立しない印。


誰にも割り込ませない。

誰にも真似できない。


それが、二人だけの──『合図』だった。

 

 

 


屍々子の拳が阿巳蛇の顔面を捉え、衝撃はそのまま身体を後方へ吹き飛ばした。


十数メートル先。

床に叩きつけられた阿巳蛇の姿に、無兎と鏑は思わず息を詰める。


少なくとも──。

二人が阿巳蛇と行動を共にするようになってから、彼女が殴り飛ばされる場面など、一度も見たことがなかった。


「阿巳蛇さん!」


反射的に駆け出しかけた無兎むとかぶらを、低い声が制した。


「大丈夫。そこにいてて」


仰向けのまま、顔も向けずに投げられた声。

いつもと変わらない調子だった。


だが、空気は変わらない。

屍々子たちへ向けられた殺気だけが、舌で肌をなぞるように張りついたまま、解けずに漂っている。


阿巳蛇は、静かに思考を巡らせた。


──気づかなかった。


背後から迫っていた、あの空気の塊。

接近に、まったく反応できなかった。


身体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。

視線は、正面に立つ屍々子へ向けられた。


──こいつ。いつから仕掛けていた。


屍々子と交戦していた最中か。

籠女と"話していた"間か。


あるいは、この大通路に屍々子たちが踏み込んだ、その時点から──すでに、あの空気の塊を仕込んでいたのか。


どの可能性にも、それぞれ筋が通る。

だが同時に、決定的な根拠へと辿り着く答えは、ひとつとして見つからなかった。


──あの塊。

あたしの肌に、"温度"が伝わらなかった。


妖気が形を成す以上、必ず伴うはずの熱。

だが、あの空気の塊からは、妖気特有の温度が一切感じられなかった。


そして──。


──あたしが"屍々子こいつの妖気の温度"を認識したのは、籠女と向き合っていた時だった。


阿巳蛇は理解していた。

屍々子が妖気を閉じていないことも。


片膝をつき、身体を起こしている最中でさえ、その両手から妖気が放たれていたことも。


だが──。

認識していたのは、あくまで"妖気を出している"という事実だけだった。


そこで、何かを構築し、操作している。

そんな発想は、疑念としてすら浮かばなかった。


阿巳蛇は、ゆっくりと屍々子へ歩み寄る。


「びっくりした。

普通はね。妖力で作った能力は、"全部に温度がある"ハズなんだけどな」


言葉を重ねながら、羽織っていた白衣をその場で脱ぎ捨てる。


「あたしが、温度に気づけなかったのは──」


口元が、楽しげに吊り上がった。


「──キミが初めてだよ」


屍々子は、口元に滲んだ血を右袖で乱暴に拭い、低く応じる。


「そりゃどーも。

お前がべらべら喋っててくれたおかげで、こっちは時間稼げたわ」

 

そして、屍々子もまた阿巳蛇へと歩み出す。

身体を蝕む痛みなど、どうでもいい。


「お前をぶっ飛ばすまで、何回でも喰らわせてやるよ」


その宣告と同時に、屍々子の全身から白い妖気が噴き上がった。

床を這うように広がり、空気を震わせる。


阿巳蛇は、それを見て笑った。


「やってみなよ──」


次の瞬間、阿巳蛇は走り出す。

その一言が、戦端を切り裂いた。


「──キミを殺して、籠女はあたしがもらうから」


音を残すことすらなく、阿巳蛇の姿が掻き消える。

その場に残ったのは、黄色の残影だけだった。


屍々子が理解するよりも早く、視界が塗り替わり──目の前に、阿巳蛇。


振り抜かれた右脚が、一直線に屍々子の腹部を狙っていた。


だが、屍々子はその脚を捉えていた。


──左ッ!


視認ではない。思考でもない。

内側から弾けるように浮かび上がった、その感覚。



『直感』



廃神社での戦いの時から、屍々子はその感覚を、漠然と意識していた。


はっきりと掴めるものではない。

だが、確かに"そこにある"と感じられる何か。


美鈴と組手を重ねていた最中にも、それは時折、唐突に顔を出した。


場の空気がわずかに歪み、流れが変わる。

その瞬間、相手が繰り出そうとしている一手の軌道が、思考を介さずに理解できた。


これまでの戦闘において、その"直感"は常に曖昧だった。


淡い感覚が、ほんの一瞬だけ輪郭を持つ。

自分の内側で何かが噛み合った時にだけ、偶然のように訪れる。


理屈では説明できない。

感覚を言葉に落とすこともできない。


だからこそ、"直感"と呼ぶしかない。


その感覚は、屍々子の本能が危険を察知した時、際立って鮮明になる。

生と死の境界に立たされた瞬間にこそ、真価を現すもの。


そして今。

死線を真正面から浴びる屍々子へ、その『直感』は、迷いのない"解答"を差し出していた。


この場に満ちる空気。

半径三十メートル以内。

そのすべてが──自分を生かすための"武器"。


偶然ではない。

奇跡でもない。


ただ、これまで気づかずにいただけの力。

屍々子の内に眠っていた、本来の"能力"。


この瞬間、初めて名を与えられる。



空気くうき操作そうさ


 

───キュウゥゥンッ。


甲高い収束音とともに、屍々子の右脚に空気が絡みついた。

阿巳蛇の蹴りが腹部へ届く、その刹那。


足元に集束した圧が、臨界へ達し──解放。

 

───ブゥンッ。


続いて、空間そのものが叩き潰されるような衝撃音。


───ズドォ!!!


炸裂した蹴りが、阿巳蛇の腹部を正面から貫いた。


阿巳蛇の身体が前方へ弾かれ、床を転がる。

だが、その勢いのまま即座に起き上がり、屍々子へ向かって踏み出した。


まるで、その一撃など意にも介さないかのように。

口元を歪め、愉しげに笑う。


「あたしを二度もぶっ飛ばした女は──」


次の瞬間、屍々子の眼前に阿巳蛇の姿。

だが、声は左側から聞こえた。


視界に捉えたはずの阿巳蛇は、すでに黄色い残光を引きながら左へ回り込んでいる。


「──キミで二人目」


『直感』が、屍々子の中を駆け抜けた。


───バシュンッ。


紙一重。

屍々子の右手が、飛び込んできた阿巳蛇の拳を受け止める。


この速度に反応できたのは、『直感』だけのおかげではない。

人間だった頃から積み上げてきた──"鬼"としての場数が、身体を先に動かしていた。


だが、阿巳蛇は一切怯まない。


拳を掴まれたまま、閃光のように右側へ切り返す。


───ビュォンッ。


引きずられるように、屍々子の身体が振られた。

勢いに耐えきれず、阿巳蛇の身体から弾き飛ばされる。


「──くっ!」


宙に浮いた、無防備な身体。


その隙を、阿巳蛇が見逃すはずもなかった。


「また、あたしが勝っちゃうよ」


───バゴッ!!


拳が、容赦なく屍々子の顔面へねじ込まれる。


ズドン、という鈍い音とともに、屍々子の身体が後方へ吹き飛び、壁へ背中から叩きつけられた。


「がふっ──!」


先ほど受けた胃へのダメージが響き、口元から赤が噴き出す。




その壮絶な攻防に、籠女も、茜も、無兎も、鏑も、誰ひとり言葉を失っていた。

息を呑み、足を止め、ただ視線を向けることしかできない。


介入は不可能だった。


速すぎる。

重すぎる。


殴り合いの密度そのものが、他者の踏み込む余地を拒絶している。


決着がつくまで、見届けるしかない。




壁へ叩きつけられた屍々子に、阿巳蛇が黄色の残光を引いて迫る。


痛みに顔を歪めている暇はない。


屍々子は、背中を壁に預けたまま右足へ空気圧を集中させる。

解放と同時に、後方へ蹴り上げるように身体を弾き、迎え撃つ形で前へ躍り出た。


跳ね上がる身体の中で、右手の妖気を完全に閉じる。

同時に、左手へとその分の妖力を収束させる。


そして──

左の拳が、阿巳蛇へ伸びた。


阿巳蛇は捉えていた。

屍々子の妖気の"温度"を。


肌を撫でる気配だけで、拳の軌道が手に取るように読める。

避けられないはずがない。


だが、その予測は──反転した。


───バキッ。


鈍い衝撃が、阿巳蛇の左顔面を打ち抜く。


「──ッ!?」


勢いを殺しきれず、阿巳蛇の身体が床を転がる。

すぐさま片膝をつき、体勢を立て直して前を睨む。


屍々子が、右手を突き出していた。


妖気は、ない。


阿巳蛇が喰らったのは、

妖気を一切纏わない──ただの拳だった。


その瞬間、初めて。

阿巳蛇の表情に、はっきりとした動揺が浮かぶ。


──今……


思考が形になるより先に、声が割り込んだ。


「──かわしたハズって思ったか?」


内心をそのまま言語化され、阿巳蛇の眉がひそめられる。


──コイツ……。


屍々子はその反応を見下ろしながら、一歩。

さらに一歩と距離を詰める。


やがて、阿巳蛇の目前で足を止めた。


「お前……温度でアタシの動き、読めるんだろ?」


そして、確信を帯びた笑みを浮かべる。


「だったらさ。

妖気が出てなかったら、動きが読めねぇってことだよなぁ?」




──形勢は、静かに逆転する──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る