第四十話 提案ではない。宣告だよ

じゃタワー・六十二階──大通路。


阿巳蛇あみだの唐突な出現によって、状況はわずか数秒で反転した。


屍々子ししこあかねは、籠女かごめの周囲から強引に排除され、通路の奥へと吹き飛ばされている。


残されたのは、籠女と──その前に立つ美鈴みすず


美鈴は半歩前へ出て、籠女を庇うように背中へ立たせていた。


鳥籠──那由多なゆたを失った今、籠女に戦う術はない。

この場で動けるのは、美鈴だけだった。


そんな二人を前に、阿巳蛇が柔らかな声色を落とす。


「ごめんね。籠女の仲間、蹴り飛ばしちゃってさ」


その声は、常軌を逸している。


到底、この状況で発せられるものではない。

それは、久しぶりに再会した旧友へ向けるような、屈託のない調子だった。


籠女は美鈴の隣へと位置をずらし、視線を真正面からぶつける。


「久しぶりの挨拶で、ウチ含め仲間一人一人に蹴り入れてくんは──」


語尾に、抑えきれない怒気が滲む。


「──相当印象悪いで」


阿巳蛇は、顔の前で軽く手を合わせた。


「ごめんて。

でもさ、子供の頃……籠女に教えてもらったよ?」


手を離し、思い出すように笑みを浮かべる。


「……やられたら、やり返せって」


その言葉に、籠女は鼻で笑い返す。


「そら、そうやな……。

アンタ、よういじめられとって、毎日みたいに泣かされとったからなぁ」


懐かしさではなく、皮肉だけが滲む。


阿巳蛇の表情が、わずかに明るくなった。


「そう! だから、あたしはここまで強くなった。

籠女のおかげだよ……!」


一拍、間を置く。


「だからさ。今日は──籠女に、ひとつ提案があってね?」


籠女の眉が、警戒を隠さずに寄る。


「……は?」


短い音に、拒絶が詰まっていた。


「アンタ……どういうつもりや」


読めない。

屍々子と茜を一瞬で排除できる力を持ちながら、命までは奪わず、提案を持ちかける。


殺気もなく、いつも通りの調子で振る舞うその態度が、かえって背筋を冷やした。


阿巳蛇の声が、静かに落ちる。


「別に、強制はしないよ。

そんな急に言われても、困るでしょ?

いいよ、ゆっくり考えて」


籠女の中で、警戒が一段、強く張り詰めた。


話が噛み合わない。

まるで──こちらがすでに"その提案を受ける前提"で迷っているかのような口ぶり。


声音は穏やかだ。

だが、その奥には、最初からこちらの意思を汲み取るつもりなどない圧が、はっきりと横たわっている。


籠女の表情を捉え、阿巳蛇が続ける。


「籠女だって……"考える時間"は必要だからね」


時間──。


その一語で、籠女は理解してしまった。

阿巳蛇が指しているのは、情でも猶予でもない。


籠女の体内へ投じられた特殊な因喰。

それが侵色を始めるまでの、残り時間。


「アンタ……最初から、ウチと取引するつもりやったんか……」


わずかな沈黙のあと、阿巳蛇の首が、ほんの少し傾いた。


理解しかねる、というより──その言葉自体が想定外だったかのように。


「取引……? なんで?」


心底、不思議そうな表情。

"何を言っているの?"とでも問うように。


「……取引なんてしないよ?」


柔らかな調子。

だが、その声音の底に、微かな違和感が滲む。


「それって、あたしがいつ──」


次の瞬間だった。

阿巳蛇の身体から、黄色の妖気が爆発的に噴き上がった。


「──取引するって、言った?」


叱責だった。

聞き分けのない相手に向けられる、容赦のない鋭さ。


「これは、提案だってば──」


歪んだ笑み。

うねり狂う妖気が、空気を軋ませる。


「──"力づく"の」


殺気が、完全に解き放たれた。


だが、その刹那──

その圧を断ち切るように、屍々子と茜が同時に阿巳蛇へと地を蹴る。


そして、遅れず美鈴も踏み込んでいた。


最初に距離を詰めたのは屍々子だった。


大きく引いた右拳に、全身の力が収束していく。

骨の内側で、妖気と空気が圧縮され、低く唸りを上げた。


「さっさと──」


限界まで溜め込まれた力が、解放される。


「──籠女ん中の因喰いんじき取れよ」


───パシュッ。


音を置き去りにする拳。

だが、その軌道の先にあったのは──阿巳蛇の左手だった。


指が、屍々子の拳を包み込む。

接触は一瞬。

衝撃は、そこで完全に殺された。


阿巳蛇は、その妖気の色を認識すると、ゆっくりと口元を緩める。


「面白いね、"その色"……」


視線が、値踏みするように屍々子をなぞる。


「……実験したくなっちゃう」


その言葉と同時だった。


左右から、影が跳ぶ。


茜はナイフを逆手に構え、振り下ろす軌道へ身体を預ける。


美鈴は地を這うように低く走り込み、体重を乗せた左脚を振り抜く。


その刃は──阿巳蛇へ向かう。


───シュタンッ。


空気を切り裂き、メイド二人が跳躍する。


その最中、茜は悟った。

自分の着地点──その軌道上に、かぶらが立っている。


同時に、美鈴の進路には、無兎むとが静かに構えていた。


一瞬の判断。


茜が、視線だけで美鈴に合図を送る。


「美鈴。わかってんな? 即行終わらせて──」


茜の身体に纏う妖気が、ぶわりと増した。


「──屍々子に、手回すぞ」


美鈴は、迷いなく小さく頷いた。


着地と同時に、茜は鏑の懐へ滑り込む。

距離を殺し、ナイフを下から上へ、鋭く振り上げた。


鏑は赤い妖気を纏い、伸びてきたナイフの刃を素手で掴み取る。


「うおおおい!! メイドさんよおお!! また会ったなああ!!」


鏑の"強い女理論"は、阿巳蛇の前では発動しない。

だが、茜への視線に宿る熱までは、抑えきれていなかった。


茜の舌打ちが響く。


「モヒカンテメェ、しつけーなぁ!

つか、ナイフ掴んで痛くねーのかよ!」


鏑の口元が、大きく歪む。


「だはははあ!!

痛かったら、とっくに離してんだろうがよお!!」


刃を握り締めたまま、笑い声が弾ける。


その一方で、美鈴と無兎は正面からぶつかっていた。


美鈴は身体をしならせ、流れるように回転する。

左から右へと繋がる動きの中で、踵が鋭く伸び、無兎の顔面を捉えにかかる。


だが──。


踵が届く直前、無兎の右腕が滑り込んだ。

足首を確実に受け止め、そのまま上へと弾き上げる。


美鈴の重心が浮く。

体勢が、わずかに後方へ流れた。


その隙に、無兎は一気に踏み込む。


右足を軸に身体を回転させ、溜めた勢いを解き放つように、左脚を振り抜いた。


───ドスッ。


鈍い衝撃。

美鈴の右肋を押し潰すように、回し蹴りが突き刺さる。


「──ッ」


抑えきれない息が、美鈴の喉から漏れた。


身体は数メートル先へ弾き飛ばされる。

だが、着地は崩れない。

即座に体勢を立て直し、再び無兎を正面に捉える。


その姿を見つめながら、無兎の唇が、わずかに動いた。


「……ほんとに、笑わなくなっちゃったんだね」


その呼び方は、

場違いなほど、優しく戦場に落ちた名前だった。



「姉さん」



──記憶の中では、ずっと笑って──

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