第三十八話 俺の好みの女だ
振り下ろされた拳を、咄嗟に拳で受け止める。
鏑の口元が、愉快そうに歪む。
「このまま、
空気が熱を帯び、圧が跳ね上がる。
次の瞬間──拳に乗る力と重さが、別物へと変わった。
──コイツ……! 急に!
屍々子の足裏が、床をわずかに滑った。
重心が後ろへ引かれ、身体が耐えきれずに崩れかける。
──やば……倒れ──
踏み止まろうとした刹那。
右肩越しに、
「……屍々子──」
その一音を認識した瞬間には、すでに二つの気配が動いていた。
右から茜。
左から
「──選手交代だ」
二人のメイドが、屍々子の身体を後ろへ下げるように、鏑との間へ滑り込む。
倒れかけた屍々子と、前に出る二人が、無駄のない動きで位置を入れ替えた。
鏑の注意が、メイドへと完全に切り替わる、その一瞬。
───タンッ。
茜は低く滑り込み、体勢を落としたまま下から鋭く蹴りを放つ。
美鈴は跳躍し、空中で身体を右へ一回転させ、その回転力を殺さぬまま脚を振り抜く。
左右。
寸分の狂いもないタイミング。
二人の蹴りが、鏑の顔面へ同時に迫った。
───ズタン!
鈍く重い衝撃音が通路に響き、鏑の巨体が半歩だけ後退する。
「ははぁ!! いいねぇ!!」
そのわずかな距離が、屍々子を捉えていた拳を引き剥がした。
力を失って後ろへ傾く屍々子の身体を、
肩を支え、体勢を立て直させた。
「屍々子! 大丈夫か!」
屍々子は視線を鏑から逸らさないまま、小さく頷く。
「あぁ悪い、大丈夫」
だが、鏑は止まらない。
「だはははは!! いい連携だなぁ!! お前らぁ!!」
次の瞬間、先に伸びていた美鈴の蹴り脚を右手で掴み、そのまま身体ごと引き寄せる。
掴まれた美鈴の身体は、勢いを殺されることなく、そのまま迫っていた茜の方へ投げつけられた。
無造作に放られた身体が、凄まじい速度で迫る。
茜もすでに鏑へ踏み込んでいた。
──クソ……かわせねぇ。
二つの勢いが正面から衝突する──そう思えた刹那──
白い妖気が、茜の視界を切り裂いた。
屍々子が、ほとんど音を置き去りにする速度で美鈴へと到達し、その身体を確かに抱え込んでいた。
白い軌跡が、茜の目前を左から右へ横切る。
屍々子は美鈴を抱えたまま、床を滑り込み距離を引いた。
二人の衝突は、紙一重で回避された。
その一瞬の横切りが、鏑の視界を完全に遮っていた。
巨大な体躯ゆえの死角。ほんのごくわずかだが、致命的な時間。
再び視界が開けたとき、鏑の目の前は、闇に覆われていた。
黒。
迫るのは、
「おいコラ、モヒカン──」
理解が追いつくより早く、茜の跳び膝蹴りが、鋭く突き上がった。
「──女投げてんじゃねぇよ」
───バゴッ!
鈍い衝撃が顎を打ち抜き、鏑の視界が弾ける。
「おお!?」
視界が大きく揺らぐ。
平衡感覚が狂い、巨体が三歩ほど後ろへよろめいた。
その隙が生まれる頃には、茜はすでに着地を終え、間合いへ踏み込んでいる。
鏑の反撃が来る前に、仕掛ける。
「お前がこの状況を考え終わる前に──」
茜の追撃が──開始した。
「──あたしがお前を終わらせてやるよ」
一発目。
重心を前へ。
速く、鋭く。
顎を正確に捉え、そして──蹴りを撃つ。
二発目。
鏑の脳が揺れる。
次の一撃を認識した時には、すでに衝撃は顎へ到達していた。
三発目。
茜は姿勢を低く落とし、下から上へと鋭く蹴り上げる。
鏑の巨体が、その軌道に沿ってわずかに宙へ浮いた。
四発目。
床を強く蹴り、跳躍。
空中で身体を左に二回転させ、右脚を高く振り上げる。
その高さは、鏑の頭上。
「このまま地面に伏してろ、モヒカン」
吐き捨てるような声とともに、踵が振り下ろされた。
『茜ちゃん式・四連蹴り落とし』
───ズンッッ。
頭上から叩きつけられる、圧倒的な衝撃。
鏑の身体は、そのまま床へ顔面から叩き落とされた。
───ドンッ!!!
衝撃音が大通路に反響し、遅れて振動が床を伝う。
茜は着地すると、そのままうつ伏せで沈黙した鏑を見下ろした。
そこに浮かんでいるのは、勝ち誇りでも興奮でもない。
ただ「倒した」という事実だけを受け止めた、静かな表情だった。
屍々子の喉から、思わず声がこぼれる。
視線は鏑ではなく、つい先ほど耳にした技名の方へ向いていた。
「……茜ちゃん式……」
あの性格と言動から考えても、そのネーミングを本人が考えたとはどうしても思えない。
鏑が動かないことを確認すると、茜は屍々子へ視線を向けた。
美鈴は屍々子に抱えられたまま、外傷らしい外傷もなく、意識もはっきりしている。
その様子に、茜は軽く口元を緩める。
「屍々子。さっき助かったわ。ありがとな」
屍々子は肩をすくめるだけで応じた。
大したことじゃない、という態度のまま、美鈴を支えて立ち上がる。
そこへ籠女も駆け寄ってきた。
籠女の表情には、はっきりとした悔恨が滲んでいる。
「……みんなごめんな。ウチの
その言葉を、茜は即座に切り捨てる。
「気にすんな。武器持ってねぇお姫様は、後ろで護られてりゃいい」
視線を外しつつ、続ける。
「そんで、お前の鳥籠はあたしが必ず見つけてやんよ」
そう告げてから、安心させるように、ほんの一瞬だけ笑った。
周囲へ鋭く視線を走らせ、鼻先で空気を探るように息を吸う。
「……今のところ、籠女の鳥籠の残り香はあたしの鼻に届いてねぇ。
だから、この辺には鳥籠がないってことだ」
敵影がないことを確認すると、茜は歩き出した。
「……とりあえず、モヒカンも倒したことだし、先に進むか。
んで、早くバイクも返さねぇといけねえからよ」
二台のバイクは、建物内では走るのは不利。
特殊克服者部屋に置き去りのままだ。
「急ぐぞ」
屍々子と籠女は短く応じ、四人は再び歩き出した。
少し進んだ先で、階段へと繋がる大きな自動ドアが姿を現す。
踊り場は広く、戦闘が起きても余裕がありそうな空間だった。
屍々子の視線が、扉の中央に設置された黒いパネルで止まる。
手のひらサイズのそれには、強い既視感があった。
「籠女。このパネルって、籠女のマンションのやつと同じじゃね?」
籠女も近づき、眉を寄せる。
「……ホンマやな。てことは、これ"屍々子以外は開かん"ドアやな」
屍々子がパネルに手を伸ばす。
背後から、茜の半信半疑の気配。
「これって、決められた奴の妖気でしか反応しねぇパネルっしょ?
屍々子がいくら特殊な"色"してるって言っても、あたしは──」
───カチッ。───スッ。
乾いた音とともに、自動ドアが静かに開いた。
開ききった扉を前に、茜の言葉が途中で切り替わる。
「──信じます」
誰も突っ込まない。
四人はそのまま視線を交わし、扉の向こうへと足を進め、階段を上っていった。
♦︎
蛇ノ目タワー・六十階──大通路。
「鏑……こんなところで寝そべって、何してるの?」
「倒しに行ったんじゃなかったの?」
返ってきたのは、普段の荒々しさとはかけ離れた、妙に落ち着いた声だった。
「……手、出せなかった」
「……は?」
思わず眉が寄る。
この戦闘狂が、圧倒されるどころか"手を出せない"など、
「鏑……なに、そんなにコテンパンにされたの?」
否定するように、鏑は首だけをわずかに振った。
「違う……可愛かったから」
一瞬、空気が止まる。
「……え? ちょっと話が掴めないんだけど。
なに? どういうこと?」
鏑はゆっくりと上体を起こしながら、淡々と続けた。
「あのミズト側のメイド……。
俺を倒すためだけに、狙いを一切ブレさせず、顎だけを正確に蹴り抜いてきやがった」
その目に、熱が宿る。
「あれは強い女だ。
だから……蹴られてても、手ぇ出せなかった。
完全に、俺の好みだ」
無兎は深く息を吐いた。
また始まった。
周期的に発症する、鏑独自の"強い女理論"。
これが発動すると、その対象を前にした鏑は、見事なまでに動かなくなる。
だが、対処法はひとつだけある。
「鏑。阿巳蛇さんに、サボってたって報告しとくね?」
その一言が落ちた瞬間だった。
鏑は跳ね起きる。
「よっしゃああ!!
ミズト側のやつら、全員まとめて
空気が一変する。
阿巳蛇という名は、
毒にもなり、薬にもなる。
無兎は鏑に言い聞かせるように、言葉を落とす。
「……鏑。阿巳蛇さんが蛇ノ目に戻ってきたから、一旦最上階に戻るよ」
一拍の沈黙。
その沈黙に、覚悟が沈殿する。
「
みんなが失った家族のためにも──」
言葉が、ゆっくりと噛み締められる。
「──姉さんのためにも」
──おふざけは、おしまい──
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