第三十七話 籠女の決意
───ガチャンッ。
乾いた金属音が響き、最後の拘束具が床に落ちた。
「よぉし。これで全部外れたな。
最初、外れなくてちょっとビビったー」
茜は、わずかに安堵の息を吐き、手にしていたナイフを太もものホルスターへ戻した。
彼女の装備は常に無駄がない。
メイド服の内ポケット、腰に差した複数のナイフ、そして長いスカートの内側──外からは見えない位置に、太ももへ巻きつける形で固定されたホルスター。
スカートには、そのホルスターから即座に刃を引き抜けるよう、最初から切り込みが入れてある。
仰向けのまま天井を見つめていた
「茜さん、ホンマにありがとう。
正直……ウチ、終わった思たわ」
冗談めいた調子で、茜が肩をすくめる。
「屍々子も籠女も、あたしがいなかったら肝心なとこクリアできねぇからなぁ」
「それは、本当にそう」
そのまま籠女の身体に手を回し、慎重に上体を起こしながら続けた。
「……茜と
ふざけも誇張もない、まっすぐな声音だった。
そのあまりの素直さに、茜も籠女も一瞬言葉を失う。
屍々子が感謝を口にすること自体は珍しくない。
だが、ここまで真正面から向けられると、逆に照れる。
茜は、わずかに視線を逸らす。
「……屍々子。痒い」
それに続くように、籠女も屍々子へ身体を預けたまま、小さく呟く。
「屍々子。痒い」
間を置かず、美鈴も淡々と。
「痒い」
三方向から向けられた同一の訴えに、屍々子が思わず声を荒げた。
「お前ら、うるせぇよ!」
そんな軽口の応酬のさなかでも、籠女の胸には、屍々子が来てくれたという事実だけが、今は何よりも心強かった。
屍々子に手を取られ、籠女はゆっくりと台を降りる。
その途中、ふと視線が屍々子の右腕へ向いた。
黒いカーディガンの袖には、細かく裂けた傷がいくつも走り、その隙間から覗く制服は、血に染まっている。
「屍々子……右腕、真っ赤やな。ごめんな……ウチのせいや」
声には、抑えきれない自責が滲んでいた。
だが屍々子は、いつもの軽さで返す。
「なんで? 籠女も服血まみれだろ。
おそろっぴでイイじゃん。それに──」
その言葉は、事実以上に"気にするな"という意思を含んでいた。
「──帰ったらアタシの制服直せよ。決まりな?」
籠女をこれ以上追い詰めないための、屍々子なりの配慮だった。
屍々子には分かっている。
籠女は表面上こそ普段と変わらない顔をしているが、あの肝の据わった芯の強さが、今は少し揺らいでいることを。
そして厄介なのは、
籠女の体内に、
それが、籠女自身にとって、どれほどの不安と恐怖を伴うものか。
だからこそ、屍々子は普段通り接する。
少しでも、籠女の肩から重荷を下ろすために。
茜が、場の空気を切り替えるように口を開いた。
「あたしらがここに乗り込んで大体十分くらいか? いや、そんな経ってねぇか……」
そう言って、ひとつ深く息を吐く。
「……さて。こっからどう動くか、だな」
その言葉を合図に、屍々子と籠女は視線を巡らせた。
部屋の中は、すでに戦いの痕跡で満ちている。
ほんの少し前まで、研究員が五人、この空間に立っていた。
だが短い交戦の末、彼らは全員床に伏して動かない。
さらに視線を移せば、籠女のほかにも二つ、金属製の台が目に入る。
その上には、拘束されたままの男が二人。
先ほどまで呻き、叫び、苦痛を訴えていたはずの存在は、今は沈黙している。
ただ眠っているだけではないことは、見れば分かった。
意識が遮断され、強制的に落とされている──そんな静けさだった。
屍々子は、頭の中でこの元凶を辿る。
そして、最短の解決方を考える。
それは、怪異界を救いたいからじゃない。
誰かの希望になりたいわけでもない。
自分のためではある。
だが、それは"自分自身"のためじゃない。
自分から繋がるものすべて──
自分が、大切にしている人たちを失いたくない。
今ふと思いつくのは、それだけだ。
ここから脱出──違う。それでは元凶は止まらない。
籠女の体内から因喰を取り出す──どうやって?
思考が行き詰まり、舌打ちにも似た感情が胸を掠める。
面倒くせぇ。
そして、屍々子が辿り着いた、一つの解答。
「
そんで、籠女の中にある因喰も──取る」
その言葉に、茜は即座に口角を上げる。
賛成だ、と言わんばかりの笑みだった。
だが、籠女だけは、すぐに頷けなかった。
「……屍々子」
声を出した瞬間、言葉が喉で詰まる。
自然と、全員の視線が籠女へ集まった。
阿巳蛇を倒す──その言葉は、あまりにも理想的で、非現実的だった。
実際に目にした阿巳蛇の動き。
あの圧倒的な力は、この場にいる誰とも次元が違う。
それでも──
ここを越えなければ、自分が今日まで走り続けてきた"目的"は、すべて無意味になる。
そう思った瞬間、籠女はハッとした。
──同じや……。少し前と。
結果を、そして因果を断とうとしている屍々子を、また──裏切りかけた。
仲間を、そして屍々子を失いたくない。
その気持ちは確かにある。
けれど、その気持ち自体は、ただの"過程"でしかない。
だったら。
今、籠女が選ぶべきものは、屍々子と同じ。
覚悟は、自然と形になり、言葉となってこぼれた。
「……阿巳蛇を、ブッ飛ばす」
その一言に、屍々子はふっと口元を緩める。
茜もまた、張りつめていた空気がほどけたように、小さく笑った。
屍々子は籠女の背中へ視線を落とす。
左肩、そして右腕。白いワンピースは血に染まり、裂けた布の奥に生々しい傷が覗いていた。
「身体は? もう、動けんの?」
籠女は小さく息を吐き、痛みを押し殺すように背筋を伸ばす。
そのまま両腕を上げ、無理やり身体を伸ばした。
「んー……関係あらへん」
伸びを終え、軽く首を回す。
視線だけを屍々子へ向け、いつもの調子で笑う。
「ちゃっちゃと終わらすで」
──ウチの体内に入っとる因喰がいつ牙剥くかわからんけどな。ここで、怯えてられん。
──それがもし、ウチの最期だとしても。
♦︎
蛇ノ目タワー・六十階──大通路。
屍々子、籠女、茜、美鈴の四人は、特殊克服者部屋を後にし、そのまま通路へと足を踏み出していた。
そして、あの部屋にいた他の実験体はそのまま置いてきた。
今、優先すべきは、そいつらを助けることじゃないから。
通路は異様なほどに広く、無機質で、静かだった。
そして、
阿巳蛇へと繋がる明確な手がかりは──無し。
「ふー……やっぱウチ、髪結んどかんと力半減するわ」
籠女は屍々子から受け取ったヘアゴムを手に取り、慣れた手つきで髪をまとめる。
ほどなく、いつものポニーテールが出来上がった。
それを横目に、茜が軽く顎を上げた。
「籠女、お前。ヘアゴムわざと落としてったの、ナイスだな。
それのおかげで、あたしらここまで辿り着けたわ」
籠女はキョトンとした顔で首を傾げる。
そして、少し考え込むように視線を宙に泳がせる。
「
せやけど、意識飛ぶ前までは、ちゃんとポニテしとったで?」
屍々子が眉をひそめる。
「じゃあ……取っ組み合いとかで、たまたま落ちたとか?」
籠女は首を振った。
「んー……取っ組み合いもしてへん。
ホンマにな? 屍々子がおらんくなって、ちょっとしてからや」
籠女は、思い出すように、視線を上に転がす。
「……高そうな紺のスーツ着た、チャラ男が話しかけてきて……」
言葉が途切れ、苦笑する。
「あれ? なんやったっけ。思い出されへんわ」
屍々子は、それが
「チャラ男で紺のスーツ……。
あー……やっぱ、そいつか。
そいつなら、茜と一緒にぶん殴ったわ」
自慢するでもなく、事実を述べた声。
「んで、そいつから阿巳蛇って名前が出て、ここまで来れたって感じ」
茜が何気なく付け加える。
「アイツ顔だけなら、意外と好みだった」
「え!! 茜あんなのがいいの!?」
屍々子が思わず声を上げた瞬間。
「あ、ウチ思い出したわ」
そこで、籠女が足を止まる。
自然と全員の歩みも止まった。
「その男な、赤いネクタイしとって、そのネクタイに白蛇のイラスト描いてあったんよ!」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「せやから、阿巳蛇の仲間やなって……認識したところから記憶ないねんけどな」
屍々子と茜の眉間に、同時に皺が寄った。
茜は屍々子へ視線を向ける。
「屍々子。
そのチャラ男って……"赤いネクタイ"してたっけ?」
屍々子は、即座に返した。
「いや、してなかった。……アイツは、青いネクタイをしてた」
思い返しても、赤いネクタイなんて見覚えがない。
「それに、白蛇のイラストなんて──」
視線が、籠女へ向いた。
「──どこにも描いてなかった」
その断定が空間に落ちた瞬間──背後から殺気。
それを捉えたのは、屍々子だけだった。
周囲の"空気"が、"異物"として屍々子の感覚領域に触れた。
──後ろッ!
身体が先に動く。
振り向いた視界いっぱいに、振りかぶられた拳と巨体が迫っていた。
──デカブツッ!
屍々子は右手に空気圧を一気に収束させ、そのまま拳へと解放する。
───ズダァンッ!!!
屍々子の右拳と、
衝撃が爆ぜ、圧縮された空気が波となって通路を叩いた。
「なんや!?」
その音で、籠女たちも一斉に振り返る。
拳と拳を噛み合わせたまま、鏑が獣じみた笑みを浮かべる。
骨同士が擦れ合い、鈍い軋みが響いた。
「おい、姉ちゃんよぉ!! 会いたかったぜええ!!」
屍々子は拳を引かず、真正面から受け止める。
「お前、女相手に不意打ちしてんじゃねえよ」
「──デカブツ」
──見えない時間は、刻々と──
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