第三十六話 奪還に参りました
破壊された壁材が宙を舞い、粉塵がまだ落ちきらぬ中、白いバイクは籠女の頭上の位置で停止する。
黒いバイクは、研究員たちを挟み込むよう、白いバイクと対角線を描くように停車する。
五人の研究員の逃げ道を断つ、明確な配置。
白いバイクの後部座席から、
台の上で仰向けに固定された籠女を見下ろし、いつもと変わらない軽さで声を投げた。
「なに呑気に寝てんだよ、帰んぞ。籠女」
その言葉で、籠女の表情がわずかに崩れた。
胸の奥に張り詰めていたものが、音もなくほどけていく。
涙が滲むのを止められなかった。
今、この状況で一番会いたかった存在が、目の前にいる。
言葉は出ない。ただ、視界が滲む。
屍々子は、籠女のその顔を確認しバイクを降りると、無言で頭を優しく撫でた。
そして、研究員たちへとゆっくり視線を向けた。
先ほどまでの軽さは、そこにはない。
唇だけをわずかに動かし、声を落とす。
「
その一言で、部屋の空気が目に見えて変質した。
湿り気を帯び、重く沈殿していくような圧迫感が、床から天井まで満ちていく。
屍々子の両手から、白い妖気が滲み出した。
それは炎のように荒れ狂うものではない。
静かで、冷たく、しかし確実に"殺意"を孕んだ光だった。
呆然とした空気が、一瞬だけ場を支配する。
その沈黙を破ったのは、研究員の短髪の男。
震える指で屍々子を指差す。
「お前ら……どうやって、ここへ来た!」
屍々子の後ろ。
白いバイクに跨っている
「隣のビルの屋上」
研究員の女が、目を見開く。
「隣のビル……まさか……」
茜は口角を吊り上げ、笑った。
「
鷹井ビル。
理論上──あくまで理論上であれば、そこから蛇ノ目タワー六十階へ飛び込むことは、不可能ではない。
だが、それを実行する者など、誰もいない。
茜と
短髪の男が、信じられないという表情のまま呟いた。
「……ば、馬鹿な……非常識にも程がある……」
この部屋にバイクで突っ込む前。
美門との戦闘を終えた直後、茜は屍々子と美鈴を連れ、ある場所へ向かっていた。
骸北区の外れ。
かつて、彼女が何度となく足を運んだ場所。
紅音隊──数年前、茜自身が立ち上げた隊だ。
いわゆる、暴走族。
そして茜は、その初代総長だった。
今の彼女は隊を抜け、ミズトのもとでメイドとして働いている。
本拠地の外観は、ごく普通のバイク店だった。
通りに面したガラス越しには様々な車種が並び、隣には用途不明の広い倉庫が併設されている。
事情を知らなければ、ただの町の整備工場にしか見えない。
茜はそこで、二台のバイクを借り受けた。
それが、白と黒のバイク
そして今、その二台は理論を現実に変え、蛇ノ目タワー六十階へ突っ込んできた。
研究員らが呆然とする中、茜は薄く笑っていた。
「非常識はお前らだろ。
あたしらは、その"お返し"をしに来ただけだ」
その言葉を受け、短髪の男が歪んだ表情で息を吸い込んだ。
「この実験は、止められないんだ……。
阿巳蛇様のためにも……そして、"俺たち"のためにも!」
男の叫びと同時に、その身体から赤い妖気が噴き上がった。
茜が眉をひそめる。
「俺たちのため? どういう意味だ?」
その問いに、男は答えない。
否定するように、あるいは自らを奮い立たせるように、さらに声を荒げた。
「お前らには関係ない!!
"
その言葉が引き金だった。
周囲にいた研究員たちの身体からも、次々と妖気が立ち上る。
茜は白いバイクから軽く跳び降り、床に足をつける。
「譲れないのはお互い様かね……」
呟くように言いながら、視線を前に据える。
美鈴も黒いバイクを降り、
同時に、屍々子が両手に空気を集束させる。
張りつめた空気の中で、茜の声が静かに、しかし確かに響いた。
「だったら──奪い還すまでだわな」
その一言が、戦端を切った。
♦︎
蛇ノ目タワー・六十四階──適合者部屋。
室内は異様なほど広かった。
床の三分の二を占めるように、金属製の台が規則正しく並んでいる。
他にあるのは、壁際に寄せられた大きな卓と、数脚の椅子だけ。
余計なものは、徹底して排されていた。
その台の上で、
無理やり眠らされているのは、怪異。
人の姿をした怪異──人型怪異。
獣の姿をした怪異──動物型怪異。
いずれも一体ずつ隔離され、整然と配置されている。
さらにその配置は色によって分けられていた。
赤、青、緑、黄、紫、翠──。
まるで標本のように、無言で並べられている。
部屋の中央。
紫の区画で、研究員の男が人型の男の口元に、
"白い"金属片を差し込んだ。
眠っているため、抵抗はない。
それは喉を通る水のように、するりと体内へ沈み込んでいった。
次の瞬間、男は跳ね起きるように目を見開き、激しく身をよじった。
喉から、潰れた悲鳴が漏れる。
「がああぁぁ……!」
逃れようとするが、手足は台に厳重に固定されている。
全身から浮き上がる血管。血走る眼球。
全身が拒絶反応を起こしているのが、ひと目でわかった。
数秒後──
その動きが、唐突に止まる。
皮膚の端から、身体が崩れ始めた。
音もなく、灰のように砕け、散っていく。
それを見下ろしながら、男は淡々と呟いた。
「……やっぱり、適合者の誕生は確率が低いな」
すると、乾いた音が響く。
──カラン。
金属台の上に、白から紫に変色した
さきほどまで、そこに"人"の形を保っていたものの名残だった。
男はそれを拾い上げ、「紫」と記された五十センチほどの箱へ無造作に収める。
その区画に設置されてある箱の中には、すでにいくつもの同色の因喰が眠っていた。
そのとき、隣の区画──黄色の隔離エリアから、研究員の女が顔を出した。
「あ、ねぇちょっといい?」
女の腕には、「黄」と書かれた箱が抱えられている
「"これ"さ
男は手元の作業から目を離さずに答えた。
「悪いけど、まだ二十体ほど因喰を飲ませる工程が残ってるんだ。今すぐは難しいかな」
女は小さく眉を寄せる。
「困ったな……。私も別の作業が残っててさ。
それを早めに終わらせないといけないんだよね」
男はようやく顔を上げた。
「急ぎの案件?」
「うん。今日、南区全体で食料と飲料を配ってたでしょ?
その影響で克服者が何人か出てて──」
「十分後に、その人たちを使って因喰を生成する工程が入ってるの」
男は一瞬だけ思案し、すぐに結論を出した。
「ああ、そういうことなら大丈夫。
この区画すぐ片づけて、キメラ部屋へ持っていくね」
「助かる」
女は短く礼を言い、箱を男に手渡した。
そのやり取りに、特別な感情は介在しない。
ここでは、これが日常だった。
♦︎
蛇ノ目タワー・六十六階──最上階部屋。
本来なら、阿巳蛇と幹部たちが集う部屋だ。
だが今、その中心にあるはずの存在は、姿を見せていなかった。
そこへ、荒い足音が響く。
淡い紫のモヒカン。上半身を晒した男──
「おい
言いながら、鏑は無兎の席の隣へ歩み寄る。
無兎は椅子に腰掛けたまま、スマホから視線を外さない。
「阿巳蛇さんが言うには、あれくらいなら早く治るってさ」
淡々とした返答。
鏑は一歩、距離を詰めた。
「……緋叉欺はよぉ、誰にやられたんだ?」
無兎はようやくスマホから目を上げ、鏑を見る。
「ミズト側の連中。
しかも、今ミズト側の連中が蛇ノ目に乗り込んできてる」
その言葉に、鏑の口元がわずかに歪んだ。
表情は明るくなったようにも見えるが、声は沈んだままだ。
「それ……どこ行きゃあいいんだ?」
その笑みは喜びだった。
だがそれは、仲間を想う温度のものではない。
"潰す理由"が明確になった時の、純粋な昂揚。
無兎は椅子からゆっくりと立ち上がる。
「……六十階、だってさ」
──再戦へ──
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