第三十四話 役に立ちたかった
左肩と右腕に、鉤爪が深く食い込んでいる。
刺さったままでは、どう考えても分が悪い。
目の前の女が、再び鎖を操る前に──抜く。
あー嫌や。
抜きたない。
だって、今の状況より遥かに痛なるやん。
なんて、
──そんなん言ってられんなぁ……。
これまでにも、これ以上の痛みも、もっと酷い傷も、数え切れないほど負ってきた。
だが、慣れたことなど一度もない。
痛いものは痛く、嫌なものは、最後まで嫌だ。
それでも生き延びてきたのは、理屈ではない。
意地と、根性と、引き返さない選択だけだった。
ならば、今も同じだ。
籠女は白い手に命じる。
自身の身体に突き立った二本の鎖を、迷いなく掴ませた。
次の瞬間──
───ブジュァッ。
返し刃が肉を抉り、鈍く湿った音が響く。
引き抜かれる衝撃とともに、熱を帯びた痛みが一気に弾けた。
「……ッ」
声が喉元までせり上がる。
だが、歯を噛み締め、叫びは飲み込んだ。
引き抜いた鎖を、振り返りもせず地面へ叩き捨てる。
───ジャララァァ。
背後で金属が転がる音が弾み、籠女の背中から鉤爪の先端へ、赤い線が引きずられるように伸びていった。
視線を落とす余裕はない。
それでも分かる。血は相当量、流れている。
背中、そして袖口の裏側が、じわじわと赤に侵食されていく。
着ていたワンピースは、もはや誤魔化しようもなく、血に染まっていた。
籠女は、ふっと息をこぼすように笑った。
視線の先では、壁に背中から叩きつけられ、膝を崩したままの緋叉欺が、呼吸も整えられずに俯いている。
「なんや……もう立たれへんのか?」
「ウザ……なにいい気に──」
その言葉が終わる前に。
───ググッ。
白い手が、喉元を掴み上げた。
「────ッ……!」
声にならない音が、喉の奥で潰れる。
息の通り道を塞がれ、視界がわずかに歪んだ。
反射的に、緋叉欺は鎖を操ろうと両手へ紫の妖気を走らせる。
だが、その瞬間──
───ガシガシシシ。
白い手が三本ずつ、計六本が瞬時に伸びた。
両手首から前腕へ、そのまま肘の上。
逃げ場を与えぬ位置取りで、力任せに押さえつける。
骨に直接響く圧迫。
思わず息が漏れる。
「──ん……っ!!」
紫の光が、ふっと霧散した。
籠女は、自分でも気づかないほどに──キレていた。
ブスだと言われたこと。
戦闘中、執拗に浴びせられた嘲弄。
左肩と右腕を抉られた、焼けつくような痛み。
確かに、それらも理由のひとつではある。
だが、籠女の胸の奥に、今なお引っかかり続けているものは別にあった。
必死に結果に抗おうとしていた屍々子に、寄り添いもしなかったこと。
自分の知識と経験だけを正しさとして押し付けてしまった、その瞬間の、自分自身への嫌悪。
それが、消えない棘のように残っていた。
──そう、わかっとる。
これは、ただの八つ当たりだ。
理屈も正義も関係ない。
今ここで溢れている感情は、紛れもなく、その延長線上にあった。
籠女は、緋叉欺が意識を失わない程度に、首を絞める力を調節する。
殺さない。
だが、逃がしもしない。
緋叉欺は、酸素を求めて必死に喉を動かすしかなかった。
身動きは取れず、声も押し潰される。
籠女は低く問いかける。
「アンタ……ウチを
報復で殺す気やったんやったら、眠っとる間にいくらでも出来たやろ」
返答はない。
緋叉欺は乱れた呼吸の合間に、ただ睨み返す。
その視線が、籠女の苛立ちに油を注いだ。
───グギャ。
鈍く、嫌な音がした。
乾いた異音とともに、緋叉欺の左手首が折れた。
白い手が、手首を時計回りに捻り上げている。
緋叉欺の喉が大きく震える。
叫ぼうとした瞬間、首元への圧が一段強まり、音は外へ漏れなかった。
「────!!」
痛みから逃げるように、脚をばたつかせることしか出来ない。
空を掴むような痙攣が、ただ虚しく続く。
籠女は、その様子を冷えた目で見下ろしながら、淡々と圧をかけ続ける。
「状況、考えや」
声には、怒りが混じっていた。
抑え込もうとしても、隠しきれない苛立ちが滲む。
「今……反抗できる立場か?」
自分でも分からなかった。
なぜ、ここまで怒りが制御できないのか。
冷静になれない。
思考より先に、感情が前へ出てしまう。
緋叉欺の口元から唾液が垂れ、顎を伝って落ちた。
乱れた呼吸の合間から、なおも敵意だけは失われない。
その視線を受け止め、籠女は一歩だけ踏み込む。
「まず……その目、やめろや」
わずかに、白い手へ力が籠もる。
「……利き手も折ったんぞ?」
本来は、情報を引き出すだけのはずだった。
だが、今の籠女を動かしているのは、それとは別の衝動だった。
緋叉欺は歯を食いしばり、睨み返す。
痛みのせいで汗が噴き出し、体温だけが異様に上がっていく。
──死んでもコイツに情報は与えない。
あー様のためだったら、こんな痛み──
───ゴギュ。
ぞくり、と背筋が冷えた直後、右足首に激痛が走った。
「────っぁぁ!!!!」
悲鳴は本能的に喉まで込み上げたが、首を圧迫する白い手に遮られ、音にはならない。
反射的に身をよじろうとするが、拘束はびくともしなかった。
視線だけを必死に落とす。
首を押さえつけられて全体は見えない。
──私の足……。
別の白い手が──緋叉欺の右足先を"こちら"の方へ向けているのが分かった。
緋叉欺は、ゆっくりと視線を持ち上げ、籠女を見た。
焦点は定まらず、滲んだ世界の向こうに、ただ敵の輪郭だけが浮かんでいる。
──あー様。ごめんなさい。多分私、死ぬ。
喉の奥で、言葉にならない謝罪が崩れ落ちる。
胸の内に溜まっていたものが、堪えきれず、静かに溢れた。
目尻から、熱を帯びた雫が一筋、こぼれ落ちる。
頬を伝うその感触は、鋭い痛みよりも、ずっと鈍く、重かった。
それは苦痛への涙ではない。
その事実だけが、刃物のように心臓を締めつけていた。
命を差し出す覚悟は、とうにできていた。
だが、何も残せず、何も返せずに終わることだけが、どうしようもなく悔しかった。
緋叉欺は歯を食いしばる。
涙を止めることも、視線を逸らすこともできず、ただ静かに、己の終わりを受け入れていた。
その瞬間──
───ズダンッ!!
黄色い閃光が炸裂し、籠女の身体が横合いから吹き飛ばされる。
その閃光は──
あまりにも見慣れた色だった。
胸の奥が、ひどく静かになる。
──あー様……。
次の瞬間、籠女の身体が宙を舞った。
視界の端で、黄色の残光が弧を描く。
阿巳蛇だった。
躊躇も、予備動作もない。
籠女を蹴り飛ばした脚の軌道すら、目で追うことができない。
阿巳蛇はそのまま全身に黄色の妖気を纏い、音速で緋叉欺へと迫った。
踏み込みと同時に空気が裂け、拘束していた白い手が次々と弾け飛ぶ。
解放された緋叉欺の身体を、阿巳蛇は受け止めた。
胸元へ引き寄せ、慎重に抱き留める。
腕の中は、驚くほど安定していた。
───ダァン!!
一拍遅れて、鈍く重い衝突音が響く。
建物の壁へと叩きつけられた籠女の音だった。
その音が鳴るまでの、ほんの刹那。
阿巳蛇は──
蹴り、移動、排除、救い上げる──すべてを終えていた。
あまりにも短く、あまりにも圧倒的な介入だった。
阿巳蛇は、緋叉欺に微笑みかけた。
「すぐ気づいてあげられなくてごめんね?
帰ろっか、緋叉欺」
緋叉欺は少し笑ったあと、目を閉じた。
♦︎
籠女は、その光景を理解するまでに、わずかな時間を要した。
前方、十メートルほど先。
いつの間にかそこに立っている、白衣を纏った白髪の女。
その腕には、先ほどまで敵として対峙していたツインテールの女が抱えられている。
だが、籠女は理解した。
こんな事が出来る怪異はただ一人。
阿巳蛇。
そう認識した瞬間。
身体を起こそうとして──腹部に、鋭い痛みが走った。
「──ごふっ」
喉が震え、制御できないまま血が溢れ出る。
地面に落ちた赤を、籠女は一瞬、ぼんやりと見下ろした。
──吐血やと?
たった一撃。
それだけで、内側をここまで壊されている。
そんな分析めいた思考が頭をよぎったことを、籠女は後から激しく悔いた。
黄色い妖気が、視界の端に──いた。
「……え?」
その漏れた声ですら、"遅すぎ"た。
♦︎
次に意識が浮上したとき、籠女は仰向けになっていた。
重たい瞼を押し上げ、最初に気づいたのは視界でも痛みでもない。
"味"
それは──"金属の味"だった。
──餌の先へ──
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