第三十二話 それは、十倍返し

──閻魔えんま様……。


屍々子ししこは自分の口からこぼれた言葉を反芻する。

だが、どれだけ探っても、記憶のどこにも引っかからない。


「……てか──」


遅れて、現実が追いついた。


右腕から指先にかけて走る、無数の裂傷。

じくじくとした熱とともに、鋭い痛みが神経を刺す。


気づけば、指先から滴った血が、地面に小さな染みを作っていた。


「──痛ってえええ!」


反射的に右手を上げようとして、さらに激痛が跳ね返る。

思わず顔を歪めた、その時。


す、と視界の端で影が動く。


──え?


右の袖が、ためらいなく捲られた。


そこにいたのはあかねだった。

何も言わず、取り出した包帯を手際よく広げ、そのまま屍々子の腕に巻き始める。


指先が触れた瞬間、妙に質のいい布だということだけが、はっきりと分かった。


「屍々子、お前なぁ……」


小さく息を吐きながら、茜は巻く手を止めない。


「ちっとは考えて動けよ」


責める口調なのに、動きは驚くほど丁寧だった。

包帯に視線を落としたまま、淡々と続ける。


「お前さ……籠女かごめを助けてぇんだろ?

だったら、お前が死んだら籠女はどうすんだって話だ」


屍々子は、言葉を選ぶように小さく返す。


「でも……あそこでアタシが間に合ったから、

あのひとが助かって……」


次の瞬間、ぎゅっと力が込められた。


「痛ででででで!! 茜!! マジ痛いって!!」


悲鳴を上げても、茜は手を離さない。

包帯を巻いた腕を掴んだまま、低い声で言う。


「運が良かっただけだ。それは」


視線だけを上げ、真っ直ぐに屍々子を見る。


「"たまたま"あの人が助かって、今は"この痛みだけ"で済んでるだけだ。

そこに至る過程を考えろって言ってんだよ」


指先の力が、わずかに強まる。


「結果が枝分かれしてんなら、その先を見定めてから動け。

もっと、一緒に動いてくれるやつらを信頼しろ」


その言葉に、屍々子は言い返せなかった。


慢心していたわけじゃない。

茜や美鈴みすずを信用していなかったわけでも、決してない。


それでも、茜の言葉は正しかった。


あの瞬間。

もし二人の踏み込みが、ほんの一拍でも遅れていたら。

自分は死んでいたかもしれない。


そして何より──

茜がいなければ"絶対"に勝てなかった。

その事実が、静かに胸へ沈んでいく。


茜は包帯を巻く手の力を緩め、指先まできっちりと仕上げた。


「ほら、終わったぞ。

めっちゃ綺麗じゃね? あたしの巻き方」


満足そうに笑いながら、屍々子の右腕をバシッと叩く。


「──っ!」


叫びかけて、屍々子は反射的に腕を引いた。


「痛っ──」


言葉が、途中で止まる。


痛みがない。

指を動かしても、鈍痛すら残っていなかった。

さっきまで裂けるように疼いていた感覚が、嘘みたいに消えている。


それを見て、茜が肩をすくめる。


「その包帯、ウチらメイドしか持ってねぇ特注品だからな。

しっかり巻くと、痛みはもちろん、そこそこデカい衝撃なら吸収してくれる」


屍々子は右手から視線を上げ、茜を見る。


「……ありがと」


「いいよ気にすんな」


軽く返しながら、ふと視線を屍々子の全身へ流す。


「そういや、お前の妖気ってすげぇ色してんのな。

白とか灰色とか……お前、なにモン?」


探るでもなく、警戒でもない。

ただ、何気ない問いかけだった。


屍々子は少し考え、軽く笑う。


「それ、アタシが一番知りたい。

逆に教えてほしいくらいだわ」


その返しに、茜はほんのわずか眉を寄せる。


だが、無理に掘り下げる話じゃないと、直感的に理解したのか、それ以上は踏み込まなかった。


代わりに、視線を遠くへ投げる。

美門みかどが吹き飛ばされていった、瓦礫の向こう側へ。


「……アイツさ。

死んだかどうか、確認しに行かなくていいのか?」


屍々子はその場所に視線を移し、即答した。


「別にいい。

殺すために、ぶっ飛ばしたわけじゃないから」


そして、呟く。


「……じゃタワー」


少し間を置いて、茜が考えるように視線を上へ向ける。


「ここから蛇ノ目か……。

あたしらが全力で走っても、一時間は見といた方がいいな」


その数字に、屍々子の眉間がわずかに寄った。


「……一時間、か」


胸の奥に、微かな焦りが滲む。


茜は周囲を一瞥いちべつし、地面に残る痕跡を確かめるように視線を走らせた。


「まぁ、籠女の残り香もここで消えてっから匂いを追うことも出来ねぇしな。

……蛇ノ目に行くしかねぇわな」


そう結論づけると、内側の胸ポケットからスマホを取り出し、迷いなく発信する。


屍々子が見守る中、茜は歩き出しながら通話を始めた。


「あ、もし? 今暇か?

………お! いいねぇ! ちょっと頼みあんだけど……」


通話を続けたまま、茜は軽く手招きをする。

先ほど、美鈴が女を抱えて去っていった道──その方向へ向かって。


屍々子は無言で頷き、その背を追った。


しばらくして、通話が終わる。

ちょうどその頃、美鈴も合流してきていた。


どうやら、これから茜が指定した場所へ向かうらしい。


屍々子たちは、その場所へ走り始めた。



♦︎



がいほく区・四番街。


籠女は、ゆっくりと意識を取り戻した。


最初に視界へ飛び込んできたのは、真紅のツインテール。

隣の座席に腰を下ろし、スマホを弄る女──緋叉欺ひさぎの横顔だった。


──ここ……どこや?


頭の中で問いが浮かぶ。

だが、答えに繋がる記憶が、どこにも引っかからない。


──なんで、ウチ……。あれ? 髪ほどけとる?


思い返そうとすればするほど、そこだけが綺麗に削ぎ落とされている。

眠りに落ちる直前の感覚も、連れて来られた過程も、まるで最初から存在しなかったかのように。


両手足は縛られ、口には布が噛まされている。

身動きは取れない。


不意に、身体が揺れた。

その違和感で、ようやく状況を把握する。


周囲の暗さと振動から、今いる場所が車内だと理解する。

しかも、ただの乗用車ではない。

十数人は乗れそうな、奥行きのある車両だ。


籠女は後部座席の一番奥、中央に座らされていた。

右隣に緋叉欺。

左隣には、男が一人。


車内は薄暗く、誰もこちらを見ていない。

自分が目を覚ましたことに、気づく者はいなかった。


そのとき、胸元に走った違和感に、籠女は息を呑む。


──ない……那由多なゆたが。


首から下げていたはずの鳥籠が、そこにはなかった。


一瞬で理解する。

あれがない以上、能力は使えない。


喉の奥が、ひくりと鳴った。


それでも、車は止まらない。

無言のまま、目的地へ向かって進み続けている。


籠女は、必死に思考を巡らせる。


もし、この車内のどこかに鳥籠があるのなら。

距離さえ届けば、自分の妖気に反応させることは出来る。


白い手を使うための"指示"を通すには──

この車内は、決して遠すぎる空間ではない。


そう判断した、その直後だった。


緋叉欺が、スマホから目を離さないまま、気の抜けた声を出す。


「ねぇー。蛇ノ目まで、あと何分?」


運転席から、軽い返事が返ってきた。


「あ、あと……十五分くらいですかね!」


「ふーん。お腹空いたから、早くして」


興味なさげに言い捨て、緋叉欺はそのままスマホを耳に当てる。

着信に応じる仕草は、まるで暇つぶしの延長だった。


「……ん、むっとん? もしもし。

……あー、うん。あと十五分くらいだってさ」


気だるげな口調のまま、続ける。


「……ちゃんと乗せてるよ。れいもも、殺した女」


その一言で、籠女の眉がぴくりと動いた。


零と百。

確かに戦った。確かに勝った。


だが──殺してはいない。


因喰いんじきを奪われないよう、必死で応じただけだ。

それが、どこで、どう歪められたのか。


考えるより先に、緋叉欺の言葉が重ねられる。


「でもさー。"このブス"、零と百の因喰持ってなかったんだよね」


ブス。


ブス。


──ブス……。


その瞬間、籠女の中で、何かが音を立てて切れた。


──はあ???


理屈も状況も、すべて吹き飛ぶ。

自分が縛られていることも、口を塞がれていることも、どうでもよくなった。


緋叉欺は──完全に、地雷を踏んだ。


籠女は、鳥籠の位置を確認することすらしなかった。

怒りのまま、右手に妖気を走らせる。


──那由多!!!


その瞬間──


───バギャン!!


助手席の背後から、青緑の光が炸裂した。

鳥籠が膨張し、車体の両扉と天井を内側から叩き破る。


「え!? ちょ、待って、なにこれ!?」


緋叉欺の叫びと同時に、車体が大きく傾いた。


───ギャギャギギギギッ!


制御を失った車が横転を始める。

その衝撃で、鳥籠は左側の外へと弾き飛ばされた。


籠女は即座に意識を集中させる。

指示が、迷いなく通る。


白い手が十数本伸び、籠女を掴み、包み込む。

そのまま身体を覆うように絡みつき、衝撃を受け止めた。


鳥籠は重い音を立てて地面を転がり、

白い手は籠女の下敷きとなって、クッションの役割を果たす。


次の瞬間──

車体は左側の壁へと激突し、鈍い衝撃音を残して、ようやく停止した。


籠女は、白い手に命じて手足を拘束していた器具を砕かせ、そのまま口に噛まされていた布を引き剥がす。

肺に流れ込んだ空気が、ひりつく喉を一気に満たした。


立ち上がった、その刹那──


───ビュンッ。


風を裂く音とともに、黒い鎖が籠女目掛けて飛来する。

反射的に身体を右へひねり、紙一重でかわす。


鎖は地面を擦り、ずるりと嫌な音を立てながら引き戻された。


その、視線の先。


十メートルほど前方で、緋叉欺が指先を軽く鳴らしながら立っている。

余裕たっぷりの笑み。相手を苛立たせるためだけに存在しているような、わざとらしい仕草。


空気が、じわりと不快に歪んだ。


「マジキモいことしないでくんない?

クソダルいんですけどぉー」


その一言に、籠女は一瞬だけ瞬きをして──

次の瞬間、口元をわずかに吊り上げた。


「……なんや、その顔」


視線が、相手の目元をなぞる。


「事故現場で転んだんか思たわ。

涙袋もアイラインも必死すぎてな、地雷どころやあらへん。埋設爆弾やん、それ」


空気が、ぴたりと止まった。


緋叉欺の表情が固まるのを見て、籠女は小さく息を漏らす。

笑いとも、嘲りともつかない、乾いた音。


「せやけど安心しい」


一歩も詰めず、ただ言葉だけを投げる。


「その化粧やったらな。

闇に紛れんでも、"あ、ヤバい奴や"って一発で分かるわ」


くすり、と。


「自己主張、強すぎて逆に親切やで?」




──それは、十倍返し──

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