第三十話 式日まで、あと三日 ③
「……え?」
思わず、声がこぼれた。
口を閉じようとした。
確かに顎に力は入っている。
だが──閉じない。
自分の意思は、はっきりと身体へ命令を送っている。
それでも、"何かが引っかかり"、拒まれている感覚だけが残る。
──やばッ……。
咄嗟に、手のひらへ空気圧を集めようとする。
だが、その意識が形になる前に、冷たい金属が唇に触れた。
金属の感触が、歯列に触れる。
冷たい異物が、口腔へと半分押し込まれてくる。
何の感慨もない表情のまま、指先でカプセルを押し出した。
その時──
───ビュンッ。
視界を裂くように、ナイフが横切った。
「屍々子! 吐き出せ!」
がくり、と絡みついていた何かが外れた感覚。
口が、動く。
背後から、
屍々子は反射的に喉を絞り、
舌と息を使って、異物を吐き出した。
───カランッ。
唾液に濡れた金属音が転がった。
因喰は、美門の足元で小さく跳ね、静止する。
それを見下ろし、美門は困ったように肩をすくめた。
「あらら…。因喰無駄にすると
その名が落ちた瞬間、屍々子の視線が鋭くなる。
「阿巳蛇……?」
その問いが空気に落ちるより早く、茜と美鈴が同時に踏み込んでいた。
「てめぇさ──」
茜はナイフを逆手に、跳ねるように距離を詰める。
「──屍々子に……触んなよ」
美鈴は地を這うように滑り込み、死角から脚を刈りにいく。
挟撃──。
だが、美門は眉一つ動かさない。
抱え込んでいた女を、攻撃線から外すように後方へ流し、
茜の刃を左腕で受け流す。
美鈴の蹴りを、寸分違わぬ角度で右へ逸らした。
一連の動作は、流れるようでいて、異様なほど正確だった。
「「……っ」」
屍々子と茜は、同時に息を呑む。
その刹那──美門が動く。
「ちょっと、ごめんね」
美鈴の蹴りで前に伸びていた脚を、下から鋭く蹴り上げた。
踏み抜かれた軸が浮く。
ほんの数センチだが、武術の均衡を崩すには十分すぎる高さだった。
美鈴の身体が一瞬、宙に逃げる。
それに伴い、美門の視線が美鈴へと引かれる。
そのわずかなズレが、致命的な死角を生んだ。
茜は逃さない。
視線が外れた瞬間、ナイフを振り上げる。
「屍々子、よく耐えたな──」
美門と屍々子のあいだを断ち切るように、縦一文字に刃を落とした。
「──そのままやっちまえ」
刃が空を裂いた直後、
屍々子の身体を縛っていた違和感が、ぷつりと消える。
絡め取られていたものが、断たれた──。
──動けるッ!
屍々子は両手に空気圧を叩き込み、一歩踏み込む。
同時に──茜が刃を振り上げ、美鈴は右手を地面に突く。
身体をひねり、低空から追撃の蹴りを放つ。
三方向。
距離、速度、踏み込みの角度──すべてが噛み合う。
狙いはただ一つ。
その中心に、美門が立っていた。
その時──美門の両手から青い妖気が光った。
『
低く、淡々とした声。
言葉が放たれた途端、空気が歪んだ。
三人の、動きが止まる。
自分たちの身体が止まったのだと理解した、その瞬間に──
見えない壁に叩き返されたかのように、三人の身体が同時に後方へ弾き飛ばされる。
「「──っ!」」
短い悲鳴とともに、三人の身体が後方へ弾き飛ばされる。
だが、誰一人崩れなかった。
踏み込み、受け身、即座に重心を立て直す。
訓練された動きが、ほとんど同時に地を捉える。
その間に、
美門は、腕の中の女の身体を抱え直していた。
乱暴さは、微塵もない。
女の背と膝裏にそっと腕を回し、重さを均等に預ける。
まるで壊れ物に触れるかのように。
「僕はさ」
穏やかな声が、場に落ちる。
「あんまり女の子と戦いたくないんだけど──」
言葉に含まれるのは、譲歩でも警戒でもない。
ただの事実確認のような口調。
「──何しに、僕に会いにきたの?」
屍々子は、一歩前へ出た。
その瞳には、ためらいも迷いもない。
次の言葉次第で、即座に踏み潰すと告げる目だった。
「お前……
美門は、首をわずかに傾けた。
「……籠女?」
その名を口にした直後、何かに気づいたように視線が屍々子へと移る。
細められた目が、白い妖気をなぞる。
「ああ……なるほどね」
軽く息を含んだ笑み。
「
言葉を継ごうとした、その途中──
「ねえ! 助けて!」
美門の腕の中──女が、必死に叫んだ。
声は震えているのに、身体は屍々子と同じように硬直したまま。
逃げようとしても、指一本動かせないのが見て取れる。
だが、美門は振り向かない。
「ちょっと、静かにしててね」
穏やかな声音。
それだけで、女の口が閉じた。
自ら
"閉じさせられた"──その不自然さは、一目で分かった。
その様子を気にも留めず、茜が吐き捨てる。
「さっさと答えろよ。
じゃねえと、そのキモい"糸"全部、切んぞ」
その一言で、屍々子の中の疑問が繋がった。
──糸? アタシが動けなかったのは、それが原因……。
美門は、わずかに眉を下げて笑った。
「あれ、気づいてたんだ。すごいね」
感心すら滲ませた口調。
「どうやってわかったの?」
「──話逸らしてんじゃねえよ、タコ」
茜の視線は、美門の周囲を睨み据えている。
今この瞬間も、空間に張り巡らされた"見えないもの"を、確かに捉えていた。
「なに時間稼ぎしてんだ? バレバレの芝居してんじゃねえよ」
「……お前、籠女のこと
匂いしてんだよ、お前の身体から。籠女の匂いが」
その言葉に、場が一拍、沈黙する。
美門は、ほんのわずかに間を置いてから、困ったように笑った。
「あはは……。そこまでわかるんだ」
軽く肩をすくめる仕草。
だが、その笑みには、先ほどまでの軽薄さはなかった。
「だったら──お互い様、だよね」
声の温度が、静かに落ちる。
「
含みを孕んだ言い回し。
わざと核心を外し、想像だけを突きつけてくる。
茜の眉間に、深く皺が刻まれた。
「……まさか、てめぇ──」
言葉が最後まで届く前に、低く、押し殺した声が割り込む。
「……お互い様、って……どういう意味だ……?」
屍々子だった。
喉の奥から、引きずり出すような声音。
胸の奥で、最悪の想像が形を取り始める。
考えたくない。
だが、否定できない。
「なぁ……"お互い様"って、なんだよ……」
一歩、前へ。
白い妖気が、わずかに揺らぐ。
「……さっさと教えろ……籠女はどこに行った……」
視線が、美門を射抜く。
「……どこにやった──」
その瞬間だった。
「──答えろ!!」
───バチバチバチバチッ。
屍々子の全身から、妖気が火花を散らすように噴き上がった。
弾ける音が連なり、空気そのものが微かに震える。
美門は、反射的にその変化を捉える。
次いで──息を呑んだ。
──なんだ、この色。
妖気は、いずれの系統にも当てはまらない。
鮮やかさを拒み、濁りきることもない。
輪郭を失ったまま、異様な存在感だけを主張している。
屍々子の身体から溢れ出したそれは──
禍々しさという言葉すら追いつかない、不定形の揺らぎとなって空間を侵していた。
その妖気の色は──
名づけるなら、そう呼ぶしかない。
だが、その呼称が何ひとつ説明になっていないことだけは、誰の目にも明らかだった。
それは既知の範疇から外れ、
理解や分類といった思考を、静かに拒絶していた。
この場に存在するはずのないもの。
ただその違和感だけが、確かな圧として立ち上がっていた。
屍々子のその姿に、茜は言葉を失った。
驚き──それだけじゃない。
胸の奥を、言葉になる前の何かが押さえつけてくる。
声を出そうとして、喉が詰まる。
反論も、悪態も、何ひとつ浮かばない。
"口答えが、出来ない"。
──なんだ、この感覚……。
怖い、とは違う。
威圧でも、殺気でもない。
ただ、そこに在るものを前に、自然と頭が低くなる。
理屈ではなく、本能がそう告げていた。
思考が追いつくより先に、ひとつの概念が浮かび上がる。
名前でも、知識でもない。
ただの──概念。
「……
その名を知っていたわけではない。
理解していたわけでもない。
"概念"が──茜にそう言わせたのだ。
♦︎
その異変を、最初に"危険"として捉えたのは、美門だった。
それは判断ではなく、警告。
だが、その感覚が警鐘として鳴り切る前に──
鈍い衝撃が、腹の奥を突き抜けた。
───ズドォッ!
その音と一緒に、美門の身体は──宙にあった。
「え……?」
屍々子は、美門の懐へ潜り込み、下から鋭く蹴り上げていた。
その場にいた者は、誰一人として目を逸らしてはいなかった。
動きは視界に収まっていたはずだ。
でも──
何が起きたのか、理解が追いつかない。
思考を巡らせる。
だが、それは"速かった"とか"見えなかった"という話ではない。
脳が、結果に追いついていない。
処理される前に、すべてが終わっていた。
───ドサッ。
背中から叩きつけられる感触で、ようやく現実に引き戻される。
その視界の先で、
女を片腕で抱えたまま、こちらを見下ろしている影。
屍々子が立っていた。
「お前……アタシに嘘ついてたな?」
それは、静かに告げられる。
「……嘘つきは、泥棒の始まりって……教わってねえのか?」
──真実の色は、淡く、こちら側へ──
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