第二十九話 式日まで、残り三日 ②
ミズト邸へ辿り着き、少女を託した
しかし、そこに
砂場にはただ一つ、妖気の残り香を帯びたヘアゴムだけが残されていた。
「あーこりゃ籠女んだ。籠女の妖気の匂いするわ」
茜は、屍々子の手のひらに載ったヘアゴムへ顔を寄せ、軽く手で仰ぐようにした。
その茜の後ろで、美鈴も無言で同じように仰ぐ。
屍々子は茜を見据える。
「妖気の匂いがわかるってことは……今、籠女のいる場所もわかるのか?」
茜は、視線を屍々子から外し、ゆっくりと周囲へ巡らせる。
「わかんなくもねぇ。でもその前に──」
舗道には、衣服や靴、鞄が無造作に散乱していた。
少し前まで、そこに横たわり、苦悶の声を漏らしていた者たちの名残。
肉体はすでに失われ、存在そのものが塵へと還ったあとに残された、空っぽの痕跡だけが静かに転がっている。
怪異が死んだあとの、あまりにも無言な光景。
「──ここで何があった? 話はそっからだ」
屍々子は一度、ヘアゴムに視線を落とし、それを右の手首に通した。
黒い輪が、脈の上でぴたりと止まる。
「……この辺を歩いてた人たちが、急に苦しみだした」
記憶をなぞるように、言葉を選ぶ。
「籠女が言ってた。
茜は何かを察したように呟いた。
「因喰、ねぇ……」
その瞬間、彼女の身体から、淡い赤の妖気が滲み出す。
炎のように荒ぶることもなく、ただ空気を染めるように、静かに広がっていった。
「おい、クソガキ」
視線だけを屍々子に向ける。
「協力してやんよ。ミズト様に怒られたくねぇからな」
その一言には、貸しを作る気も、恩を着せる気もない。
ただ状況を処理するための、当然の判断だった。
茜は肩の力を抜いたまま、淡々と続けた。
「今は籠女の直接の妖気の匂いは辿れねえ。けどな──」
言葉の途中で、彼女の視線が街路へと流れる。
「あたしがいる場所から半径五百メートル以内なら、"あらゆる残り香"は拾える。
もちろん、因喰の匂いも含めて、だ」
その声音に誇示はない。
出来ることを、出来ると言っているだけだった。
「あたしの能力は『
普通なら見逃す感覚を、無理やり引きずり上げる」
一拍置き、口の端を歪める。
「……元々、鼻は利く方だけどな。"コレ"を使うと、さらにヤベぇ」
そう言って、茜はゆっくりと首を巡らせた。
空気を撫でるように息を吸い込み、わずかに鼻を鳴らす。
街は静かだった。
だが彼女の中では、見えない痕跡が無数に立ち上っているのだろう。
屍々子は、その様子を見て、つい口を滑らせた。
「……犬みたいだな」
悪気はなかった。ただの率直な感想だった。
次の瞬間、茜の視線が鋭く刺さる。
「ガキてめぇ。あたしを、あんな可愛い生き物と一緒にすんじゃねえよ」
吐き捨てるように言いながらも、どこか本気とも冗談ともつかない。
そしてすぐ、表情を引き締める。
「とにかく──だ」
再び、周囲に意識を向けたまま告げる。
「今、この一瞬でわかったことがある。
因喰の匂いが、あっちこっちに散ってやがる」
屍々子が眉をひそめる。
「あっちこっち……?」
茜は小さく息を吐いた。
「理由は知らねえが──」
一瞬、視線が街の奥へと流れ、次の瞬間には、屍々子を正面から捉える。
「──因喰が、無差別に配られてる」
淡々とした声音だった。
だが、その言葉が示す事実は、あまりにも重い。
茜は屍々子の足元を、指先で示した。
「で、もう一つ気づいたことがある」
砂場に落ちていた、飴玉の袋。
「この足元に落ちてる飴玉の袋。ここから、因喰の匂いがする」
「は?」
言い終わると同時に、茜の視線が滑るように動いた。
空き缶。
踏み潰された菓子袋。
道端に捨てられた、取るに足らない日常の残骸。
それらは、まだ新しかった。
「飴玉だけじゃねえ。
因喰が、いろんなもんに擬態してやがる。
こいつらを街中で誰かが配ってたんだろ」
ほんの一瞬、口元に皮肉めいた歪みが浮かぶ。
「金属のカプセルだけかと思ってたが……
まさか、こんなモンまで因喰に出来ちまうとはねぇ」
屍々子は、無意識に拳を握りしめた。
「それなら、その配ってる元に行けば──」
言い切る前に、茜の声が割り込む。
「待て、ガキ」
低く、しかし強制力のある声だった。
「まだ、あたしの能力のこと、なんも理解出来てねぇなぁ?」
茜はふーっと息を深くついた後、言い聞かせるように言葉を落とす。
「あたしは確かに、籠女のいる場所は直接はわかんねえとは言った。
けど、"あらゆる残り香は辿れる"って言ってんだろ」
視線が、屍々子の右手首へ落ちる。
黒いヘアゴムが、確かにそこにある。
「籠女がそのヘアゴム落としてったのは、多分わざとだ。
せめてもの痕跡としてな。
だから、こいつの残り香を辿っていけば──」
それは確認ではなく、断言。
「──籠女は見つかる」
その言葉に、屍々子の喉から思わず息がこぼれた。
押し殺していた緊張が、ほんの一瞬だけ緩む。
「……よかった」
それは独り言に近い、掠れた声だった。
胸の奥に沈んでいた重りが、わずかに浮いた気がして、屍々子は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……ありがとう」
短い一言。
だが、そこには取り繕いも、社交的な軽さもない。
ただ、今この瞬間に必要だった言葉だけが、真っ直ぐに置かれていた。
茜はその声を受け取り、すぐには応えなかった。
ほんのわずかな沈黙のあと、口角を上げる。
「お前……名前は?」
屍々子は、視線を逸らさずに答える。
「……屍々子」
♦︎
賑わい通りと呼ばれるその一角は、本来なら人の声と笑いに満ちているはずだった。
出店や露店が軒を連ね、色とりどりの看板が並ぶ通り。
だが今は、そのどれもが半ば打ち捨てられたように沈黙している。
屍々子たちは、その通りを走っていた。
籠女の妖気──わずかに残された残り香を頼りに。
ここへ至るまでの道すがら、倒れ伏す者の姿をいくつも目にした。
そして、次の瞬間には肉体を失い、塵へと還っていく光景も。
見ないふりをしていたわけではない。
だが立ち止まることはできなかった。
今、優先すべきものは一つだけだった。
「茜。次は? どっちに曲がればいい?」
走りながら、屍々子の右を走っている茜に問いかける。
呼吸は乱れていない。身体は、まだ前へ出ることを求めている。
茜は即座に答えた。
「右──」
だが、その声が途中で途切れる。
「……いや。待て、屍々子。止まれ」
その一言で、屍々子と、その後ろを走っていた美鈴は足を止めた。
茜は眉をわずかに寄せ、周囲の空気を探るように目を閉じる。
「……この辺りから、妖気の残り香が……消えてる」
背筋に、冷たいものが走った。
頼りにしていた糸が、唐突に断たれた感覚。
手がかりを失う恐怖が、胸の奥でざわつく。
その時──
進もうとしていた右手側の奥から、悲鳴が上がった。
「嫌だ!! やめて……お願い!!」
思考よりも早く、身体が反応する。
屍々子たちは同時に駆け出した。
駆けた先で目に飛び込んできた光景に、時間が一瞬、凍りつく。
女の首を掴み、金属のカプセルを今まさに口元へ押し込もうとしている男──
屍々子は、足裏に空気圧を極限まで溜め込む。
「お前、なにしてんだ……!」
次の瞬間、それを一気に解放した。
───ブゥンッ!
空気が裂ける音とともに、身体が跳ぶ。
速度は音速を越え、視界が一瞬、線になる。
気づけば、背後にいた茜と美鈴の姿は、はるか後方へ引き離されていた。
右脚を振り上げ、美門へ叩き込む。
だが、美門はそれに気づいていた。
目の前の女を一瞬で抱え込み、そのまま体勢を切り替える。
屍々子の蹴りを、回し蹴りで受け止めた。
───バスンッ。
乾いた衝撃音が響く。
無駄のない、洗練された防御だった。
美門は、屍々子の蹴りを受け止めたまま、穏やかに声を落とした。
「君。可愛いね。どこから来たの?」
次の瞬間、美門は抱えていた女をふわりと突き放した。
同時に、蹴りを受け止めていた脚を、そのまま屍々子の脚ごと踏み下ろす。
一瞬とは思えぬ踏み込みの重さ。
体勢は抗えず前へ崩れ、間髪入れず、美門の手が喉元を捉える。
「……ぐっ──」
息が詰まる。
さらに──
放り出された女が地面へ叩きつけられる寸前、その手首を掴み取り、自身の胸元へ引き戻した。
攻撃、防御、捕縛。
一連の所作は淀みなく連なり、正確という言葉すら追いつかない。
「それとも僕のファンの子?
あはは……。そんなわけないか」
喉を締める指先に力が籠もる、その直前。
屍々子は右手に溜めた空気を解放し、下から跳ね上げるようにして、その手を弾いた。
間髪入れず踏み込み、圧縮した空気を宿した左拳を突き出す──
──!?
それ以上、拳が前へ進まない。
左腕が、何かに絡め取られたかのように拘束されている。
美門は眉を下げ、微笑む。
「ごめん、驚いたよね。
でも可愛い子ってさ、どんな
その言葉が、皮膚を這う。
嫌悪が、怒りより先に込み上げた。
「お前……アタシが一番嫌いなタイプだわ」
左腕を引き抜こうとしても、びくともしない。
違和感は瞬く間に全身へ広がり、右腕も、両脚も、命令を拒む。
「……嫌いなタイプかぁ。……残念」
理解した瞬間には、すでに遅かった。
美門の指先に挟まれた因喰のカプセルが、ゆっくりと──
屍々子の口元へ、運ばれてきていた。
「はい、あーん」
──選択肢ごと、絡め取られた──
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