第二十八話 式日まで、残り三日 ①

阿巳蛇あみだ式日しきじつを宣言してから、一週間が過ぎていた。


夕刻。

ミズト邸の庭では、この日も組手が行われていた。

組手が終わった後、屍々子ししこはもう美鈴みすずの治療を必要としなくなっていた。


少し距離を置いて様子を見ていた籠女かごめが、歩み寄りながら口を開く。


「屍々子。先週と比べたら、動きにえらいキレ出てきとるな」


屍々子は呼吸を整えながら、手足に纏わせていた妖気を自然と引き戻した。

もはや意識して行う必要もなく、身体が勝手に応えてくれる。


そのまま、視線だけを籠女へ向けた。

 

「あんま実感ない。

自分の中で課題が見つかって、それを解く感じで、美鈴さんにぶつけてただけでさ」


そう言って、美鈴へ視線を向ける。

 

「結局、美鈴さんが本気だったかは、わかんなかった」


籠女はそのまま、美鈴に問いかけた。


「……なぁ美鈴さん。組手、本気出しとった?」


美鈴は、迷いなく頷いた。


「はい」

 

籠女は屍々子を見る。

 

「ほら」


屍々子は、ジトっと籠女を見返す。


「その"ほら"は絶対、嘘ですって流れだろ」


美鈴は屍々子をじっと見つめたまま、一瞬だけ間を置いた。


「ウ……」

 

屍々子は首を傾げる。

 

「ウ?」


美鈴は小さく息を整え、言葉を絞り出す。

 

「……ソではありません」


籠女は、もう一度屍々子を見る。


「ほら」

 

「なんなのお前ら」


屍々子がそう返すと、籠女の声音が少し落ち着いたものに変わった。


「ま、ウチから見ても、美鈴さんは本気やったで」


その言葉に、美鈴は何も言わず、静かに頷いた。


屍々子は小さく息を吐く。

 

「……そっか」


右手を見下ろしながら、自分の中に確かに残る感覚を噛みしめる。

積み重なった時間と、その結果。


「ならよかった」


籠女は、少しだけからかうような調子に戻った。

 

「でもアンタ、まだ寝とるときは妖気閉じてまうよな。

先週よりは、だいぶ維持できるようになっとるけど」


屍々子は籠女を見返す。

 

「あの気持ちよすぎる布団が悪い」


籠女は一瞬考えたあと、頷いた。


「確かに……ほな、布団が悪いわ」


そう呟いて、籠女はふっと息を落とした。

そのまま視線だけを屋敷の方へ向ける。

ちょうど、父が眠っているとされるあたりだった。


だが、長くは留めない。

すぐに視線を戻し、屍々子を見る。


「ほんなら、帰ろか」


屍々子は、その視線の意味に触れなかった。


この一週間、毎日のようにミズト邸を訪れていたが、籠女が父のもとへ向かうことは一度もなかった。

行かない理由があるのだろう、と。


二人はミズトに挨拶を済ませ、最後に美鈴へ礼を伝え、屋敷を後にした。



♦︎



───タンッ。


屋敷を離れてから、二十分ほど走った帰り道。


「屍々子、アカンわ」


籠女が、心底気だるそうな声を落とし、足を止めた。

屍々子も慌てて立ち止まる。


「うわ、急にどした?」


籠女は肩を落とし、大きく息を吐いた。


「屋敷に携帯忘れた。ホンマ、やらかしたわ」


「マジ?」


屍々子はそう言って、冗談めかして口角を上げる。


「そしたら、アタシが取りに行こうか?

足から空気ぶっ放したら、屋敷まですぐだぞ?」


籠女は一瞬だけ呆れたように見て、それから小さく笑った。


「あぁ……そういやアンタの足、いつの間にかそない便利になっとったな」



その時──



「……ん?」


屍々子は違和感を覚え、周囲へ視線を巡らせる。


今まで何事もなく歩いていた人々が、次々と足を止め、膝をついた。

顔を歪め、喉の奥から押し殺した呻き声が漏れている。


籠女も即座に異変を察し、周囲を見渡した。


「なんやこれ……。どないなっとんや」


そして、次の瞬間、籠女の表情が硬くなる。


「……屍々子。これ……因喰が体内に入った時の、初期症状や」


屍々子は思わず籠女を見た。


「……は?」


言葉だけが耳に残り、意味が追いつかない。

籠女は低く、確かな声音で続けた。


「しかも……妖力の使えん奴と、妖力の使い方が未熟な奴の体内に入った時の症状や」


屍々子は、呻く人々から目を離せないまま、問いを絞り出す。


「……この人らは……どうなんの?」


籠女は、一切言葉を濁さなかった。


「妖力を使えん奴は、そのまま因喰が因子に干渉する。

侵色も起きんまま……死ぬ」


その時、右のほうから、か細い声が届いた


「………ぁ……おねぇ……ちゃ……どこ──」


振り向いた先にあったのは、小さな公園の砂場だった。


幼い少女が、そこにいた。

腹部を小さな両手で押さえ、身体を震わせながら、地面に這いつくばっている。


砂に汚れた指先が、何かを探すように、力なく地面を掻いていた。


お姉ちゃん──。


その一言が、屍々子の思考を置き去りにした。

考えるよりも先に、身体が動く。


屍々子は、少女へ向かって駆けた。


───ズザァ。


踏み込んだ足元から砂が跳ねる。

その勢いのまま屍々子はしゃがみ込み、少女の身体を抱き上げた。


少女の体温は不安定で、熱と冷えが入り混じっていた。

必死にしがみつく小さな指が、屍々子の服を掴む。


顔を上げ、籠女を見る。


「籠女! こっからどうしたらいい!!」


縋るような声だった。

答えがあると、信じたかった。


一瞬の沈黙。

籠女の唇が、重く動いた。


「屍々子……。無理や」


その言葉には、希望も余白もなかった。


「無理やって、そないなったら……」



「じゃあミズトさんなら!! 今からアタシがぶっ飛ばして行けば──」



「──せやから……」


籠女の声が、屍々子の言葉を断ち切った。


「無理や言うとるやろ!!」


鋭く叩きつけられた声に、屍々子の言葉が喉で止まる。

切実さが剥き出しになった叫び。


「……籠女」


籠女の声が、かすかに震える。


「なんも知らんくせに……勝手なこと言うなや!!」


うつむいた籠女の肩が、わずかに揺れた。

押し殺してきた感情が、せきを切ったように溢れ出す。


「その時……なんとか出来るんやったら……。

オトンだって──」


言葉の途中で、はっと顔を上げた。


「──ッ! ……屍々子……ごめ……」


だが、もう遅かった。


屍々子の姿は、そこにはなかった。


籠女の目から、静かに涙がこぼれ落ちる。

止めようとしても、止まらなかった。


自分の無力さだけが、重く、逃げ場なくのしかかってくる。


その場にしゃがみ込み、籠女は呟いた。


「……ウチ……結局なんも出来へんな…」


知識も、経験も、選択肢も。

すべてを優先した結果、何も変えようとしなかった自分自身に。



初めて、反吐が出た。



♦︎



屍々子は無心で走る。

少女を抱えたまま。


両足の裏に空気を圧縮し、それを解放する。

地面を蹴るたび、速度は限界を越えていった。


少女は激痛に耐えきれず、腕の中で小さく身体を震わせた。

掠れた声が、喉の奥からこぼれ落ちる。


「……おねぇ……ちゃん……?」


屍々子は、少女の顔を覗き込み、出来る限り柔らかな声を作った。


「ごめんね。もうちょっとだけ、待ってて。

絶対……お姉ちゃんに会わせてあげるから」


返事はない。

ただ、走る足音だけが響き続けた。


やがて、見慣れた屋敷が視界に飛び込む。

屍々子は足に溜め込んだ空気圧を一気に解放し、門を軽々と跳び越えた。


───シュタッ。


無駄のない着地。

そのまま地を蹴り、扉へ跳躍する。


扉を押し開け、屋敷の中へ。

迷いなく廊下を駆け抜け、書斎の扉を勢いよく開いた。


中にいたのは、美鈴だった。

その奥に、ミズトの姿はない。


美鈴は驚くこともなく、屍々子を静かに見つめている。


「ミズトさんは!?

このままだとこの子が──」


言葉の途中で、背後から声が割り込んだ。


「……状況は察したよ」


反射的に振り向く。

そこに、ミズトが立っていた。


「……その子を預かるよ」


差し出された両手に、屍々子は一瞬だけ逡巡しゅんじゅんし、それから少女をそっと託した。


この子のことは、何も知らない。

失えば自分が壊れるほどの存在でもない。


それでも、喉の奥から絞り出した声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。


「よろしく、お願いします……」


屍々子が横をすり抜けた直後、ミズトが背後から声を投げる。


「今からの状況は、人数がいた方がいい」


足を止め、振り返る。


「え……?」


「美鈴と、あかねを連れて行くといい」


そう告げると同時に、ミズトは階段へ向かって歩き出した。


入れ替わるように、階段を降りてきたのは、美鈴と同じ装いの女。

すれ違いざま、彼女は無言で屍々子に一礼した。


茜──長身で、赤紫の髪を肩口で揃えている。

重く下ろされた前髪の奥から覗く瞳は深い緑色で、白い肌との対比がひどく印象的だった。


無駄のない立ち姿には一切の揺らぎがない。

そこに立っているだけで、場の空気が自然と引き締まるような、凛とした気配を纏っている。


だが、その口からこぼれたものは、纏っていた気配とはあまりにも不釣り合いだった。


茜はわずかに顎を引き、上から屍々子を見下ろす。半ば気だるげな仕草で。


「足引っ張ったら……殺すから」


低く落とされた声には、冗談めいた響きが一切ない。

それは忠告でも脅しでもなく、ただの事実確認のようだった。


屍々子は、即座に切り返す。

苛立ちが、そのまま言葉の角度になる。


「自己紹介してんじゃねえよ。こっちの台詞だよ」


茜は、その反応を面白がるように口元を歪めた。


「いいねえー!

めっちゃ可愛いじゃん。気に入った──」


そう言い残し、屍々子の横をすり抜ける。

数歩進んだところで、肩越しに振り返った。


「──さっさと行くぞ。クソガキ」


屍々子は小さく舌打ちし、歩調を合わせるように茜の隣へ並ぶ。

その半歩後ろを、美鈴が無言のまま続いた。


茜は歩きながら、振り返りもせずに放つ。


「屋敷の門出たら、全力で走っからついてこいよ? クソガキ」


屍々子は即答だった。


「うるせー。アタシの方が速ぇ」


三人は、籠女がいた場所へ向かい始めた。



♦︎



数分後。

辿り着いた場所に、籠女の姿はなかった。

そして、呻き苦しんでいた人々も消えていた。


屍々子は辺りを見回し、眉を寄せる。


「……あれ? 籠女?」


その声に応じるように、茜が足を止めた。


「おいガキ。この砂のところ、明らかに妖気の残り香してるヘアゴムあんぞ」


そこは、先ほど少女が倒れ込んでいた砂場だった。


屍々子は弾かれたように駆け寄る。

砂の上に落ちていたそれを拾い上げた瞬間、喉が鳴った。


黒いヘアゴム。


「これは、籠女のだ」


屍々子はそれを強く握りしめた。




──式日まで、あと三日──

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