第二十七話 式日まで
北区の中でも、ひときわ眩い繁華の灯りが集まる一帯だ。
欲望は消費されることなく循環し、夜ごと膨張し続ける。
この街では、それが当たり前だった。
その中心にそびえ立つタワービル──
内部には高級飲食店や衣料雑貨店、商業施設に加え、選ばれた者だけが足を踏み入れられる夜の空間が階層ごとに配置されている。
そのビルの中、
一般の導線から切り離されたエレベーターへ、
一人の女──
通常では決して使用できない、専用の昇降機だった。
操作盤の階数ボタンは、光を吸うような黒い特殊素材で作られている。
阿巳蛇は人差し指に、ほんのわずかに黄色の妖気を滲ませ、最上階の表示──「66」に触れた。
低く、重い振動とともに、エレベーターが動き出す。
やがて六十六階。
扉が開き、静かな廊下へ降り立つ。
数歩進み、正面の扉へ手を伸ばす。
───カチッ。
鍵が外れる乾いた音。
ノブを捻り、扉を押し開けた瞬間だった。
室内から、軽やかな靴音が弾むように近づいてくる。
「あー様やっと来たー!」
弾んだ声と同時に、さらに距離が詰まる。
「めっちゃ待ってたぁ!」
声の主は
駄々をこねるような調子のまま勢いよく抱きつき、顔が阿巳蛇の胸元に埋まる。
───ばふっ。
阿巳蛇はその衝撃を受け止める。
間近で、甘い香水の匂いがふわりと広がった。
そのまま、両手で緋叉欺の頬を包み込み、視線を持ち上げる。
淡灰色の瞳が、間近で揺れた。
「緋叉欺は今日も可愛いねぇ。
……ごめんね? 待たせちゃって」
柔らかな声音と微笑み。
指先で、ゆっくりと頭を撫でる。
その様子を少し離れた場所から見ていた
「緋叉欺ちゃん……。阿巳蛇さん時間通りだよ」
抱きついたまま、緋叉欺はちらりと振り返る。
「うっさい美門! 屋上から突き落とすわよ!」
美門は困ったように肩をすくめ、苦笑した。
「あはは……。それはちょっと遠慮しとこうかな……」
向かいに座っていた
「うぉおおい緋叉欺い! それ面白そうだな!
おい美門お!! それ一緒にやろうぜえ!!」
「いや……。それも遠慮しておこうかな」
「ねぇ、あー様! あのね──」
場の温度が一気に騒がしくなりかけた、その時。
鏑の隣に座っていた
「みんな──」
視線が、自然と阿巳蛇へ向かう。
「──阿巳蛇さんが"困ってる"」
その一言で、空気が落ちた。
ざわめきは嘘のように消え、誰もが口を閉ざす。
緋叉欺はハッとして阿巳蛇から離れ、美門の隣の席へ戻る。
阿巳蛇は無兎へ視線を向け、静かに微笑んだ。
「無兎。気を遣ってくれてありがとね」
そのまま自分の席へと歩き出しながら、淡々と続ける。
「それに……
重く、規則正しい黒のレザーヒールの音が、広い室内に響く。
そこは、異様なほどに広い空間だった。
重厚な天板の大きなテーブルを中心に、意匠を揃えた六脚の椅子が静かに配置されている。
隣接する部屋も十分な奥行きを持ち、その先にも居室が連なっていた。
生活の気配は抑えられているが、全員が滞在してもなお余裕を感じさせる空間だ。
阿巳蛇は椅子の背に、羽織っていた白衣を静かに預けた。
その所作ひとつに、場の空気が引き締まる。
その下から現れたのは、短い黒のレザートップスとショートパンツ。
レザートップスの下、引き締まった腹部が露わになり、無駄のない筋肉の線が冷ややかに浮かび上がる。
右の太腿には大きな白蛇の刺青が刻まれている。
それは誇示ではなく、ここが自分の領域であると無言で告げる印のようだった。
他の四人の視線が、示し合わせたように阿巳蛇へ集まった。
その場の空気が、わずかに張り詰める。
阿巳蛇は当然のように席へ腰を下ろす。
視界の左に無兎と鏑、右に緋叉欺と美門。
誰がどこに座るかなど、改めて言葉にする必要もない配置だった。
阿巳蛇は右肘をテーブルに置き、その手で顎を支える。
視線だけを滑らせ、無兎を捉える。
「緋叉欺から聞いたよー?
あんな目立つ場所で、ウポー使ったんだって?」
口調は柔らかい。
だが、逃げ場のない圧が、その一言に滲んでいた。
阿巳蛇は細く目を
「
無兎は即座に立ち上がり、深く頭を下げる。
「阿巳蛇さん。すみま──」
途中で、言葉が切られた。
「えー? 怒ってないよ」
阿巳蛇は、微笑んだまま続ける。
「座りな?
そんな事より……零と百の分の因喰見つけてくれてありがとね」
無兎は一礼し、静かに腰を下ろした。
「さて……」
阿巳蛇はそう呟き、椅子に掛けた白衣の左ポケットへ手を伸ばす。
──ジャキッ。
乾いた音とともに取り出された白い布袋が、テーブルの中央へ置かれた。
「……あー様。それって」
緋叉欺の声に、阿巳蛇は視線だけを向ける。
「ん?
促され、緋叉欺は勢いよく立ち上がり、布袋の口を開いた。
「……重っ!」
中を覗き込み、思わず阿巳蛇を振り返る。
「え……あー様。こんなにどうしたの?」
布袋を傾けると、因喰が次々とテーブルへ転がり出た。
数は二十前後。
原色、混色──全ての色が確認出来た。
その光景に、
無兎が息を呑み、
鏑が低く声を漏らし、
美門が思わず身を乗り出した。
阿巳蛇は、指先で布袋の口を押さえたまま、肩をすくめるように笑った。
「ちょっとね。さっき四番街でムカついちゃったことあってさ」
その声は柔らかい。
だが、言葉の端々に含まれる温度は、室内の空気をわずかに沈めた。
「だから、そこいた奴ら全員──」
言葉の途中で、ふっと笑みが深まる。
それは感情の昂りではなく、出来事を振り返る余裕の表情だった。
「──因喰にしちゃった」
あまりにも平然とした口調だった。
まるで、日常の雑事を片づけた報告でもするかのように。
その言葉を聞いても、誰一人として声を荒げる者はいない。
驚愕も、動揺もない。
──阿巳蛇だから──
沈黙の中、美門が慎重に口を開いた。
「……"適合者"は、出なかったんですか?」
阿巳蛇は首を傾げ、少しだけ残念そうに眉を下げる。
「うん。ちょっと期待したけど、全員死んじゃった」
言葉は軽い。
だが、淡々と事実だけを突きつける。
阿巳蛇は因喰から視線を離し、四人をゆっくりと見渡した。
「で、本題なんだけど」
その瞬間、空気が切り替わる。
「ミズトが関わり始めた以上、もう時間はないんだよね。だから──」
声は変わらない。
だが、そこには一切の冗談が消えていた。
「──十日後。"
その宣言は、命令でも相談でもなかった。
ただ、決定事項を告げただけだ。
「それまでに、各自準備を進めておいて。
手は抜かなくていいから」
返事はない。
だが、無兎も、鏑も、緋叉欺も、美門も、それぞれの内側で歯車が噛み合う音を立てていた。
阿巳蛇は、視線を伏せたまま静かに続ける。
「あたしは、"克服者"を集めなきゃ」
カウントダウンが、始まった。
──動。──
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