第二十六話 阿巳蛇

美鈴みすずとの組手が始まってから、どれほどの時間が経ったのか。

屍々子ししこの感覚では、すでに三時間は優に越えていた。


休憩は、一度も挟んでいない。


口の内側は切れ、舌の上に鉄の味が広がる。

打撃を受け続けた身体は重く、疲労が骨の奥にまで沈み込んでいた。


呼吸は荒く、視界の端がわずかに滲む。

集中力も、限界に近い。


それでも、屍々子は構えを解かず、美鈴を見据えた。


──昼からずっと、顔変わってないじゃん。


思わず、そんな感想が浮かぶ。

造形の話ではない。


そこには、疲労も、苛立ちも、焦りもない。

淡々と、同じ温度のまま立ち続ける姿。


──ほんと、バケモンかよ。


喉の奥で、乾いた息が鳴る。


次の瞬間、美鈴が間合いを詰めた。

左脚が鋭く振り抜かれ、右側から屍々子の腹部へ迫る。


考えるよりも早く、身体が動いた。


屍々子は姿勢を沈め、そのまま一歩踏み込む。

迫る脚に張り付くように距離を詰め、両腕で絡め取る。


右肩で担ぐように脚を抱え込んだ瞬間、ビリビリとした衝撃が腕に走った。


だが、蹴りの流れがそこで途切れる。


少し離れた場所で、籠女かごめが思わず声を漏らす。


「……おぉ。あれ、見えたんか」


脚を止められた美鈴に、ほんの一瞬の隙が生まれた。


屍々子は、その刹那を起点に、

抱え込んだ脚を引き寄せると同時に、掴んでいた腕を離した。


その軸足が、ふっと宙に浮く。

美鈴との距離が、一気に縮まる。


屍々子はさらに踏み込み、右拳を振り下ろした。


───ダンッ。


鈍い音とともに、美鈴の背中が地面へ叩きつけられる。

芝がわずかに舞い、衝撃が周囲に伝わった。


その瞬間、籠女の声が静かに飛んでくる。


「今日は、この辺で終わろか」


屍々子は、両手に巡らせていた妖気をスッと閉じた。

熱を帯びていた感覚が、引いていく。


この三時間。

籠女がミズトのところへ行った後から、妖力はずっと流し続けていた。


屍々子は荒れた呼吸を整えながら、手のひらに滲んだ汗をスカートへ軽く拭い取った。


それから、起き上がろうとしている美鈴へ、自然と右手を差し出す。


美鈴は一瞬だけその手を見上げ、静かに掴んだ。

体重を預けると同時に、屍々子の腕に力が乗り、二人は同時に立ち上がる。


間近で向き合った美鈴の姿を見て、屍々子は口を開きかけた。


「美鈴さん……ありが──」


その言葉が形になる前に、美鈴の手が伸びてきた。

右頬に、ぴたりと手のひらが触れる。


「……へ?」


思わず、間の抜けた声が漏れる。


手のひら越しに伝わってくる感触は、ひどく静かだった。

体温は感じるはずなのに、汗の気配がない。

むしろ、少し冷たいとさえ思える。


自分の手で触れた時には気づかなかった違和感に、屍々子は瞬きをする。


その様子を見ていた籠女が、声を投げた。


「屍々子。大丈夫や……そのまま動かんで待っとき」


言われた通り、視線だけをそちらへ向けた瞬間だった。


頬に触れたままの美鈴の手から、淡い緑色の光が溢れ出す。


──これって。


美鈴の妖気は緑だった。


脳裏をよぎるのは、昨日聞いた説明。

緑因子の能力は、妖力を毒へと変換できる──


そこまで思い至った瞬間、背筋がひやりとした。


──え、もしかして……毒入れられる??


内心でそんな不安が上がった、その時。


──あれ。痛みが……。


頬の痛みが、スッと引いていく。

口の中に残っていた傷の違和感も、同時に薄れていった。


目を丸くする屍々子を見て、籠女が肩を揺らす。


「美鈴さんは緑の妖気やからな。

傷治したりするんも出来るんや。

この程度の傷やったら、一分くらいで完治するで」


治療を受けたまま、屍々子はほっと息を吐き、思わず本音をこぼした。


「……毒注入されなくてよかった」


その一言に、籠女はクスッと笑った。


「昨日はそこまで細かく説明してへんかったけどな。

緑の因子は、妖力の"性質と特性を変更"する能力──これは昨日さらっと教えたな」


笑みを残したまま、少しだけ真面目な声色になる。


「ほんでな。毒にするには、その毒の性質をちゃんと知っとかなあかん。

知らんもんの特性には、変えられへんからな」


屍々子は顎に指を当て、頭の中で情報を整理する。

慎重に言葉を選びながら、問いを投げた。


「……じゃあ美鈴さんは、この傷を治す知識をちゃんと知ってて。

それに合わせて、妖力を流してる……ってこと?」


籠女は小さく頷いた。


「大体そんな感じやな。

まぁ、それを成立させるだけのフィジカルがあってこそ、やけど」


美鈴は、屍々子の頬から静かに手を離した。


残された余熱を確かめるように、屍々子は自分の顔に触れる。

そこには、殴打の痕も、切れたはずの傷もなかった。


腫れは引き、痛みもない。

最初から何もなかったかのように、皮膚は滑らかだった。


「……すご」


思わず、感嘆がこぼれる。


籠女のほうでも、同じように治療が続いていた。

昨日から今日の昼にかけて刻まれた傷に、緑の妖気がゆっくりと巡っていく。


光が触れるたび、痛みが引き、赤みが薄れていく。


その最中、籠女が何気なく視線を向けた。


「屍々子。アンタ、ずっと妖気出しっぱなしやったけど……身体、平気なん?」


唐突な問いに、屍々子は一瞬だけ考える。


「ん? 別に、なんともないけど」


確かに疲労はある。

けれど、痛みは"今、消えたばかり"だ。


籠女はその返答を聞いて、感心したように目を細める。


「大したもんやなぁ。並の怪異やったら、そない長時間妖気出しとったら、とっくに倒れとるで」


屍々子は首を傾げる。


「……それって、どんくらいヤバい?」


籠女は即座に答えた。


「妖力の量で言うたら、ウチより遥かに多いわ。

今まで出会った怪異の中でも、ここまでのはおらんかった」


「え……」


思わず声が上がる。


自覚はない。

疲れてはいるが、妖気を出そうと思えば、まだ余力は感じられた。


籠女は治療を受けながら、美鈴のほうへ声を投げる。


「美鈴さん、もう大丈夫やで。

これだけやってくれたら、治ったも同然や」


その言葉に応じるように、美鈴は右手の妖気を閉じ、籠女の腕からそっと手を離した。


そして一礼。

流れるような動作で踵を返し、屋敷の方へと歩いていく。


最後まで無駄のない所作。

その背中を、屍々子と籠女は並んで見送った。


やがて籠女が、屍々子へと視線を戻す。


「ほな、しばらくは毎日ここ通って、組手やぞ?」


屍々子は嫌な顔ひとつしなかった。

胸の奥に、じわりと熱が残っているのを感じていた。


「……わかった」


籠女はそれを聞き、軽く息を吐いた。


「ほんなら、あとはミズトさんに挨拶して、今日は帰ろか」


二人は並んで屋敷へ向かって歩き出す。

芝生の感触が足裏から離れ、夕方の空気が少しだけ冷えてきていた。


その一方で──


ミズト邸から北へ数十キロ。

骸北区がいほくく・四番街。


そこは、浮浪と汚れが沈殿する場所だった。

吐き捨てられた悪意と欲望が、地面に染み込み、

骸区の中でも、濁りきった空気が澱む一帯。


その一角に建つ、打ち捨てられたビル。


薄暗い一室の床には、二十人近い男たちが転がっている。

誰一人として動かず、うめき声すら上げない。


その中心に、一人の女が立っていた。


片手にはスマートフォン。

周囲を一瞥することもなく、淡々と通話を続けている。


緋叉欺ひさぎぃ? ごめんて。電話出れなくて。

ほら……怒んないの。緋叉欺は可愛いんだからずっと笑ってて」


床に転がる男たちを踏み越えながら、女は歩く。


「……うん。……うん、わかってる」


足取りは軽い。

血の匂いも、崩れた光景も、意識の外にあるかのようだった。


「え? ウポーが? ……そうなんだ。

無兎むとには、また作ってあげるって伝えといてくれる?」


言葉の端々は柔らかい。

だが、その声には一切の揺らぎがなかった。


「うん……そこは緋叉欺に任せちゃおっかな。

二時間後ね。みんな集まるよう、連絡しといて」


通話を終えると、女はスマホを下ろす。


長く、艶を帯びた白髪。

光を反射するそれは、まるで生き物のように背中へと流れ落ちていた。


前髪は無造作に流されているが、乱れはない。

その隙間から覗く瞳は、鮮やかな黄色。

蛇のそれのように、細く、縦に裂けた瞳孔が、静かにこちらを射抜く。


白い肌に、作り物じみたほど整った顔立ち。

美しい、という評価すら、生温い。


その上から羽織られた白衣は、

この場には似つかわしくないほど質が良く、清潔だった。


その女の名は──阿巳蛇あみだ


阿巳蛇は、小さく息をついた。


「あーあ……」


軽い調子の声。

だが、その一言で、この場の空気がさらに沈む。


「引き返せなくなっちゃったね」


誰に向けた言葉でもない。

それでいて、逆らう余地を一切許さない響き。


視線を伏せ、わずかに口元を緩める。


「──三途さんず




──闇の核は、動き出した──

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