第二十五話 左手の妖気

屍々子ししこの拳が、美鈴みすずの左頬を正面から撃ち抜いた。


乾いた衝撃が伝わり、美鈴の身体がわずかに後ろへ流れる。

だが、崩れない。体勢は保ったままだ。


屍々子は、その隙を逃さず踏み込んだ。


───タンッ。


芝を踏みしめる音。

勢いのまま、左手を強く握り込み、その拳を美鈴の顔面へ伸ばす。


しかし──


拳は、届かなかった。


美鈴の右腕が、流れるように内側から入り、屍々子の拳を弾く。

力任せではない。無駄のない、洗練された動き。


その時だった。

美鈴の姿が、屍々子の視界から消えた。


「──!?」


気づいたときには、遅かった。


足首に──鈍い衝撃。


───ドカッ。


美鈴は身を低く落とし、そのまま流れるように右脚を振り抜いていたのだ。

鋭い足払いが、屍々子の足首を正確に捉える。


視界が一気に反転し、空が広がる。


「……まじか」


その悟りが、口からこぼれた。その一瞬。


鈍く、重い音とともに──

屍々子の顔面に、美鈴の拳が叩き込まれた。


───ダゴッ。


意識が揺さぶられ、屍々子の身体はそのまま地面へ叩き伏せられる。


芝の冷たさが、背中越しに伝わってきた。


倒れたまま、屍々子は思考を巡らせる。

美鈴の拳が屍々子へ迫った時に感じた"何か"を。


──さっき見えた、"あれ"。なんだったんだ。


拳を避けた、あの一瞬。

確かに、何かが"先"を知らせてきた。


目で見たわけでも、音を聞いたわけでもない。

空気そのものが、皮膚に触れてきたような感触。


まるで──

"空気そのものが、自分の五感の代わり"になったかのような感覚。


輪郭はまだ曖昧だ。

掴めたとは言えない。


それでも、確かにそこに"在った"。


考える間もなく、視界の端に影が差す。

美鈴は無言のまま、屍々子へと手を差し伸べていた。


屍々子は一瞬だけその手を見つめ、素直に掴む。


「あ、ありがと……」


引き起こされながら、息を整える。


その様子を少し離れた位置から眺めていた籠女が、にやりと口を開いた。


「屍々子。アンタ、やるやん」


からかうようでいて、どこか本気の声音。


「美鈴さんにパンチ当てたん、結構ヤバいで?」


「……そうなんだ」


実感はない。

自分が"やれた"という感覚は、ほとんどなかった。


これは組手だ。

だが、もし本気の戦闘だったなら──

自分は、間違いなく死んでいる。


美鈴が本気を出していないことも、説明されるまでもない。

呼吸、間合い、力の抜き方。

すべてが、まだ余力を残している。


そして──


──あのデカブツも、本気じゃなかった。


別に悔しさはない。

だが、どこか自覚がない焦りがあった。


美鈴は、屍々子がきちんと立ったのを確認すると、何も言わず籠女に示された位置へと戻っていく。


籠女は、腕を組んだまま屍々子を見る。


「そういやアンタ、左手から妖気出してへんけど。なんか制限しとるんか?」


屍々子は一瞬キョトンとし、それから自分の左手を見下ろした。


「そういえば……」


言われて、初めて意識した。


「右手で妖気出せるから、考えたことなかった」


籠女は小さく目を見開き、すぐに美鈴へ声を投げる。


「美鈴さーん、ちょい待っとって!」


美鈴は無言で頷いた。


籠女は屍々子へ向き直る。


「ほんなら、左手から妖気出してみぃ。

右手と要領変わらんと思うで」


屍々子は軽く頷き、意識を左手に集中させる。

右手と同じように、妖力を流し込もうとした。


──あれ?


何も起きない。

左手の内側は、静まり返ったままだった。


籠女はその様子を見て、すぐに近づいてくる。


「どないした?」


屍々子は左手を見つめたまま答えた。


「……右手と同じ感覚で妖力流そうとしてるのに、左手に妖力が流れて行かない」


籠女は少し考え込み、ふと何かに思い当たったように眉を上げた。


「なぁ屍々子。今、両足の妖気どないなっとる?」


「え?」


屍々子は足元に視線を落とす。


「いや、出てないけど──」


籠女はすぐに言葉を重ねた。


「──ちゃうちゃう。

アンタの言葉で言う"暖かい感じ"、両足にはあるか?」


屍々子は少し考えてから、頷いた


「うん…。それは、ある。

走ってる時に、足の裏から爆発した時からずっと。

でも、妖気は出てない」


籠女は目を細め、口元に人差し指を当てる。


「……屍々子。そのローファー脱いでみ」


屍々子は苦笑いにも似た表情を浮かべる。


「まさかの?」


そう思いながらも、言われた通り右足の踵を靴から離した、その瞬間──


もわっ、と。


まるで湯気のように、靴の中に溜まっていた妖気が一気に溢れ出す。


白く揺らめく気配が、足元に広がる。


思わず、二人同時に声が出る。


「「うわ!!」


屍々子は反射的に片方の靴を脱ぎ、黒い靴下越しに芝生へ足を下ろした。


湿り気を含んだ芝の冷たさが、じかに伝わってくる。


顔を上げると、籠女と目が合う。

籠女もまた、同じような顔で屍々子を見ていた。


言葉にしなくても、状況は明白だった。


屍々子は小さく息を吐き、左足を持ち上げる。

そのまま右手で靴を掴み、スポッと引き抜いた。


もんわぁ。


再び、白い妖気が立ちのぼる。


「「うわ!!!」」


籠女は頷いた。


「……まぁ、つまりはこういうことや」


「どういうことだよ」


即座に突っ込む屍々子に、籠女は指先で地面を示す。


「今のアンタな。その状態やと、左手に回す分の妖力が足りてへんねん」


屍々子は脱いだ靴を手に取りながら、眉をひそめる。


「足りないって……潜在妖力とか? それを引き出せって話?」


「ちゃうちゃう」


籠女は首を振る。


「潜在妖力は、ウチでも触れられへん。そんなもん引き出せる怪異、滅多におらんわ」


少し間を置いて、続ける。


「簡単に言うとな──妖力の流し方の問題や」


屍々子は首を傾げた。


「……つまり?」


「ほな、例え話な」


籠女は軽く息を吸い、言葉を選ぶ。


「アンタの身体にある妖力を全部で100とするやろ。

右手に50、両足に25ずつ流しとったら……左手に回す余裕、あるか?」


屍々子は少し考えてから、ぽつりと答えた。


「……ない、か」


「せや」


籠女は、肯定の代わりに小さく笑った。


「右手を25に落として、その分を左手に回せばええ。理屈はそれだけや」


「なるほど……」


屍々子は靴を履き直しながら、納得したように呟く。


籠女は、そこで付け加える。


「ただな。別に、使わんとこに妖力流す必要はあらへん」


「使わへん部分を閉じたら、その分の妖力は他に回せる。

流れを絞れば、総量はずっと100のままや」


屍々子は、籠女の言葉を頭の中で転がす。

妖力の流れを想像し、身体の内側をなぞるように意識を巡らせる。


「じゃあ、右手閉じてみっか……」


右手の感覚を、ふっと切る。

熱が引くように、妖気の流れが静まった。


次に、左手へと意識を沈める。


内側から、細い流れが走った。

胸の奥を抜け、肩を通り、腕へ──


──あ、来た。


左手のひらから、淡く妖気が立ち上る。

白い揺らぎが、確かにそこにあった。


それを見て、籠女の口元が緩む


「上出来やん」


屍々子は左手を見つめたまま、静かに息を吐く。


「……把握しとかなきゃ。自分の妖力の流れ」


「せやな」


少し間を置いてから、籠女は続けた。


「応用の話になるけどな。アンタの右手の空気圧、ほんまは30で足りる技を、50で撃っとる可能性もある」


芝生に残った足跡を視線でなぞりながら、言葉を重ねる。


「せやから、出力する時は。

"どれだけ使っとるか"を自分でわかるようになったらええ。

それだけで、戦い方はだいぶ変わるで」


少しの沈黙。


屍々子は、ゆっくりと息を吸う。


「よーくわかった。自分の足りない部分が──」


屍々子は、籠女に視線を向ける。

その瞳には、迷いよりも決意が宿っている。


「──絶対、モノにしてやる」


籠女は一瞬キョトンとし、それからくすっと笑った。


「"モノにする"、ね」


芝生越しに、美鈴の立つ位置へ視線を投げる。


「ほんなら。まずは美鈴さんを"本気"にさせるくらいやないとなぁ」


すると、屍々子は正面に立つ美鈴へ視線を向ける。


「美鈴さん」


黒い瞳が、まっすぐこちらを捉えた。


「もう一度、お願いします」


美鈴は短く、しかし確かに頷く。


その様子を見届けてから、籠女は軽く手を振る。


「ほんならウチ、一旦ミズトさんのとこ行ってくるな?」


だが、屍々子の耳には届いていなかった。

気合いが入りすぎている。


籠女は苦笑し、静かにその場を後にした。



ミズト邸へ──



籠女は、書斎の扉の前で一度呼吸を整える。


───コン、コン、コン。


「ミズトさん。ウチやけどぉ」


扉を叩くと、すぐに内側から気配が動いた。


ギィ、と控えめな音を立てて開いた扉の向こうに立っていたのは、美鈴と同じ格好をしたメイド──さくらだった。


籠女の姿を認めると、何も告げずに深々と頭を下げる。

腰まである綺麗な黒髪が、床へ落ちそうになる。


「ああ、桜さん。こんにちは」


挨拶を交わした、その奥。

卓の椅子に腰掛けていたミズトが、穏やかな声を投げる。


「桜。少し席を外してくれないか」


「はい」


機械的な返事とともに、桜は一礼し、静かに書斎を後にした。


───パタン。


扉が閉まる音を確かめてから、ミズトは視線を籠女へ戻す。


「籠女。因喰いんじきは持ってきてくれたかい?」


「うん。これでええ?」


籠女は手のひらに載せた黄色い因喰を、卓の前へ差し出した。


「とりあえず一個だけやけど」


「籠女。ありがとう。またお願いするね」


ミズトはそれを受け取り、因喰に視線を落としたまま続けた。


「……ところで、あの白い妖気の子とは仲はいいのかな」


籠女は迷いなく口を開いた。


「うん。めっちゃいい子やし、一緒におって楽し──」


「──籠女」


不意に名前を呼ばれ、言葉が途切れる。


ミズトは変わらぬ穏やかさで微笑む。


「……あまり情は入れないようにね」







「………うん」

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